劇場版「少女☆歌劇 レヴュースタァライト ロンド・ロンド・ロンド」+α インプレッション

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見に行ってまいりました、劇場版「少女☆歌劇 レヴュースタァライト ロンド・ロンド・ロンド」

再生産総集編という触れ込みの通り、TVアニメ12話を再構成、新規パートを差し込んだ構成でしたが一筋縄でいかないこの作品です。やはり仕掛けてきました。というわけで、インプレッション記事をざっと。

先日ネット配信されたオンライン公演(通称は舞台#2.5、でいいんだろうか?)にもやや触れつつ、見ていこうと思います。なお完全にネタバレなので、とりあえず以下に「続きを読む」を配置しておきます。その点を了承しつつご覧ください。


《ざっくりと映画の構成と新規パートのお話。》

色々語り口はありますが、最初に総集編映画として見た印象としては、自分のTwitterでも呟きましたけどもエヴァ劇場版の内の一本EVANGELION :DEATH (TRUE)2」の構成に近いなあという印象を持ちました。以前よりファンの内々では古川監督の庵野秀明監督からの影響も語られていましたが、今回それが露わになったという恰好ですね。以下はDEATH (TRUE)2の予告



劇場版「EVANGELION :DEATH (TRUE) ^2」


これも現在公開停止になっていますが、次に劇場公開予定となっている完全新作映画の予告がこれのオマージュになっていたりしてたんですね。今更な感じですが。



【特報PV】劇場版「少女☆歌劇 レヴュースタァライト」

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とまあ、これを見る限りでもオマージュっぽい取り扱われ方ですが、再生産総集編本編ではテロップの扱われ方がとてもエヴァっぽかった(マティス明朝体ではないけど、それっぽい明朝体フォント)ので、アレを知っていると「それはひょっとしてギャグでやっているのか?」みたいな所もあったりでニヤリと行けるのではないかと。

注目の新規作画パートの方はインタールード的にななとキリンの対話で繋げられていく構成になっていてその為か、映画自体も7パートに分かれている感じ。再構成の仕方もだいぶ入り組んでいて、


オープニングが再生産バンクからタイトル
→1話ダイジェスト、
→3話レヴューシーン、4話回想~8話回想~4話の夜の東京タワー
→2話・5話・6話のレヴューシーンミックス
→7話・8話・9話のダイジェスト&レヴューシーンミックス
→11話、12話のメドレー
→新規パートからのエンディング、ラストの新規パート


という構成。レヴュー曲も大小のアレンジ重ねられていて、「恋の魔球」と「花咲か唄」「The Star Knows」が別バージョン、「星々の絆」がボーカル配分、「世界を灰にするまで」「誇りと驕り」「RE:CREATE」「スタァライト」が演奏アレンジ、残りはそのまま使用されてます。曲そのものが差し変わってるのもありますので、どうなっているのかは行ける人は劇場に足を運んでご確認いただければと思います。


新規パートについては、明らかにTVアニメ本編以後の会話になっていますかね。同時に完全新作映画の前振りになっていて、エンディング前の新規パートで色々と謎をばらまいた感じでしょうか。この辺はあとでもう少し詳しく書きます。パンフレットに収録されている古川監督の発言を見ている限りでは、物語構造の転換点として描かれているという意味合いの方が強いようなのであんまり深刻に考えなくてもいいかなあとは思います。どちらにしても物語のフェーズが上がったサインだという風には自分は認識していますかね。あれを紐解くカギはすでに再生産総集編の新規パートや、先だって配信されたオンライン公演だったり、舞台♯3のタイトルだったりで提示されているものだと思います。


※追記
ちなみにすでにSNS周辺で喧々諤々言われてる、新規パートでのななの立場って、単純に考えればTVアニメ最終話で華恋が「戯曲スタァライト」新章を展開してしまった為に生まれた9人目の配役ですよね、恐らく。最終話ラストパートや舞台#2冒頭の聖翔祭100回公演で新たに挿入された、恐らくは星摘みの塔(注:舞台版での名称はタワー・オブ・ディスティニー)の管理者、もしくは幽閉された6人の女神たちを守る番人という役どころがアニメ最終話以後の世界、つまり劇場版の世界でのななに適用されている、いう風に見てます。運命の舞台をループしてた頃に比べると、過去の眩しさに囚われているというよりはこれから生まれてくる未来やキラめきに対して、落ち着いて見守ろうとしている印象を持ちますかね。


lovezow.jp


この後の項でリンクを出す過去記事でもタロットカードの解説を使っていますが、個人的に再生産総集編の新規パートのななは「女教皇」の正位置(キーワードとしては直観的、知性、神秘的、冷静、安心、理知的、精神性、思慮深い、受動的、慎重、清らか)を象徴しているように思うんですよね。反対にTV版は逆位置(キーワードは消極的、冷淡、うぬぼれ、不安定、秘密主義、孤独、冷たい、神経質、頑固、高慢)だったんじゃないかと。ひかりと華恋に運命の舞台を断ち切られ、純那によって救われたななだからこそ、精神的な安定を取り戻している、という風に思います。でないと舞台#2で青嵐総合芸術院の穂波氷雨を救えていないと思うんですよね。あれも純那という重石があったのも間違いないですが、なな自身が精神的に成長していないと成り立たない展開でしょうし。舞台#2がTVアニメ以後の物語だと考えれば、再生産総集編の新規パートのななも同様ではないのかと。少なくともTVアニメ時の危うさを自分はあまり感じなかったのですが、いかがでしょうか。


※補足
Twitterから本記事の反応にて、前日譚コミカライズ「少女☆歌劇 レヴュースタァライト Overture」にて第100回聖翔祭のななの配役について言及があった、というのを見ましたので裏付けのために。


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少女☆歌劇 レヴュースタァライト Overture」最終2巻最終話P.142のコマにて。「塔の導き手 / 人であって人ならざる者 / 私(クレール)とフローラとすべての女神たちを永遠に見守るすべての母」とあるように、再生産総集編の新規パートのななの立ち位置そのままのニュアンスがここにすでに出ていた事になります。やはり第99回聖翔祭での絶望の女神ではなく、第100回聖翔祭の配役に基づいた立ち振る舞いであるのは間違いなさそうですね。そうなるとやっぱりちょっと達観した目線から再生産総集編を眺めているのと同時に、この先の新作劇場版に対しても正面から立ち向かえる力強い姿勢が見て取れるのも頷けますね。

こちらから呟きを見ただけですが、指摘していただきありがとうございました。

《でまあ、結局の所。今後はどうなるのか?》


で、今後のお話としてどう展開されていくのかという話ですが。ひとまず筆者の書いた記事や発言を引用しておきます。


terry-rice88injazz.hatenablog.jp
terry-rice88injazz.hatenablog.jp


ブログ記事だとこの辺りですかね。どちらも華恋の問題点について触れている記事ですね。リンクを張っておきますのでお暇なときにでもご覧いただけばと。
個人的には「少女☆歌劇 レヴュースタァライト」は主人公の愛城華恋の存在に舞台#1の時よりずっと注目していて、上記リンクの記事や以下の呟きでもわかると思うのですが、これから先の展望を読むとこんな感じなのかと。



とにかく作品的には華恋の存在が非常に厄介なんですよね。なにせ最初は「朝もまともに起きられない、主役に手にする興味もない」なんて言われてしまっている子なので、人物としての特性が見えてこない分だけ、主役を張っている難しさがあるわけです。それが舞台やアニメに限らず、作品にも表れていて、存在感はあるんだけど逆に彼女が主体的になって始まったものはそこまで多くないんですよね。常に何かを受けて、反応する形で彼女はキラめきを見せている。それが作品全体の構造にも影響が強く出ているので、華恋自身の位相が変わると作品全体の様相も全く変わってしまうわけです。



そういった影響が出ているのがこの上二つの舞台#2についての呟き。TVアニメ以後の物語として展開された舞台#2で華恋は燃え尽き症候群にかかってしまい、舞台(=ひかりとの約束)への渇望を失ってしまったために、物語がほとんど動かなかった反面、周囲の成長や葛藤がかえって目立つ格好になっていたんですよね。結果的に「まだ道の途中」ということで事なきを得るわけですが、華恋のストーリー的には進むべき道を見失って、元の道に戻った以上の展開がなかった、というのが舞台#2の難点でもあったわけです。



華恋自身の物語、というか特異性は ↑ の呟きや彼女がレヴュー時に使用する武器の名前が「思春期の可能性」でもあることからも明らかではあるんですが、思春期というモラトリアムの中でしか通用しない可能性でもあり、強さであることが設定からも裏付けられてしまっている、という所ですね。

ですから、今回の再生産総集編新規パートでななが「華恋ちゃんにとっての舞台って、なにかな」と投げかけているシーンがあって、再生産総集編つまりTVアニメ本編では舞台=ひかりという結論が見出されているわけですが、舞台#2ではこの結論がある以上、ひかりとの約束が満たされてしまった華恋自身に発展する余地が無くなってしまった。ゆえに彼女の中において舞台の解釈が変容し始めている可能性が出てきたのが舞台#2に「Transition(遷移)」というタイトルがついた理由なのだろうと思います。事実、映画が終わった直後の完全新作映画予告で、華恋が「私だけの舞台ってなに?」と呟いているわけです。


これらを踏まえると、先月(20年7月)にネット配信された初のオンライン公演(舞台#2.5)の内容が非常にカギとなってきます。こちらもTwitterの呟きを以下に引用します。



舞台#2.5は次の舞台#3の前日譚として急遽制作された内容で、物語的にも触り程度の内容だったわけですが振り返って思い出してみると、このオンライン公演もちゃんと本編の一部として描かれていたのだと改めて気付かされます。以下、あらすじ。

最上級生になる99期生たちが新入生の歓迎レクリエーションで実技演習と物語解釈を披露することとなり、物語解釈に華恋が指名された。が、ひかり以外の7人は1年時の忌まわしい記憶を思い出すこととなり……


ほとんどオンライン公演の内容になっちゃいますが、非常に重要なのは1年時の時も、次の3年時の演習も物語解釈を華恋が担当しているのです。ここでの物語解釈とは、「みんなのよく知る物語を独自に解釈して舞台を構築する」事。つまり華恋が脚本と舞台演出を一手に担うわけです。で、先の呟きでは案の定、華恋の物語解釈、つまりは彼女の解釈する「舞台」が神楽ひかりそのものであったために、あらぬ方向へ話が飛んでしまい、訳の分からない周囲が右往左往して、めちゃくちゃになってしまったという顛末。


再生産総集編を見た後だと、これって物凄い重要な布石ですよね。その際、発表となった舞台#3のタイトルがGrowth(成長)」である事からも、華恋の成長が促されようとしている。というより再生産総集編で出てきた情報を踏まえると、彼女が「自身の舞台」を解釈することイコール、舞台#3で任されることとなった物語解釈でもあるのです。つまり物語を解釈するという事自体が、自ら(と向き合う舞台)を解釈することにも結び付いていきます。反面、再生産総集編エンディング直前の新規パートで触れられた「舞台少女の死」というのもこの物語解釈に大きく関わってくるのは間違いないでしょう。「舞台」を殺すも生かすも、それは「舞台少女」次第だからです。舞台#2.5で描かれた1年時の物語解釈はだいぶコミカルに描かれていましたけども、そういう危険性も多分に孕んでいた失敗だったわけです。


※追記
同様にソシャゲの少女☆歌劇 レヴュースタァライト -Re LIVE-」(通称スタリラ)のメインストーリー第二部(と言っていいよね?)である「削劇」シリーズ。TVアニメの脚本を担当した樋口達人さんが執筆したストーリーですが、第一部も「戯曲スタァライトという『生きた物語』が消え(死に)ゆくのをレヴューオーディションで繰り広げられる舞台少女のキラめきによって守ろうとする」のがストーリーの根幹部分でした。これが第二部においては、舞台を演じるはずの舞台少女の消失(聖翔・シークフェルト)や、あるいは舞台を学び、演じる「場」の消失(凛明館)、あるいは舞台少女の「キラめき」の消失(フロンティア)「削劇」として描かれていました。そして、それらは改めて「再生産」されることによって取り戻されるストーリーでしたね。


スタリラでのメインストーリーを振り返ってみると、何かが消失されることによって生まれる弊害舞台少女たちに待ち受けている困難として取り扱われてきている印象ですが、これはこのままTVアニメ版11話で描かれた華恋にとっての「ひかり(≒キラめき≒舞台)の消失」とも重なってきますね。TVアニメ版では「二人で一つの物語」としてお互いの運命を交換している以上、華恋とひかりの「舞台」はそれぞれが相互関係として不可欠な存在だったわけですが、翻ればどちらも結果的に「再生産」を果たしています。スタリラの「削劇」についても、対象が消える以前以後ではなにかしらが良かれ悪かれ更新されているのを踏まえると、TVアニメの展開を通過したことで「二人で一つの物語」というフレーズは「解体・再生産」されているはずです。これが顕著になっているのが舞台#2であるのは先ほども語っていますが、彼女たちの「物語(=舞台)」においてはもはやお互いがお互いを不可欠としていない形に更新されているんだと。いやもちろん、TVアニメ最終話は「お互いがお互いの望むスタァ(星)」だったと結ばれてもいるわけですが、華恋自身の、あるいはひかり自身の「舞台」を物語るものではなくなっている、という風にも感じてしまいます。双方向に理想の対象であるのは変わらないのですが、目指すべき「舞台(物語)」は「二人で一つ」から「私だけ」へと変わってきているんですよね。ひかりは一足先に「自分自身の舞台」を見据えている印象が舞台#1、TVアニメを経て、舞台#2において強めている一方、では華恋は? という事なんだろうと思います。


そう見ていくと、これから先の完全新作映画や舞台#3において、「私だけの舞台」を物語解釈する華恋の姿は容易に浮かび上がってくるのではないかと。「舞台少女」として「舞台」を、そして「自身」をどう捉えるかによって、「思春期の可能性」の先を見据える必要を、主人公として課せられるのではないでしょうか。


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「舞台少女」が生きていないと「舞台」も生きてこない。

この画像はTVアニメの一番最初のトレーラーのものですが、結果的にここにたどり着くのではないかと思います。「舞台少女」たちはなんのために「舞台」を求め、「舞台」はどんな「舞台少女」を求めるのか。華恋に課せられた「私だけの舞台」というのは「思春期の可能性」から「自分の将来」を解釈しなければならないのと同時に彼女自身が生きる「舞台」そのものを解釈しなければならない、のですね。「舞台少女は日々進化中」だからこそ、今後描かれるだろうハードルも十分高いものとなりそう。


※追記・追記・追記
もうひとつ。再生産総集編パンフレットで言及されている華恋の芸歴について。
彼女もまた聖翔の狭き門を叩き、通過してる事への裏付けであり、ひかりとの「約束(運命)」から見ても地続きの研鑽があった事の証明でもありますね。ただ舞台版やTVアニメで当初言われていた「主役に手にする興味もない」という点については、引っ掛かりもあります。芸歴には主演の舞台が記載されているからです。これはいったいどういう事なのか。


terry-rice88injazz.hatenablog.jp


それについては、↑ の過去記事からまた少し引用したいと思います。スタリラに登場する他校メンバーの武器を解説した記事ですが、今年(20年)5月の公式発表にてスタリラへの実装が決まった、舞台#2登場の青嵐総合芸術院メンバーの武器解説を6月に書き加えています。その中の一人、柳小春についての解説から以下に抜粋引用。

また舞台#2でも語られているように、「仲間に気を使って、自分がやりたいと言い出せない」ために役を演じたいという飢餓感に欠ける気質であることが指摘されています。ここまで書くと、なんとなく見えてきますが小春と対比になっているのは実は華恋なんですよね。それも物語が始まる以前の華恋です。舞台においてもアニメにおいても華恋は当初「主役を手にする興味もない」と揶揄される人物であるのが明示されていますが、小春はその天性と気質ゆえに自ら前に立つことはなく、他者が選び出した結果に乗っかっていたのみに過ぎない、という描写が舞台#2のコミカライズで脚色されていて作品への上手な肉付けとなっているのですが、当初の華恋が「主役を手にする興味」もなかったのに対して、小春は「望まなくても主役を手にしてしまえた」のが大きな違いなのです。両者とも役を演じたいと言う飢餓感に欠ける点では共通している。もっとも華恋はひかりとスタァライトを演じることに対して強い想いがありますが、アニメでそれも達成してしまい、スタァライトロスになり、舞台少女としての「先」が見えなくなっている状態である事が舞台#2のテーマして浮かび上がってきています。そういう点で、小春はかつての華恋の影を背負っている人物でもあるわけですね。強い想いに欠け、舞台少女としての「先」が見えない、その共通項を別角度から眺めている印象です。


とまあ、ここでは小春がプロセスは違えど、かつての華恋が彼女の内に存在していることが舞台#2の華恋と対比になっているという見立てに読んでいます。ここを拾うと、華恋の芸歴についての疑問も晴れるのではないでしょうか。華恋の場合は幼い頃から「舞台=ひかり」という意識がずっとあるわけですから、「主役を手にする興味」がずっと「ひかりとの約束(運命)の舞台(=スタァライト)」に向かっていて、彼女以外との舞台には強く惹かれていなかったのでは、とも考えられますね。そういう意識だから小春同様、「(心からは)望んでいない主役」を手にしていたのかもしれません。本人はそのつもりはなかったけど、他者(所属劇団の座長など)が彼女を主演に選んだという憶測は容易に想像できます。もちろん華恋も舞台少女である以上、選ばれた主演を喜んで演じたのでしょうし、舞台を演じることに対して貴賤はないものだと思いますけども。
もう一つ言及しておきたいのは華恋とクロディーヌ。これについてはまだ書いていないTVアニメ各話感想で後に言及するネタでありますが、聖翔音楽学園の中で華恋の対比を考えるとクロディーヌが浮かび上がってくるというお話です。仔細はまたいずれか語る機会にて譲ろうと思いますが、彼女たちの関係を表すなら「以前/以後の関係性」と言っておきましょうか。個人的に西條クロディーヌという人物には早熟の人という印象があるので、その辺の観点から新作劇場版での活躍があるのでは、と見てます。


これらの点からも、再生産総集編の最後の最後で「まだ物語は終わっていない」とひかりが強い語調で言うのは舞台#1やTVアニメにおける彼女と華恋の立ち位置が逆転しているからなのではと思います。ひかり自体は舞台#2(というか#1の時点から)で自分の「舞台」を見出(理解)しているようでしたし、将来的にも舞台で生きる覚悟があるように見える分、華恋に比べても2歩3歩先に向かっている印象もありますね。



今となっては ↑ の呟きは(世界線の話が)やや外れ気味の予測ですが二つ目の「全てを見通せる監視者」という点ではななよりもひかりの方が適任なのかなと思わなくないですね。もちろん舞台・アニメ・ゲームという観点ではなく「ロンド・ロンド・ロンド」と銘打たれたアニメにおいての、華恋・なな・ひかりの「運命の舞台」を貫くという点では。ただここで引っ掛かるのが、3rdスタァライヴ終了時に配られた新作劇場版のフライヤーに踊る文言。



「貫いてみせなさいよ あんたのキラめきで」という中々挑発的なフレーズですよね。これ、後々になって5月のスタァライトプロジェクト大発表会でひかりの台詞であることが判明しています。もし華恋に向かって言っているのであれば、やはりひかりがなな同様、舞台においての超越的な立場になって彼女と対峙してるとも取れなくはないですが、果たして。とはいえ、ここら辺はまだ不透明なところもあるので今後の情報を待ちつつ留意しておくことにしておきます。



キービジュアルの連関や三人のカラーリングの意味合いを探ると華恋の物語がいよいよやって来るのか、という期待はやはりしてしまいますね。完全新作の方は劇場予告で21年公開と告知されました。時期がいつになるかはまだわかりませんが、今後の情報を注視しつつ、楽しみに待とうかと思います。


※追記の追記
公式アカウントにて劇場特報が公開されたのでそれについてもうすこし書きます。

youtu.be


といっても書きたいことは大体、この記事に詰め込んであるはずなので、あまり語る部分も多くはないのですがそれはそれとして気になる箇所をいくつか。

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特報のテロップにあしらわれた、。言うまでもなく華恋とひかりのモチーフであるのはそうなのですが、気になるのは花の茎と根の部分。根が枝分かれして一つの茎に収束して花を咲かせる、というのがミソなのかなあと思います。いやファンなら誰だってそう思うのでしょうけども。けどよく考えるとこの位置に星があって先っちょが茎に密接しているのを見るとでもあるみたいですね、これ。するとむしろ、(星)は植物の呼吸や光合成をする器官で役目を終えれば、自然と落葉することを考えるとやっぱり花が咲くためのプロセスなのかもしれないという事も勘繰ることは可能ですね。同時に根や茎が再生讃美曲で言う所の「選ばなかった過去たち」だと見るとやはり意味深な記号ではありますね。


そして再生産総集編でキリンが最後に発した「ワ(イ)ルドスクリーン・バロックなる用語。


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先ほども触れた3rdスタァライヴ初出の特報第一弾の画像にもその文字が躍っていますが、元々は ↑ の( )が示すようにSF用語のワイドスクリーン・バロックであるのはすでに指摘されています。新たに公開になった新作映画の公式ページでも一瞬wi(l)d-screen Baroqueが出てくるという情報が流れてきていますが、それを考えると初めの特報の(イ)誤植だったのかなと思わなくもないですね。何がしかの意味を見出すならまた話は違ってくるはずですが、今の所は勘ぐっても詮無いかなとは。


cinema.revuestarlight.com


ワイドスクリーン・バロック - Wikipedia


ともかくワイドスクリーン・バロックですが、イギリスのSF作家ブライアン・オールディスに提唱された用語で上記リンクでの引用をそのまま引っ張ってくると、以下のような特徴を持った作品の事を指します。

時間と空間を手玉に取り、気の狂ったスズメバチのようにブンブン飛びまわる。機知に富み、深遠であると同時に軽薄
— ブライアン・W・オールディス、『十億年の宴』p.305より 浅倉久志


なにか持って回った言い方なので的を得ない所もありますが、SF作品内における時間と空間の大胆な超越を内包した物語といいますか。ドラえもんのどこでもドアのように、本来は乗り越えることの困難な時間と空間を容易くかつ気軽に乗り越えていく、そんな荒唐無稽さをSF的な理屈として組み込んだ作品の事を指すのかと。このことを考えると、再生産総集編で提言された新作劇場版のキーとしての「ワイドスクリーン・バロックもそのような可能性が含まれた、はたまたそれ以上の可能性を担保した作品であることが示唆されたと言っても過言ではないでしょう。
仮に華恋(たち)が大胆に時間と空間を超越してくるのなら、いわゆる第四の壁(※フィクションである演劇内の世界と観客のいる現実世界との境界を表す概念。舞台と観客席の関係性)を越えてくる可能性は大いにあり得るでしょう。もとより「二層展開式少女歌劇」を提唱してきた作品でありますし、そのようなメタ演出の可能性もすべてひっ包めた映像体験となりそうなのは再生産総集編パンフレットに掲載された古川監督のインタビュー内の発言からも明らかですよね。

普通の楽しみ、喜びを焼き尽くして、運命を果たすために。
わずか5歳で運命を溶鉱炉に。

――危険、ですねぇ。


さらにもう一点。公開になった新作劇場版のあらすじより抜粋。
この作品における「運命」って、映画のモチーフにもなっている鉄道や線路と同様、「行先にたどり着くまでの道筋」というニュアンスが強いように思いますね。上の引用も華恋とひかりが戯曲スタァライトに魅了されて、険しい舞台少女への道を進むことになった隠喩にも読み取れそうです。「運命」イコール「夢」でもあるのかもしれませんが、あらすじの語り手であるキリンはこうも言っている。

スタァライト」は作者不詳の物語。
キラめきはどこから来て、どこに向かうのか。
そして、この物語の『主演』は誰か。

私は、それが観たいのです。

ねぇ――聖翔音楽学園三年生、愛城華恋さん?


本記事でも語ったようにやっぱり華恋が作者不詳の物語に新たなページを書き加えてしまったからこそ、「物語」の行き着く「運命」を「主演」が解釈し、演じなければならないんでしょうね。はたして華恋はその大役を果たすことが出来るのかどうか。


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もう一つ、特報で華恋の立っている砂漠は、これもファンならご存じの通り、TVアニメのエンディング曲「Fly Me To The Star」のジャケット裏面ですね。



この裏面に書いてるのは「Fly Me To The Star」の歌詞の一節「輝く目に私以外映さないで」。
曲自体が作中のカップリング(二人で一つの物語)を歌っているような曲ですが、もしかすると劇場の観客と舞台上の演者(主演)の関係にも引っ掛けてきそうだなとも思えなくないですね。華恋の「私だけの舞台」がどのように描かれるのであれ、現実の舞台創造科たちの輝く目には映画のスクリーンに映し出される華恋の姿を目の当たりするわけですし。特報の砂漠が「Fly Me To The Star」とリンクしているのを考えると、新作劇場版で何が描かれるのかという想像も掻き立てられる感じですね。果たして本当に宇宙に行ってしまうのか。そもそも華恋の立っている砂漠は地球のものなのか、という所も気になります。何が起こってもおかしくないので座して待ちたいと思います。


最後に映画タイトルの元ネタについて、今年(2020年)の1月に呟いたものを以下に再掲。



まあ、ほとんど与太話もいい所なのですが。これで今後新作劇場版に「Over The Starlight」みたいな副題が付いたら、あながち間違いじゃないかもしれません。ただ結び付けてみると符合する所も少なからずあるので、解答が出るかわかりませんが、当たってたら嬉しいなくらいに眺めていこうかと思います。信じるか信じないはご自由に。


以上、再生産総集編インプレッションというか、見えている情報を繋ぎ合わせてみた次第です。リンクの記事同様、その情報から飛躍して書いたところもありますので、これが実際そうなるかはまだわかりません。まあ、何を繰り出されても面白いことにはなりそうですしね。色々巡らせながら、来年の新作映画や舞台#3などが無事公開・上演してくれることを祈りつつ、首を長くして待ちましょう。
それではまた。