「少女☆歌劇レヴュースタァライト」アニメ#9 今日からあなたは舞台少女よ


第9話『星祭りの夜に』
今回からBD-BOX最終3巻収録内容です。7話から続いていたばななのエピソードと戯曲『スタァライト』の全体像がおぼろげに見えてきた回でした。最終巻のトップバッター回として、今まで伏せられていた情報が開示されていくのに、こちらの処理が追い付かない程には密度のあるものだったかと思います。
さて、更新の日付を見ても分かる通り、この9話の感想はすでにアニメ版最終話が放映された以降に書かれているものになります。筆者も既に最終回まで視聴済みではありますが、延長戦という体で感想を続けさせていただく事をご了承ください。理由は簡単で、いろいろ考え込んでいたら書くペースがどんどん低下していったという、よくありがちなものです。ここまで続けたのならやはり完走はしたいし、一方でリアルタイムで更新できなかったのが心苦しくもありますが、どちらにせよ最終話まで書いていけたらなと考えています。更新のペースはさらに落ちてしまうかもしれませんが、最後までお付き合いいただければと思います*1。物語の結末は知っていますけど、なるべくそこを意識せずに残りの話数を書いていくつもりです(説明の必要性があって先回りして語るかもしれませんが)。それにまだ作品展開が完全に終わったわけではないですし、こちらとしてはじっくり納得の行く形で書き上げて行きたいですね。なので、気長にお待ちください。

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今回も舞台#1の筋も含むネタバレですので読み進める場合は以下をクリック(スマホなどで読まれている方はそのままお進みください)



さて。手始めに復習と行きましょう。当ブログの7話感想を見ながら振り返ってもらいたいのですが、掻い摘んで言うと「大場なな」という存在は描かれる物語の外側と内側に分裂しています。もっとわかりやすく言い表せば、キャラクター(記号)と登場人物(実体)に分かれているという事。ばななは物語という創作の中に配置された記号である一方で、人間として架空の物語の中を生きているのだといえます。この相反する二つの側面を持つ存在であるからこそ、彼女は「永遠の舞台」と自ら定めた第99回聖翔祭を繰り返す「物語機能」の役割を果たすことができたわけです。7話で語った一連の解説は物語構造における立ち位置をメインに示したので、物語上における「大場なな」という人物の問題点を語るだけに終始した感がありました。今回の9話はその「大場なな」という物語上の人間について考えたいと思います。



7話で提示したネームプレートの無いロッカーの扉です。ばななはその背景が語られていない以上、物語上の人間としてはモブキャラと同等である。その一方、メインかつネームドキャラとしての個性は虚無であると考えました。虚無である以上、彼女は望んだ「永遠の舞台」を何度も繰り返す。「大場なな」という人間にとっては「ばなな」という個性が与えられ、がらんどうのロッカー(虚無)を埋めてくれた第99回聖翔祭が忘れられないし、失われてしまう事を恐れている。だから繰り返す。このものすごく壮大な堂々巡り、つまりは「絶望の輪廻」を繰り返しているのが大場ななの問題点だと言えるでしょう。
ただこの「絶望の輪廻」がひかりの登場によって破綻しているのは、7話や8話を見ていれば分かることです。「輪廻」が破綻しているという事は同時に「ばなな」の「永遠の舞台」も終わりを告げているのです。つまり「永遠」ではなくなる、ということ。ばななにとっての「永遠の舞台」である第99回聖翔祭を過去のものとしなければならない。それは彼女にとって完璧だったものが失われるということと同義です。反面、この「絶望の輪廻」から解き放たれた事によって彼女の「物語機能」としての記号的な役割を終えたとも考えられます。

舞台少女がトップスタァになる瞬間
奇跡とキラめきの融合が起こす化学反応
永遠の輝き 一瞬の燃焼
誰にも予測できない運命の舞台
私は…それが見たいのです
~7話キリンの台詞より抜粋~


キリンが7話でもこう語るように「トップスタァとなった瞬間に起こる、永遠にして一瞬の輝き」こそが運命の舞台に望まれるもの、だという事を踏まえると「ばなな」の望み続けた「絶望の輪廻」は運命の舞台にとっても歓迎出来ないものであるはずです。なにせ「同じ舞台を繰り返す」わけですから、トップスタァの放つ「永遠の輝きかつ一瞬の燃焼」としては新鮮味が薄れてしまいますし、なにより「誰にも予測できない運命の舞台」ではないでしょう。繰り返されている以上、「予測ができてしまう」舞台であるのは間違いないと思います。ゆえに「ばなな」の「運命の舞台」は否定されないといけないわけです。
8話感想ではひかりをピックアップしていたのであまり触れる事が出来ませんでしたが、ひかりとばななで「孤独のレヴュー」を繰り広げていた事に着目しています。繰り返しになりますがこの「孤独のレヴュー」というのは舞台#1、アニメ版合わせて都合3回も行われているレヴューで、どのレヴューにおいても一方の相手を務めるのがばなななのです。それだけに「孤独」というキーワードと「大場なな」という人物はこの作品において、とても強く結びついていることがわかります。ばなな以外の相手はそれぞれに抱える「孤独」の意味合いが異なっているのは先の感想で語ったとおりですし、ばなな自身の「孤独」も「ばなな」という個性を認めてくれた「幸せな日々(=第99回聖翔祭に至るまでの一年次の日々と関わった生徒たち)」が失われてしまう恐怖心と繋がっています。それが彼女が「絶望の輪廻」に囚われる一端となっていて、解消するためには他者の存在が不可欠だと言う事も明らかでしょう。
「大場なな」の抱える「孤独」は文字通り「独り取り残されてしまう」事にほかなりません。では、彼女の「孤独」を埋めるためにはどうすればいいのか。繰り返しになりますが、「大場なな」という「孤独」を解消してくれる存在が必要です。同時にもう一点、彼女が真に踏み出さなくてはならない事があるのですが、それは今回の記事の後半で。とは言っても、そんなに複雑な話でもないと思います。ここまでの話で答えは出ているようなものですし。また「踏み出さなくてはいけない事」についても今回の9話をご覧になっていれば、分かりやすい事でしょう。ただそれがどうしてそうなるのか、をいろいろと確認しながら考えていきたいと思います。
前置きが長くなりましたが、以下から9話の内容を考えていきましょう。



【なな、心のむこうに】



9話アバンタイトル。ついに第100回聖翔祭用「戯曲『スタァライト』」の脚本第一稿が完成し、それを叩き台に俳優科、舞台創造科揃っての意見出しの光景から今回のエピソードは始まりを告げます。第100回聖翔祭に向けての日々がいよいよ始まると、みんなが意気揚々としている中でばななだけがなんとなく気が沈んでるトーンで周囲から浮いているのが目に付きますね。これにはちゃんと理由があります。



ここまで描かれてきたばななのレヴューオーディション以外の動向を振り返ってみましょう。まず3話の朝礼(ホームルーム)で、俳優育成科(A組)と平行して、舞台創造科(B組)の手伝いをすることが周知されます。当然のことながら、クラスメート(もちろん華恋たちも)に動揺が走ることに。



その後、5話では演技の練習に参加せず、舞台創造科、演出の眞井さんと脚本の雨宮さんと見学。階段の踊り場で主演のキャスティング談義をするも、99回と同キャストを望むばななは眞井・雨宮に同キャストである必要はない、舞台を育て、進化させ、常に挑戦する意識を持つべきと窘められて立ち尽くす。



続く6話ではその眞井・雨宮と並んで、脚本見習いとしてオーディションの審査側に立ち、「一度の結果に一喜一憂しないでのびのびと演技してね」とにこやかに発言。


とまあ。ここまで見てきて、何かに気づきませんか? こうやって並べてみると、9話アバンでばななが「浮いている」理由がなんとなく見えてくるはずです。ばななの行動だけをピックアップして今までの出来事を振り返ってみると、彼女は周囲の注目を集めたり、物事の中心に自分を置きたがっているんですよね。今回の後半の台詞でも出てきますが、永遠の舞台=第99回聖翔祭を今までよりもっと上手く成功させようと、ばななは演出を変えたり、台詞を変えたりしていた事が明らかになります。
「ばななはその背景が語られていない以上、物語上の人間としては今回の9話に至るまでモブキャラと同等であり、メインかつネームドキャラとしての個性は虚無である」 と、当ブログでは解釈していますが、永遠の舞台=第99回聖翔祭を繰り返す「物語機能」として、ばななは自らの「幸せな日々(=永遠の舞台)」を脚色する演出家も務めていた事になります。
つまり、先ほど説明した3話や5・6話における行動は「ばなな」という主役を演じる「大場なな」の演目上の行動だと考えると、理解しやすいはずです。これはおさらいで提示した「名札のないロッカー」の如く、がらんどう(=虚無)であった大場ななに与えられた、初めての「人生の役割」こそが「ばなな」だったわけです。先の描写でも彼女の過去が顔を出しますが、恐らく舞台少女であるという以上に「生きる実感」を得たのは、聖翔音楽学園に入学してからなのではないかと思われます。もっと言い換えてしまえば、ななという人間が曲がりなりのアイデンティティを獲得したのがあの「幸せな日々=第99回聖翔祭=永遠の舞台」という図式なのではないでしょうか。
そこまで考えると、ばななは演出家として「永遠の舞台」における主役に自らを選び出し、演じようとするわけですね。良くも悪くも「自分を中心に世界(舞台)は動いている」と自覚(錯覚)しているのです。それは何度も何度も何度もレヴューオーディションに勝利して、「永遠の舞台」を飽きることなく(そして渇望し続けて)、繰り返したことによって生まれた無自覚な傲慢さでもあると思うのです。
ここまで語ったことは7話感想で解説した事とある程度被るわけですが、8話でのひかりとのレヴューオーディションにおいて、ばななの守っていた「永遠の舞台」は崩れ去ってしまいます。



ひかりとのレヴューオーディションは孤独のレヴュー8話感想でも語ったように、舞台#1においてもTVアニメにおいてもばななはレヴューオーディションで「孤独」を演じ続けています。もちろん彼女は「永遠の舞台」を繰り返すためにレヴューオーディションを何度も勝ち上がっていたわけですし、その度に他の題名が付くレヴューも演じたものと思われます。しかし、観客(=視聴者)に見える形においては、ばなな、もとい大場ななは「孤独」と題名の付くレヴューを繰り返しているのです。

慣れてきた当たり前の孤独
舞台が変えてくれたわ
変わりたくないこのまま
次には私まだ進めない……
時間よ止まれ 大人にならないで
〜舞台#1劇中歌「私たちの居る理由」よりばななパート抜粋〜


舞台#1の劇中歌「私たちの居る理由」においても、ばななは「慣れてきた当たり前の孤独」と自らがずっと孤独であったことを吐露していますが、それを解消したのはTVアニメの彼女が言うところの「永遠の舞台」であります。孤独を変えてくれた「永遠の舞台」の顛末は7話に詳しいですが、上記の歌詞引用にもあるように「変わりたくない」「まだ進めない」「時よ止まれ」「大人にならないで」、と固執しているのが分かりますね。これも繰り返しになりますが、彼女は再び「孤独」となることを非常に恐れているわけです。再び「独り」になるかもしれない、この「次」に進む「時間」を止めてまで、ばなな自身を変えてくれた「舞台」執着しているのです。

怖がらないで
ひかりちゃんはもう私たちの仲間なんだから!
〜8話レヴューシーンよりばななの台詞抜粋〜




ですから、ばななは「永遠の舞台」の再演に突如、乱入してきたひかり(こちらは8話に描かれたロンドンのレヴューオーディションに敗退して、キラめきをほとんど失った状態)を自らの舞台に取り込もうとするわけですね。しかし、ひかりはばななとは異なる執着の持ち主であることも明らかです。再び行われるレヴューオーディションに参加するのも、自らのキラめきを失ってもなお消えることのなかった執着があったからこそなのです。
と、ここまで書くとお分かりのように、ばななもひかりも強烈な執着を抱えているという点で共通点が見出せるわけですが、同様に執着に囚われる事によるエゴイスティックな面が窺えるのも彼女たちの共通性だと言えます。8話感想で筆者はこんなことを書いています。以下、該当部分。

つまりはひかりは常に華恋の先を走っていたいのですよね。彼女をリードする者として、いやそれ以上に知ってかしらずか彼女をバーターにして、より高みを目指していこうとする、無邪気なエゴイストらしさがすでにこの時点で滲み出ているのが受け取れてしまいます。


以上。
華恋との「約束」を果たすために、ひかりは常に彼女の上に立つ導き手としてありたいという意識が無自覚に働いている。一方、ばななは先ほど述べたように「永遠の舞台」を飽きることなく(そして渇望し続けて)、繰り返したことによって「自分を中心に世界(舞台)は動いている」という自覚(錯覚)が生まれた。どちらも無意識、無自覚にある種の傲慢さが滲み出ているのが分かります。



当ブログでおなじみ、「三つの執着にまつわる物語」として本作を表した画像です。今までのエピソードはこれらの執着に当てはめられて描かれており、主役格の華恋とひかりはこの「三つの執着」すべてを内包しているとも語りました。今回のばななについては、当然のことながら、あの「舞台」への執着である事は明白でしょう。しかし、ひかりはすでにロンドンのレヴューオーディションで華恋との「約束」で立つ「舞台」への執着を自身の舞台少女のキラめきとともに失ってしまいました。この為、「少女」と「約束」に執着が偏ってしまった、というのが8話までで明かされた背景です。
ばななはどうでしょうか。彼女の場合は「孤独」である以上、「少女」への執着も「約束」への執着もありません。ただその「孤独」を埋めてくれた「舞台への(尋常ではない)執着」は、7話から今回の9話まで一貫して描かれた彼女の「狂気」に他なりません。
つまり8話におけるばななとひかりの対決はレヴューオーディションと言う以上に、彼女たちに渦巻く執着のせめぎ合いだったわけです。その結果は描かれた通り、ひかりが残された執着を舞台少女のキラめきへと変換し再生産した事で、ばななに打ち勝つ形で終演となります。執着と言う点では「舞台」よりも「少女」と「約束」が競り勝つ格好となったのですが、この敗北がばななにとっては大きな変化を迎える事になるのです。7,8話を踏まえて考えるのであれば、キラめきと執着は表裏の関係にあるはずです。

一度で終わりなんかじゃない
私たちは何度だって舞台に立てる
〜2話「舞台少女」より台詞抜粋〜


もちろんこの2話での華恋の台詞からも分かるように、レヴューオーディションに一度負けるくらいでは劇的な変化が起こるわけでもないですし、8話でも描かれたように、トップスタァが確定した段階で舞台少女のキラめきは奪われるという仕組みに見えます。が、ひかりとのレヴューを経て、ばななの「永遠の舞台」に対する執着は彼女本人の気持ちとは無関係に奪われたように感じられるのです。というより、ひかりの執着がばななの執着に勝った結果、ばななという「キャラ」の「永遠の舞台」を守る前提が失われてしまったというのが正しいかもしれません。
先の「三つの執着」を踏まえて考えてみましょう。ひかりには華恋という「少女」の存在があって、同じ「舞台」に立つという「約束」があったわけですね。ロンドンのレヴューオーディションでキラめきを奪われた結果、「舞台」への執着が失われ、「少女」と交わした「約束」への執着が強くなります。彼女は「少女」と「約束」への執着をキラめきへと再生産するわけですが、対するばななはどうしょうか。
ばななは舞台#1からTVアニメ版に至るまで、ずっと「孤独」を背負い続けています。繰り返しになりますが、彼女が「孤独」である以上、「三つの執着」における「少女」と「約束」への執着は存在し得ないのです。当然、「約束」は交わす相手がいないと成り立ちませんし、相手となる「少女」の存在もばななの内には潜んでいない、あるいは秘められていないのですね。あるのはただ「舞台」への強烈な執着のみです。
「少女」と「約束」の執着をキラめきに再生産したひかりと「舞台(=幸せな日々)」に届かない憧憬を抱きそれでもなお固執するばなな。結果は皆さんご存知の通りです。「舞台」への執着を失ってもなお、華恋との「約束」のために前に進もうとするひかりが、過去の「舞台」に執着するばななに打ち勝った。再生産されたひかりのキラめきに、ばななのキラめきは飲み込まれてしまった。もとい、より強い光が彼女の光をかき消してしまったのです。ひかりの「未来」がばななの「過去」を打ち破ったと言い換えていいかもしれません。
このレヴューの勝敗によって、ばななの守っていたものが決定的に崩れ去ってしまいます。



ここまで語ってようやく本題に戻ります。何度も繰り返してばななの「孤独」と「守りたいもの」を説明してきましたが、第100回聖翔祭用「戯曲『スタァライト』」の脚本第一稿が上がって、周囲が沸き立つ中でばななが浮かない表情を見せる理由はこの後に続く台詞にあります。TV放映時の録画を持っている人は字幕情報が入っているのでぜひ確認していただきたいですが、話を進めるために以下に引用します。引用部分は字幕表記ままとなります。


(なな)昨日、雨宮さんが書き上げちゃったの。「ひとり」で


「ひとり」で。この部分がことさらに強調されていますね。雨宮さんが「A組に負けていられない」と徹夜で書き上げたということが伝わってきますが、問題の本質はそこではなくカギ括弧でくくられた「ひとり」という部分。6話でも描かれたように脚本見習いとして手伝うはずだったのに、という以上にこの台詞には非常に重要な意味が含まれています。
本来ならばレヴューオーディションの勝者であるばななが「永遠の舞台(第99回聖翔祭)」の再演を繰り返しているので、第100回聖翔祭の準備が始まることはない(※恐らくですが彼女が繰り返していたレヴューオーディションでは、準備が始まる前に勝者が決まっていたのかも)わけですが、9話の時点でばななはイレギュラー因子であるひかりに敗北しています。この敗北を喫した事で、彼女の歯車が実は大きく狂いだしているのです。



論より証拠。この画像は3話ですが、このカットもばななが中心に配置されているのが分かります。「永遠の舞台」を繰り返し過ぎた事によって「自分を中心に世界(舞台)は動いている」と錯覚している。このように先ほど触れましたが、それを物語るようなカットでありますね。さらにもう一丁。今度は7話アバンタイトルから。





これも同様です。
7話感想ではここで「大場なな」が「ばなな」に生まれ変わったと書きました。またスマホで写真を撮っているところから、撮った写真に自身を写さない=思い出の中に自分の姿は必要ない=自分自身を承認していないとも解説しています。7話アバンはそれこそ、彼女の思い出の一番煎じ、つまり「眩しくて届かない」とされる一番楽しかった記憶です。もちろんその後、ばななはこの光景をも幾度となく再演し続けるわけですが、この「他者からの自己承認」を繰り返すことによってこの光景の意味合いが歪んでいったのではないかと思われます。それこそが「永遠の舞台」を繰り返し過ぎた事によって「自分を中心に世界(舞台)は動いている」と履き違えてしまう所以なわけですが、それを踏まえてみると、やはり7話アバンは大場ななが「ばなな」として一緒に舞台を作り上げた仲間たちに認められるという、彼女の「永遠の舞台」の再演においてのクライマックスシーンでもあるわけです。ばななの「永遠の舞台」の主役は彼女自身であることも先ほど触れていますが、この場面を気の遠くなるほどの回数を繰り返せば、「自分を中心に世界(舞台)は動いている」と錯覚してしまうのもやむなしという所でしょう。
とまあ、以上のことを踏まえると、ばななが9話アバンで「ひとりで」と強調した意味が見えてくるのではないでしょうか。「永遠の舞台(=幸せな日々)」を再演するためには、ばななの認知する全ての同級生(と先生)を庇護しなければいけません。自らの管理下に置くことで、生徒たちのあらゆる行動を演出しようとしていた、のですね。



しかしどうでしょう。8話を経て行われる、このブレインストーミングの光景は。俳優育成科、舞台創造科が入り乱れて、各人があれこれと意見を出している。無論、舞台は一人で作り上げることは出来ませんので、完成のイメージを共有するための意思統一の場でもあります。そういった場の役目はともかく、ここではおのおのが個性と感性を発揮して、新しい舞台を作り上げようとしている、という点が重要です。





ばななが何度も繰り返してきた「永遠の舞台」、第99回聖翔祭でもおそらく同様のことが行われ、俳優育成科、舞台創造科ともに忙しく舞台を作り上げていったということは容易に想像できます。ここで挙げた7話の画像も舞台を作り上げる過程(ばななにとっては二度目の、ですが)を活写したものですが、これらはばななのスマホで撮影されています。記録された光景は彼女の主観によって切り取られたものであり、当事者としての「記憶」でもあります。彼女にとって「永遠の舞台」は「幸せな日々」です。その「幸せな日々」を「ばなな」という当事者として関わる事が出来た、換えがたい眩しさを繰り返そうと再演を繰り返してきたわけですね。
しかし、先ほども説明したように8話のレヴューオーディションによって、ばななが「幸せな日々」に感じていた「眩しさ」は未来(約束=将来の夢)に向かうひかり(=光)に飲み込まれてしまったのです。文字通りの「ひかり」によって塗り潰された事で、彼女の感じていた「永遠の舞台」への執着、つまり「輝かしい過去」に対する異様な執着は本人の意志とは無関係に断ち切られてしまったように感じられます。比喩的な言い回しになってしまいますが、より強い光によってばななが眩しく感じていた光はかき消されてしまった。言ってしまえば、執着していたあの「眩しさ」が跡形もなくなった事に、彼女は気付けないでいる。そう。「孤独」であるが故に、です。

まひるとの「孤独」のレヴューの場面にて)
私は過去に決別なんてしない
戦い抜いて…またスタァライトを!


(華恋との「孤独・再演」のレヴューの場面にて)
「孤独」というタイトル、私にぴったり!
……ずっと独り…みんなで作り上げたスタァライトを忘れたくない!

〜「舞台#1-revival-」より大場ななの台詞抜粋〜


これらの台詞を考えても、ばななは過去に囚われ続けることで独り取り残されてしまうという図式から逃れられていないわけです。もちろん舞台#1は再演も含めてTVアニメの始まる以前の上演ですので、設定が煮詰まっていない部分はあったかと思います(※先回りすると放映終了後のスタッフ発言を見る限り、舞台スタッフには共通の設定としてアニメ1~3話までのシナリオと設定が渡されていたそう)。ですから、#1のばななの「孤独」とアニメ版のばななの「孤独」はニュアンスが若干異なる箇所があるのも事実です。が、敢えてTVアニメと結びつけるのであれば、やはり過去に「みんなで作り上げた舞台(スタァライト)」の中においても、人知れず「孤独」はあったのではないかと考えられます。対人的な距離感という点では「ばなな」という愛称を与えられ、クラスメートに受け入れられもしたわけですが、もっと彼女の芯に近い精神的な距離感においては「幸せな日々」だった第99回聖翔祭においてもずっと「孤独」だったのではないでしょうか。言い換えれば、誰からも慕われ頼られるばななの内面を理解してくれる人がいなかった、ということになります。この辺りのニュアンスは、アニメ版、舞台#1のキャラクター紹介文でも押さえられています。以下に引用します。

大きな優しさでみんなを包み込む99期生の「お母さん」的舞台少女。ニックネームは「ばなな」。歌や踊りだけでなく舞台演出にも優れた才能を見せる。1年次にみんなで演じた『スタァライト』が今でもお気に入り。
公式HPのキャラ紹介ページより抜粋~

クラスで一番の長身を活かしたダンス、歌、お芝居となんでもこなせる本格派舞台少女。そして女子力が高く自慢の手料理と大きな優しさでみんなを包み込むお母さん的存在。1年次の学園祭でみんなで創った舞台『スタァライト』が今でもお気に入りで、自分がキラめくよりも、みんながキラめいているのを見ていたいと願っている。ニックネームは「ばなな」。夢は「あのときの舞台が、また出来たらいいな♪」
~舞台#1パンフレット、登場人物紹介より抜粋(※#1-revival-のパンフレットも同内容)~


赤字で示した通りですが、情報量の詰まり方でいうのであれば舞台#1の紹介文に軍配が上がります。とはいえ、TVアニメ版の方は舞台#1に書かれていたばななの内面的なニュアンス(赤字部分)がオミットされている分だけ、ばななの外見から来るイメージを強調している文章に読み取れますね。これは7話の展開を踏まえているからでしょうし、舞台#1の方は劇中でばななの「孤独」に対する感情が描かれているからに他なりません。
この差異は連続シリーズものであるTVアニメと一回の上演で全てを曝け出す舞台の違いでもあるわけですが、どちらにおいてもばななの核心に迫れる(気付いている/理解している)人間がいる事を考慮していない描き方です。特に「自分がキラめくよりも、みんながキラめいているのを見ていたいと願っている」という箇所は9話のレヴューオーディションでの前口上と重なる部分でもあり、彼女自身が「永遠の舞台」に第99回聖翔祭を選んだ遠因でもあります。自分よりキラめいている人たちが眩しくて、なおかつその眩しい光を放つみんなは誰ひとり欠けてはいけない。だからこそ、守らなければいけないというプロセスもあって、「永遠の舞台」を再演することに血道を上げるわけですが、途方もなく繰り返すことで無自覚な傲慢さが顔を出し、本来の目的から歪んでいったのですね。「自分を中心に世界(舞台)は動いている」と錯覚しだしたのはそういった経緯が重なった結果なのでしょう。しかし、それもひかりとのレヴューオーディションでリセットされたわけで。問題なのはばなながその歪みと「孤独」を持ったまま、起こった事態に気付いていない事。そしてそこに気付けないのは、ばなながその「孤独」ゆえに、「自分の持つ問題」を解く鍵を持ち得ていないからなのです。

かげがえなくて 愛しくて
胸がトキめいて苦しいんだ
こんなに ああ 眩しい舞台に
私たち誰一人欠けちゃいけない

~「願いは光になって」歌詞より~



しかし、そんな眩しい過去に惹きつけられるばななの孤独を、彼女が守ってきたはずの舞台少女たちはあっけなく否定してきます。A組(俳優育成科)の面々で、新たに書き上がった脚本の読み合わせをしている所で、純那は彼女らしく世界(というよりシェークスピア)の名言を語り、それを受けて真矢が言葉の解釈を語る場面。ここまで語ってきたばななの背景を踏まえて見ていくと、彼女に対してかなり辛辣なことを言っているのです。

(純那)「人生は二度繰り返される物語のように退屈である」

~中略~

(真矢)「人生は一度きり
   同じ物語を繰り返すだけではつまらない
   だから退屈しないように色々なことに挑戦すべき」

~9話より台詞抜粋~


この引用からもわかるように完膚なきまでに真っ向から否定していますね。もちろん純那も真矢もその他のみんなも、ばななが同じ「永遠の舞台」を繰り返しているなどと知る由もありません。舞台少女ならば誰もが知り得ている、一種の真理として語っているに過ぎないのです。言ってしまえば、演劇に携わる上での一般常識、共通認識であるはずです。しかしばななは「永遠の舞台」が眩しすぎて、その目を曇らせてしまっているのは何度も繰り返した通り。舞台は一度幕が上がってしまったら、不可逆です。ましてや全く同じ舞台を繰り返すことなどは天地がひっくり返っても有り得ないこと。しかしばななは「永遠の舞台」の再現性に囚われることで、返って自身の「孤独」を深めてしまっているのです。

(なな)みんなでつくった最高の、私たちだけの舞台。もうつくれないのかな、同じ舞台は…
(真矢)たとえ同じメンバー、同じキャストだとしても、同じ舞台など存在しません

~中略~

(真矢)言いましたよね? 主役をかけてオーディションに挑みましょうと。 〔中略〕 恵まれた体躯、素晴らしく伸びる声、舞台全体を見渡せる視野。…なのに、あなたはなぜっ

~中略~

(真矢)みんなのばななさんでいたいがために、本気を出していないのならば、私は…
   大場なな。あなたを赦さない

~7話より台詞抜粋~


9話の真矢がそうであったように、前段の7話においても真矢は同じようなことをばななに言い放っています。むしろこの7話の引用箇所は原初の「永遠の舞台」後の会話であり、9話の真矢はばななの体感においては果てしなく「永遠の舞台」を繰り返した後の会話です。9話の方は周りに華恋たちがいる分、語気の強さは柔らかくなっていますが、真矢の本音という点では7話に軍配が上がります。その本音をぶつけた矛先がばななであるということもきわめて重要なのですね。



全てはより良い舞台を作り上げるため。同じ演目だからこそ、同キャストであることには拘らず、そして一年前とは確実に違う、成長した99期生の姿を見せるために。A組、B組が垣根を越えて、「次の舞台」を作り上げるために、活発に動き出している。前の舞台では出来なかった事、届かなかった事、成長した今だから言える事。それらが第100回聖翔祭の「スタァライト」という舞台を作り上げる原動力となる。99期生の舞台少女たちは「良い舞台」を目指し、それぞれの個性を発揮することで「新しい舞台」が生み出していくのです。9話アバンはその始まりを描いています。……ただ一人を除けば。



周りのみんなが第100回聖翔祭へと気持ちが向く中、独りだけ第99回聖翔際の眩しさに囚われ続けるばなな。ところでお気付きかもしれませんが、9話アバンタイトル陽の光が差し込まない日陰の教室というシチュエーションが取られています。この為、通常場面の色彩設定から、色調をかなり下げているんですよね。キャプチャした画像はその濃淡がはっきり出ていますが、実際の映像で見ると薄暗がりの淡く弱い彩度に抑えられているように見えます。どちらにせよ場面設定として「光が差し込んでこない」事がダイレクトにばなな、もとい大場ななのパーソナリティに結びついているのです。
舞台#1のキャラクター紹介文にあるように自分がキラめくよりも、みんながキラめいているのを見ていたい、あるいは7話でみんなのばななでいたいがために本気を出していない、と真矢に言われたように。ばななは自分でキラめこうとしていないのです自主性に欠けるといわれれば、それまででしょう。反面、なんでもソツなくこなせるからこそ、周囲から頼まれ事を引き受けてしまう。しかしそれは、ばなな本人が自ら事を動かそうとしていないという裏返しでもあるわけですよね。すべて彼女の意思とは関係なく流れてきた案件をほとんど受動的に対処してきたに過ぎないのです。




7話もそうでした。「永遠の舞台」を再演し続けるため、あの舞台でキラめくみんなを守りたい──。ばななが「眩しい」と感じた第99回聖翔祭は誰がキラめいていたのか?それは自分以外のみんなであり、そのみんなから自分は「ばなな」という役回りを与えられて、聖翔音楽学園に存在できている。そう認識してしまっているからこそ、ばななにはスポットライトの光が当たらないわけです。
舞台少女にスポットライトが当たらない。これがどういう事なのか、お分かりでしょうか。このままでのばななの状態では、どんな役回りで舞台に立ったとしても彼女にスポットライトの光は当たることはありません。理由は簡単です。ばななは自分の個性を蔑ろにしているからです。自分のことよりも「みんな」のことを優先している。みんなから頼られることにアイデンティティを見出し、いつの間にか舞台少女の本分を忘れてしまっている事が、7話の真矢がばななにその苛立ちを露わにした理由でしょう。
このばななに「光」が当たらない状態というのはTVアニメ序盤から周到に描かれています。



2話で「永遠の舞台」に対するイレギュラーとして現れたひかりとお近づきになろうとしてバナナプリンを差し出すこの場面でも、ばななには光が当たりません。同様にひかりにも影が落ちているのが実は重要だったりしますが、ばななだけに限定すると完全に窓から差す日の光に背を向けているのが分かります。ひかりはまだ日の差す方を見ているので、まだ「諦めてない」んだろうというニュアンスが残されていますが、ばななは完全に逆光です。この印象的なカットにおいて、ひかりには自身に影が差し込みつつも希望を捨てていない。ばななは(おそらく無自覚に)影の住人となり、「絶望の輪廻」を繰り返している。だからこそ逆光の立ち位置で見せる彼女の笑顔には、本来のニュアンスとは別のトーンが潜んでいるように感じられるのです。
この場面や7話に見られる、逆光のばななは彼女の孤独や絶望、はたまた狂気を深めるものとして演出されているのが分かりますし、それが舞台少女にとって異常だという事が仄めかされた描写であると考えられます。その理由は先に説明したように、「永遠の舞台」への固執によって、舞台少女の本分を見失ったためであることに間違いないでしょう。

でも楽しかったなあ、一年生の時のスタァライト
B組が裏方として支えて、私たちA組が歌って演じる。
99期生全員で作った私たちだけの舞台。忘れられない永遠の一瞬──。

~1話より台詞抜粋~



「永遠の舞台」である第99回聖翔祭に拘泥しているからこそ、みんなが第100回聖翔祭に向けて活気だっている事が気に入らない。ばななにとっては「忘れられない永遠の一瞬」だった。にも関わらず、周囲はその一瞬をいとも簡単に忘れていく。ばななにはそれが耐えられないし、我慢ならないことでもある。
上の画像はそういった点においての光と影の対比。ばななのやり場のない苛立ちと孤独、そして「永遠の舞台」への並外れた執着心が光から影の方へと向かわせる。そのイメージの意味する所は明白でしょう。彼女は前を見ずに、後ろをずっと振り返っているわけです。



そして同様に光と影がかかる第99回と第100回の舞台設定画。これもばななの心象風景といっても過言ではないかと。第99回の設定には光が当たり、第100回の設定には影が落ちているのは言わずもがな。ばななにとって「眩しく」感じられるのは当然前者であり、後者は望ましくない「変化」だということです。

(なな)B組が裏方として支えて、私たちA組が歌って演じる。
99期生全員で作った私たちだけの舞台。まったく同じ舞台はもうできないのかな…。
(華恋)その舞台には私は立てないかな (略) だって舞台は生き物。同じスタァライトでもまったく同じ舞台なんてあり得ないもん (略) ここは舞台、私の舞台

~7話より台詞抜粋~


先に挙げた真矢とばななの会話と同じやりとりを華恋に投げかけると、こう返ってきます。真矢と同じ答えを言っているのも興味深い所ですが、注目したいところは「舞台は生き物」と「私の舞台」という2点。
華恋が真矢と微妙に違う点は、舞台に対する捉え方でしょう。真矢は「主役の座をかけて争い、勝ち抜くことで立てる場所」というニュアンスが強く、相手(ばなな)にもそれが強く求められていますが、華恋は「生き物」と表すことで自らが立つ「舞台」と舞台に立つ「自分」をイコールで結んでいるわけです。



だからこそ、「私の舞台」というのは華恋にとっては、今立っている場所こそが「自分の舞台」であり、なによりその舞台を演じているのは愛城華恋という一人の人間(生き物)であるという事。「舞台が生き物」であるという事は翻って、「生き物(人間=舞台少女)の生き様」こそが「舞台(演劇)」である事に他なりません。
舞台少女が立つ場所こそが「舞台」であり、その生き様こそが「演劇」である。どんな演目を舞台で演じようとも、舞台少女という「生き物」は日々進化中であるからこそ、同じ演目を演じても以前とはまったく同じにならないしあり得ない、という事なのです。

世界は舞台、人は役者。
ウィリアム・シェイクスピア「お気に召すまま」より~

世界は私たちの 大きな舞台だから
~「舞台少女心得」より歌詞抜粋~


さて。
それではもう一度、「ばなな」の事を振り返ってみましょう。何度も繰り返してきましたが、「ばなな」は「永遠の舞台」に執着しすぎて、舞台少女の本分を見失ってしまいました。それはつまり、「ばなな」が誰からにも頼られる存在として、そのアイデンティティを獲得した「幸せな日々」に耽溺したのです。楽しい時間ほど「一瞬」で過ぎ去っていきます。しかし、彼女はその「一瞬」を永遠に望みました。自らが必要とされて、その「存在」を認めてもらえる、かけがえのない日々を。どんなにその輝きの眩しさが強くなろうとも繰り返し続けたのです。


でも、ちょっと待ってください。



私が見つけた永遠の仲間と運命の舞台
この日、生まれたのです。舞台少女、大場ななが

~7話より台詞抜粋~


第99回聖翔祭を通じて、大場ななは確かにみんなから認められました。第99回後のあの打ち上げ会場の場で、華恋が「大場なな」という少女を「ばなな」という存在として名を与え、みんなに認めてもらったことによって「舞台少女」として生まれたのです。


いいですか、もう一度繰り返します。


大場ななは「大場なな」としてではなく、「ばなな」という舞台少女として生まれたのです。


つまり
彼女が「永遠の舞台」である第99回聖翔祭にこだわる理由も、
同じキャストが演じるまったく同じ舞台の再演を望むのも、
「永遠の舞台」が繰り返すほどに眩しく感じるのも、
はたまた真矢が7話の会話でななの現状に対して懸念を示すのも、
全てはななが「ばなな」で居続ける為に引き起されているのです。
「ばなな」として存在しようとすればするほど、ななは「ばなな」という舞台少女に眩しさをより強く感じざるを得なくなります。華恋の言に照らし合わせれば、「ばなな」そのものが「永遠の舞台(=生き物)」であり、絶対不変の「舞台少女」であるからです。
つまりどういうことかというと、こういうことです。



7話アバンに出てきたミロのヴィーナス像のレプリカです。7話感想では像の失われた両腕を指して、「可能性」の象徴と未完成ゆえの完成美が「ばなな」の個性を担保していると語りましたが、さらに飛躍すれば、その両腕の失われた「未完成の美」こそが、ななにとっての「届かない理想」なのではないかと思えてきます。
ミロのヴィーナスはその両腕が失われ「未完成」となった結果、高い芸術性を持つに至ったわけですが、「ばなな」もまた同じです。あの第99回聖翔祭において、未完成ながらも自分の思い描いていた理想に届いた「永遠の一瞬」を成し遂げることが出来たのです。しかしそれはミロのヴィーナスの失われた両腕のように、「かつては存在したが、今は失われてしまった」ものであるし、B組の眞井さんが5話で言ったように「1年のわりにはよく出来ていた」に過ぎない。言ってしまえば、ななは「ばなな」という過去の自分とみんなが作り上げたビギナーズラック的な「永遠の舞台」に理想を見ているのですね。ここについては、朧げながらに感じ取っていた方も多いのではないでしょうか。
ただし、なな本人としては「ばなな」の住み分けが出来ていないというか、ほとんど意識できていない、というのが彼女の難点だろうと思います。



その所以はこのネームプレートの入っていない「無名」のロッカーです。7話感想でも触れ、今回の冒頭でもおさらいで取り上げていますが、ななが自身の個性をどう感じているのかのメタファーにもなっているわけですね。冒頭でも振り返りましたが、大場ななという少女の持つ二面性、描かれる物語の内と外に分かれる彼女の個性です。本ブログではキャラクター(記号)と登場人物(実体)として考えていますが、「無名」のロッカーを大場ななと見立てると、現在は「ばなな」という名(記号)がロッカーの名札に掛かり、中身も詰まっているわけです。しかしこの「記号」を抜き取ってしまうと、大場ななというロッカーの中身はがらんどうになります。
9話において提示される彼女の背景にも結びついてきますが、自身の「孤独」を拗らせた結果として、「自分には何もない=虚無である」事を認識し、「自分がキラめくよりも、みんながキラめいているのを見ていたい」と願うようになってしまった。自らのキラめきよりも他者のキラめきを優先するようになった一方で、キラめく他者たちに自分の存在を認めてもらい、舞台少女「ばなな」として生まれたというのが7話アバンタイトルの顛末。だからこそ、舞台少女「ばなな」の生まれた「永遠の舞台」、第99回聖翔祭を眩しく思うわけですね。他者のキラめきによって、自分のあるべき姿や考えうる理想の舞台を上演できたから。

B組が裏方として支えて、私たちA組が歌って演じる。
99期生全員で作った私たちだけの舞台


この「私たちだけの舞台」というのに、舞台少女「ばなな」として活躍したなな自身も含まれるわけです。聖翔音楽学園に入学し、第99回聖翔祭を成功させて、みんなから頼られる舞台少女「ばなな」として生まれるまでが、大場ななの「永遠の舞台」。
みんながキラめいていたからこそ、作り上げる事の出来た舞台であり、ななにとっては居場所も出来た、かけがえのない「思い出」でもあり「憧れ」でもあった。しかし問題はそこにあります。



もう一度、この「三つの執着」に立ち返ってみましょう。先ほども話したように「ばなな」は「孤独」であるために「少女」と「約束」の執着が存在せず、「舞台」への執着が肥大化している状態です。「永遠の舞台」と見定めた第99回聖翔祭を再演し続けているのは、彼女にとって特別な記憶だからです。その記憶の再現性に拘っているために「変化」を求めてないわけですね。この「執着」の拘泥さだけを見て取ると、「ばなな」の執着は5話に描かれたまひるの執着とほぼ同一のものと考えられます。



5話の感想でどんなことを語ったかといえば、まひるは華恋(少女)に執着するあまり、本来の自分らしさを見失っているというもの。これが「ばなな」の場合は、「少女」から「舞台」へとその範囲が大きく拡張して、執着しているという格好です。
まひるもまた自らの理想を華恋に押し付けて、彼女自身の変化を望んでいなかった。その為に、舞台少女として変化し続ける華恋が自分の理想とかけ離れていくのが我慢できなかった、というのがまひるの執着の正体でした。
しかし、まひるの場合は他者のキラめきに気後れしてしまい、自分のキラめきを信じることが出来なくなった結果、理想を華恋に見るようになっただけで、彼女自体がキラめいていなかったわけではないのです。それ故、まひるは自分のキラめきに気付ける、秘めた強さを持つ舞台少女であることが描かれていました。



一方、「ばなな」はどうでしょうか。彼女の気質は舞台#1パンフレットの紹介文にもあったように自分がキラめくよりも、みんながキラめいているのを見ていたい人間です。まひるのように自分と他者を見比べて、劣等感に苛まれる類ではないですし、そこに執着する対象の違いも重なってきますが、先に語ったように「ばなな」のレッテルを剥がしてしまうと、ななに残るのは「虚無」のみです。
ななの「空っぽ」な個性を埋めるのは「ばなな」という舞台少女の存在であり、その「ばなな」が生かされされている舞台こそが「永遠の舞台」なのです。つまり彼女が第99回聖翔祭の再演を繰り返す理由は「みんなで作り上げた永遠の一瞬」を忘れたくないのと同時に自分が舞台少女「ばなな」として必要とされていたいというのが重なっているからです。
「同じ舞台」と言うことに拘っているのも、99期生全員で舞台を作り上げる過程において、みんながキラめく姿を誰一人欠けることなくずっと見ていたいと言う以上に、なな自身がその存在を周囲に認められている事の方が比重としては大きいように思えます。
その理由が先の画像に挙げている、中学生時代のななです。後に舞台#2でもクローズアップされますが、この「たった一人の演劇部」というのが、ななにとっての大きな心の傷であり、彼女が舞台に対して見せる「執着」の根源なのでしょう。
一人で舞台に立たなければならなかった中学時代。たくさんの仲間たちと共に「私」たちだけの舞台を作り上げることの出来た第99回聖翔祭。この差にななはどれだけ救われたのでしょうか。残念ながら、他の登場人物たちも視聴者もそれを完全に理解することは出来ません。
それはななの内面だけにしかない、彼女自身の感情だからです。言葉では説明できても、そのニュアンスを実感できるまでには至らないようなことは、日ごろの私たちの会話でもあることですが、ななの経験したことやそこに生まれた感情や孤独は他人には実感の難しいものです。


私ね、ずっと一人だった。
この学園に来て、本当の意味で一緒に舞台を創る仲間に出会った。舞台に立つことができたの。初めての舞台と、最高の仲間。守らなくちゃ、私のスタァライト

~9話より台詞抜粋~


ななの様子を案じて、やってきた純那を前にして語られるこの独白も、なな自身が他の舞台少女たちとは、明らかに「舞台(=スタァライト)」との距離感の異なるものです。もちろんここでいう「私のスタァライトとは第99回聖翔祭のことを指していますが、ここで「私の」という定冠詞が付くのが、彼女にとってはかけがえのない思い入れの深い舞台という以上に、「運命の舞台」と位置づけ、選び続けてきた事によるエゴイズムをやはり感じ取ってしまいます。あたかも自分の所有物のように語るその姿こそ、ななの「舞台への執着」であり「星摘み」ならぬ「星罪」であるのです。


なぜここに囚われたのか
どんな罪を犯したのか

永き時の中、それすらも忘れてしまった女神


「ああ、また繰り返すのね…絶望の輪廻を」


~9話より、ななのモノローグを抜粋~   


真矢とクロディーヌの歌う「星摘みの歌」をバックに、「スタァライト」(同時に第99回聖翔祭)の一部始終が描かれていきますが、その中で目を引くのが上に抜粋した、ななのモノローグ。第99回聖翔祭でのななは「絶望の女神」を演じていますが、赤字部分は役どころの台詞という以上に彼女の現状すらも示しているわけです。この前後で語っているモノローグも大事で、「なぜここに囚われたのか」は「『みんな』で作り上げた舞台が眩しかった」のであり、「どんな罪を犯した」のかと言えば、「第99回聖翔祭を『運命の舞台』に選んでしまった」事でしょう。「舞台に執着」するあまり、いつしか「ばなな」でない、大場なな自身が「舞台少女」である意味を忘れてしまった。これは再三繰り返していますが、「絶望の女神」たる「ばなな」が「絶望の輪廻」を繰り返すことに嘆いているという構図はなな本人の心理劇として見ると、舞台(演劇)を媒介に彼女の意識と無意識が拮抗する、メタ的な構造にもなっています。「『私』のスタァライト」を守らなければならないななと、それを「絶望の輪廻」として繰り返すことに徒労を感じてしまうなな。この分裂する二人の「なな」こそ、当ブログで語ってきた「キャラクター(記号)」と「登場人物(実体)」であるのです。「ばなな」と「なな」、彼女は自分の内に抱えた相反する二つの意識の間で揺らいでいる事が良くわかります。


最高の舞台、大切な仲間達、全部守りたいから、
「運命の舞台」にあの一年間の再演を選んだの

~9話より台詞抜粋~


大場ななが選んだ「永遠の舞台」は「聖翔音楽学園に入学し、第99回聖翔祭を成功させて、みんなから頼られる舞台少女「ばなな」として生まれるまで」、ということは先にも触れました。ここまで説明してきたことを総合すれば、思春期に通過すべき「自分が自分である事をどのように認識するか」という、アイデンティティ(自己同一性)の問題を、彼女は「永遠の舞台」の上で演じる「ばななという記号」に仮託、依存してしまっているという捻じ曲がった状態だと確認できます。


でも純那ちゃんも言ってたじゃない。
「大変だけどすごく濃密で充実した時間、最高の一年」って。
あの時間がずっと続けばいい。だから私は繰り返しているの。
私の永遠の舞台、あの一年間を。


(略)


そんな脚本、知らない
何もかも変わってっちゃう
次のスタァライト
そんなの、私のスタァライトじゃない!


~9話よりななの独白抜粋~


この場面での純那との会話も、ほとんど会話として成立しておらず、ななは目の前にいる純那の事すら見ずに、自分の心に渦巻く感情と「永遠の舞台」への執着のみを吐露するのに終始しています。まるで子供が駄々をこねるように。そうなのです、ななはここまで語ってきたように「自分が自分であること」を認識せずに、舞台少女「ばなな」をずっと演じているだけなのです。この為に何が発生しているか、というのは非常に単純明快です。長々と回りくどく語ってきましたが、一言で片付きます。


大場ななは舞台少女としてまだ目覚めていないのです。


彼女は自身が「舞台少女」であるということを、みんなから与えられた「ばなな」(記号)に任せすぎてしまった。「ばなな」という自我をみんなに認識される一年間は確かにななにとって「永遠の舞台」であるのは、疑いようのない事でしょう。「あるべき自己」を他者に認識してもらい、生きる意味と理由を実感するわけですから。その齟齬に気づいた7話の真矢は「ばなな」に安住するななの姿を見て、「本気を出さないのならば赦さない」と発言してるわけですね。
しかし、ななの「永遠の舞台」は8話のひかりとのレヴューオーディションによって断ち切られているということは語ったとおりです。ひかりと戦った「孤独のレヴュー」において、ななは自らが「孤独」である理由を突きつけられているのです。つまり「永遠の舞台」イコール「絶望の輪廻」を続けているから、です。しかし、それはひかりとのレヴューに敗れたことで歯止めが掛かりました。同時にななは「今までの自分」から一歩踏み出す勇気を問われることになるのです。ですが、彼女は「永遠の舞台」に拘泥し、孤独であることに浸りすぎてきたのも事実です。
ななとばなな、自己の同一化していない少女は、その自己矛盾を浮き彫りにされる中で、次なるレヴューオーディションに誘われる事になります。次項ではこういった背景を抱えたなながどのようにレヴューオーディションに立ち向かったかを見ていこうと思います。



【舞台少女新生】


前項で長々と語った、ななの問題点を踏まえて、9話のレヴューオーディションです。本項では「何故ななは華恋に敗れたのか」、つまりはあれだけ実力のある彼女の敗因はなんだったのか、を検証していきます。そのために9話のレヴューオーディションの内容を紐解いていくと、あるキーワードが浮かび上がってきます。そのキーワードこそがななが負けるに至った最大の要因であるわけですが、順を追って見ていきます。



でも、あの日…
ひかりちゃんが転校してきてから、おかしくなっちゃった
(略)
何もかも変わってっちゃう
次のスタァアライト…そんなの、私のスタァライトじゃない!


(中略)


ひかりちゃんが参加して始まった8人のオーディション
再演でいつも最下位だった華恋ちゃんはキャストから外された
でも──
華恋ちゃんの飛び入りで……


ひかりちゃんじゃ…ない
私の再演を変えたのは、華恋ちゃん?

~9話よりななのモノローグを抜粋~

始めにななの意識の移り変わりをおさらいしておきましょう。長らく「永遠の舞台」を再演し続けていたななにとって、予期せぬイレギュラー因子が出現します。それが神楽ひかり。彼女の転入によって、ななを取り巻く潮目はめまぐるしく変わっていき、今までのように思い通りにならなくなった事から「私のスタァライトじゃない」という台詞が彼女の口から飛び出してきたわけです。直後、レヴュー開演のメールが届き、ななは足早に地下劇場へと向かう事になるのですが、ここで本当のイレギュラーはひかりではなく、華恋なのでは?という推論にたどり着きます。
ななの「繰り返してきた」レヴューオーディションでは常に最下位だった華恋は、ひかりの転入によってオーディションの当事者から外された。キャスト変更はつつがなく行われ、新たなレヴューオーディションも滞りなく行われるはず、だった。しかし、ご存知のように華恋は1話でのひかりvs純那のレヴューオーディションに飛び入り参戦して、そのまま勝利してしまったのです。



イレギュラーはひかりの転入ではなく、華恋の乱入だった──ななの思い至った事は今までの構図がひっくり返ってしまうものでした。そもそも彼女の「永遠の舞台」が思い通りにならなくなったのは、新たな「8人目」ではなく「9人目」が期せずして現れてしまったせいです。「スタァライト」は8人で演じられる戯曲。本来であるならば、「9人目」は存在し得ないキャストである以上、イレギュラーはあってはならないのです。



では、戯曲「スタァライト」がどのような物語であるか。
理解している方も多いでしょうが改めて見てみることにしましょう。アニメだと折に触れて描写されていましたが、戯曲の全容が明らかになるのはこの9話が最初。舞台版#1から見ている方なら初回の段階から大まかな筋は既に頭の中に入っているかと。アニメ本編では9話Aパート冒頭、華恋は様子のおかしかったななを気に掛けつつ、ひかりの取り出したスタァライトの戯曲本(原本)を一緒に読んで、その魅力を再確認しています。




アニメにおける戯曲「スタァライト」の原題は「The Starlight Gatherer」。訳すれば、「星明りを集める者」となります。この原題自体はアニメ本編の展開とも符合するわけですが、それはさておき。気になるのは本の扉の文章でしょうか。これも本放送中にファンの間で考察のネタになっていましたが、念のため訳しておきますと、以下のように。

星はすべて覚えている。


『激昂』が『情熱』であった時を。
『呪縛』が『信頼』であった時を。
『逃避』が『勇猛』であった時を。
『嫉妬』が『慈愛』であった時を。
『絶望』が『希望』であった時を。
『傲慢』が『誇り』であった時を。


星は覚えている、それら全ての煌めきも皆。


要は「スタァライト」の劇中に登場する、「六人の女神たち」を指している言葉なのですが、9話の内容にはそこまで密接につながるものではないので、ここでは軽く触れるだけにしておきます。後々の話数で触れることもあるでしょうし、これら戯曲本の扉に書かれているものは多かれ少なかれ、本編に登場する9人の舞台少女たちに当てはまるフレーズであることは言うまでもないでしょう。もちろん第99回聖翔祭で女神たちのキャストを演じているのは、主演の真矢とクロディーヌ、そして当時はまだイギリスにいたひかりを除く、華恋たち6人だったわけですが、その中でななは「絶望の女神」を演じていたという事は前項で触れた通り。なおかつその「絶望」は「絶望の輪廻」としてななの舞台への執着、ひいては彼女の現状を取り巻くものと化しているのです。



自己矛盾といっても過言ではない、「絶望の輪廻」を繰り返していたなな。しかし8話でのひかりとの対決でその輪廻が破綻し、今回の9話では真の「イレギュラー」である華恋と対峙する事となります。この三人を取り巻く軸としても戯曲「スタァライト」が存在しています。無論、戯曲「スタァライト」は作品の根幹を成す、重要なキーワードである事には相違ないです。が、華恋とひかり、そしてななの間にある戯曲「スタァライト」の存在が彼女たちの勝敗を大きく左右したと言えるのです。その為には戯曲「スタァライト」の顛末を見なければなりません。
本編では第99回聖翔祭での公演をザッピングしつつ、戯曲本を読む華恋とひかりと第99回聖翔祭公演を回想するななが交錯する形で戯曲「スタァライト」の筋が語られていきます。この為、三人のモノローグが入れ替わり立ち替わり聞けますが、基本的に話の流れをななが語り、作品の主題部分を華恋、それに付随してひかりが語る格好となっているのに注目しておきたいです。




星祭りの夜に運命の出会いを果たしたフローラとクレール。彼女たちは翌年の星祭りでの再会を約束しますが、その帰途でクレールは事故に会い、フローラとの記憶を失ってしまう。どうにかしてクレールの記憶を取り戻そうとするフローラは「星祭りの夜に星摘みの塔の頂きで星を掴めば、永遠の願いが手に入る」という古い伝承歌を信じ、クレールと一緒に塔に向かう事に。というのが物語の出だしです。




9話の段階で、戯曲「スタァライト」の物語は華恋たちの繰り広げる物語にそこまで深く関与していないのは先に触れた通り。ですが、戯曲「スタァライト」は作品の根幹を成している大きな柱の一つでもあります。故に語るべきなのですが、ここではひとまず大体の筋を書き出したこのシーンのモノローグ抜粋をご覧いただきましょう。戯曲「スタァライト」のあらましはなんとなく把握できるはずです。

スタァライト──
それは星の光に導かれる女神たちの物語。
これは遠い星の、ずっと昔の、はるか未来のお話。

(略)

遠い約束で結ばれた二人(※フローラとクレール)。

(略)

500年前に幽閉された、眠り、死にゆく女神たち。
激昂、逃避、傲慢、呪縛、嫉妬、絶望──
なぜここに囚われたのか
どんな罪を犯したのか
永き時の中、それすらも忘れてしまった女神達

(略)

女神たちの黒き感情に切り裂かれながらも、二人は塔の頂上へ。

(略)

星の輝きに目を焼かれたフローラは塔から落ち、
クレールと永遠に離れ離れになった。
そして頭上では星々がまたたき続けるのだった。

~9話よりモノローグ抜粋~


先に説明した物語の出だしを含めてまとめるのならば、TV版では「(クレールの)失われた記憶を取り戻すために、星摘みの塔を登ったクレールとフローラの結びつきが引き裂かれていく」という筋の悲劇であることが分かります。「スタァライト」が悲劇であることは舞台・アニメ一貫して明示されていますが、ここで注目してもらいたいのは赤字で示した「遠い約束で結ばれた二人」という部分。このフレーズ自体は劇中の主役、フローラとクレールの二人の関係を言い表していると同時に、彼女たちを中心にした物語である事も強調している文言でしょう。つまりどちらか一方に偏るわけではなく、「『ふたり』で繰り広げられる、ひとつの物語」であるという事。文字通り、ふたりの主人公が立つ舞台だからこそ、フローラとクレールというキャストの絆が強調されているわけです。



『ふたり』でひとつの物語」、これは序盤にキリンが発したフレーズでもあります。戯曲「スタァライト」にしろ、本作で描かれる華恋とひかり、ひいては舞台少女たちの物語にしろ、この「『ふたり』でひとつの物語」という概念が大きな影響を及ぼしており、同様に登場人物たちの行動をも半ば支配する、強い言葉であると見ていますが、それこそ「遠い約束で結ばれた二人」というのはこの前提に立ったからこそ出てきた言葉のように思えますね。物語の強制力と言ってしまうと陳腐でしょうけども、それほどに強い結びつきを表していると言えそうです。さらに同様の意味合いを持つフレーズが舞台版でも出てきているので、そちらにも触れておきましょう。以下、抜粋した台詞を引用。


(幼華恋)「この世界に輝く星たちをつかめる唯一の場所、タワー・オブ・ディスティニー。暗い場所こそ輝く星──」
(幼ひかり)「輝きがなければ、きっと私たちは哀しい生き物──」
<略>
(幼ひかり)「あの頂上で輝きを掴むのが私の運命? それとも──」
(幼華恋)「この地上で星の輝きに照らされるのが私の宿命?」
(幼ひかり)「誰も教えてくれない答えを出すべく、私たちが幼い頃に見たあの舞台の名は…」
(幼華恋)「『ザ・スタァライト!」


(クレール)「あの頂上で輝きを掴むのが私の運命? それとも──」
(フローラ) 「この地上で星の輝きに照らされるのが私の宿命?」
(幼華恋)「『スタァライト』に立つ、たった8人の出演者──」
(幼ひかり)「選ばれし者たちだけが背負う、舞台のまばゆいライトたち…、でもこの物語は悲劇」
(幼華恋)「一年に一度だけ、祭りの夜に出会える親友」
(幼ひかり)「矛盾を超えた友情で結ばれる二人の少女
(幼華恋)「もし、空に輝く星たちの欠片を集めれば、二人で幸せになれる」


TV版では「遠い約束で結ばれた二人」が舞台版だと「矛盾を超えた友情で結ばれる二人(の少女)」として表現されています。言葉のニュアンスとしては後者の方がより論理を超えた強い関係性で結ばれているのに対して、前者のニュアンスはかなりファジーな関係性である、というのも見えてきます。前者の方が作品の設定周りが明確になっているためか、後者より全体の意味合いが曖昧になっているのですよね。寓話性が高くなっているというか。出だしの「これは遠い星の、ずっと昔の、はるか未来のお話」からしても5W1Hがよく分からなくなっていて、その戯曲の中で語られるモノローグそのものが物語に描かれる登場人物の関係性を具体的に浮かび上がらせる作りになっていますね。観客はクレールとフローラの関係性に注視していれば、周囲に流れる曖昧な時間と空間*2をさほど気にすることもなく、その「ふたり」の描いていくドラマに没入していく。戯曲「スタァライト」はかなり抽象的な舞台劇である一方で、クレールとフローラという「ふたり」の関係を際立たせ、観客の心に響かせる物語である事が見えてきますね。


(華恋)「親友のためなら危険を顧みず、奇跡を起こそうとするフローラの勇気」
(ひかり)「記憶をなくしても、親友との約束だけは忘れなかったクレールの強さ」
(華恋)「いい!」
(ひかり)「うん、いい」


そしてそんな「ふたりの物語」に魅了された者たちが、ここに。戯曲の筋立ては悲劇なのにもかかわらず、またそれぞれに思い入れる所が異なりながらも、華恋とひかりは戯曲「スタァライト」に、そして「舞台」に強く心を惹かれて、同じ場所に立っている。華恋とひかりの二人が「遠い約束で結ばれた二人」であり、「矛盾を超えた友情で結ばれる二人の少女」であるのは、前回の8話やそれこそ初回の描きからも明白でしょう。劇中のフローラとクレールがそうであるように、華恋とひかりもまた戯曲「スタァライト」を通じて結ばれたをお互い感じているのは言うまでもありません。それこそが戯曲「スタァライト」を大好きな二人が、舞台に強く惹かれ続ける所以の一つなのです。


kotobank.jp


ただし「」は元の意味を辿っていくとリンク先にも示されているように「人の心や行動の自由を束縛すること」という意味が先にあって、それが転じて「人と人との断つことのできないつながり。離れがたい結びつき」という現代的な語意に推移している言葉ですので注意が必要です。「絆」とは一見代えがたく尊い、それこそ切っても切れない大切な結び付きとして現代人は使いがちですが、語句の意味としては「呪い」と言い換えてもいい、強制力を持った言葉であるという事実は踏まえておくとまた見えてくるものは違ってくるはずです。



さて、そういった所で今回のレヴューオーディションは「絆のレヴュー」なのですよね。しかもレヴュー曲は「星々の絆」なわけです。けれど、この曲の歌詞を見ていくとどこかおかしい事に気付くのではないでしょうか? 作中で歌われるレヴュー曲の中でもこの「星々の絆」が最も短い歌詞であるのは、皆さんも知っての通りだと思います。



ななと華恋が掛け合うこのレヴュー曲はわずか8行の歌です。CDを持っている人は歌詞カードを確認してほしいのですが、見るとお互いに4行*3ずつ歌い分けている事が分かりますね。さらにななのパートに注目してみると、この曲の「奇妙さ」が見えてきます。以下、歌詞を引用。

決して誰にも邪魔はさせない
私だけの永遠の舞台
~9話レヴュー曲「星々の絆」より抜粋~


「絆」と名がつく楽曲にも関わらず、なんとななは「私だけ」をことさら強調した歌詞を歌い出しています。しかも歌い出しは「決して誰にも邪魔させない」と来てます。「離れがたい人と人の結びつき」を表す「絆」を掲げたレヴューオーディションとレヴュー曲でななは「絆」を歌わず、歌詞にもあるように「舞台」について歌っているのです。
「星々の絆」に感じるわずかな奇妙さは、なな自身の「孤独」という不安から引き起こされた、「舞台」への執着である事に疑う余地はないでしょう。しかし「決してだれにも邪魔されない」以上、永遠の舞台は「私だけ」で演じなければいけないというパラドックスも発生しているのです。「孤独」を恐れ、みんなと作り上げる「舞台」に執着し続けてしまった結果、さらに「孤独」を深めてしまったのは何とも皮肉です。



舞台に実った たわわな果実
だけど みんな柔らかだから
誰かが守ってあげなくちゃ
99期生 大場なな
私が守るの ずっと何度でも!


これを踏まえてななの名乗り口上を見ていくと、「舞台」という容れ物へ執着しているからこそ、そこに収められている「柔らかな果実」を自分が守らなきゃいけないという論理なんですよね。「星々の絆」に描かれているパラドックスはななを追い詰めていきます。舞台という器にある柔らかな果実たちを守らなくてはという気持ちだけが前に出て、舞台少女としてその器に入っていこうとしない事こそがななを苛む孤独、あるいは「眩しさ」の正体であり弱点でもあるのです。ななはひかりや華恋をイレギュラー呼ばわりしていますが細かく見ていくと、レヴューオーデションにおいて役回りがはっきりしていないのはむしろ大場ななの方であるようにも見えてきます。とてつもない(だろう)回数を繰り返した「輪廻」はその届かない「眩しさ」への渇望以上に、なな自身の立ち位置が定まっていない故に起こってしまった絶望だったのかもしれません。同じ舞台に強く固執しているのも、7話感想からつぶさに語っているように「自分の役割」が明確であることが大きな要因である事は間違いないでしょう。

変化は悲劇を連れて来る
~9話レヴュー曲「星々の絆」より抜粋~


であるから、「星々の絆」の歌詞でななは変化を嫌うのですよね。ここでの「悲劇」というのは、あくまでなな自身の立場から見たものに過ぎません。「変化は(舞台に)悲劇を連れて来る」と一見、主語を大きく捉えがちですが、ななの歌唱パートである事や文脈の流れを考えれば、ここでいう「変化」とはななの身に降りかかるものであり、「悲劇」にも同じことが言えます。つまり「変化(=ひかり、華恋)」が「(ななにとっての)悲劇」を連れて来るという事なのです。
ところが「星々の絆」の歌詞の奇妙さを見た時、ひかりと華恋はレヴューオーディション、その大元である戯曲スタァライトに描かれる物語においてむしろ正しい行動を取っているのです。戯曲「スタァライト」が「悲劇」として描かれる物語である事は作品の根幹を成す基本設定としてファンの知る所です。物語の中でフローラとクレールの絆に変化が起き、悲劇へと向かうのは戯曲「スタァライト」にとっての必然*4に過ぎず、その作品に魅了されたひかりと華恋がレヴューオーディションにおける「変化」となって、ななの舞台を脅かす事も必然性のある事象なのですね。ななにとってみれば、イレギュラーなのは二人の方なわけですが。「ふたりでひとつの物語」である戯曲「スタァライト」、ひいてはその演目を巡って争われるレヴューオーディション、つまり「舞台」においては大場ななこそがイレギュラーな存在である事が立証されてしまいます。第99回聖翔祭で公演された戯曲「スタァライト」の舞台に思い焦がれながらも、その実、舞台に必要とされていない、というよりも舞台に立たなけばならないという情熱が自己の内側から燃え上がらないまま燻ぶっているのが大場ななという舞台少女なのです。


(華恋)「わたしはひかりちゃんと二人でスタァライトするの!」
(なな)「……っ!! 大嫌いよ、スタァライトなんてぇっっ!


ここまで掘り下げて、ようやく。この問答です。「ひかりと出会って何かが変わったのか、何が違うのか、何のために舞台に立つのか」というななの問いかけに対して、華恋の答えは非常にシンプルに「ふたりでスタァライトする」と返しているこの場面。直後、「スタァライトなんて大嫌い」と言い放つななにどうしても引っ掛かってしまうんですよね。「実はそうだった」にしても、この言葉に至るまでの布石がこれまでのエピソードや描写に皆無だから余計に、「大嫌い」と強い否定語で表す必要がどこにあるのか。最初聞いた時、わずかに違和感が残った事は確かです。
しかし長々と大場ななについて語ってきた事でこの「大嫌い」というななの否定は理解できるのではないでしょうか。戯曲「スタァライト」は「ふたりでひとつの物語」であり、フローラとクレールに魅了された華恋とひかりは劇中で繰り広げられるような「絆」を感じ、レヴューオーディションという舞台の上で再び出会った。一方、ななは「星々の絆」で歌っているように「絆」よりも「舞台」に心奪われ、囚われ続けている。





「舞台」に強く執着しているのは、一人で舞台に立つしかなかった中学校時代の記憶とそんながらんどうな自分を受け入れて「役目」を与えてくれた聖翔音楽学院第99期生のみんな、そして全員で「舞台」を作り上げるという事の楽しさを肌身に実感した事が直接の要因と言えるでしょう。しかしこれらの要因だけでは戯曲「スタァライト」を「大嫌い」だというには根拠として弱いのですよね。
結局、ななは「舞台」に執着している以上、演じられる演目についてはなんであっても良かったと言えます。「みんな」で一つの舞台を作り上げる過程と喜びを経験した事の方に、ななは強い「眩しさ」を覚えているわけですから。99期生たちが3年間演じる演目が戯曲「スタァライト」でなくても、同様の強い印象がななの中には残ったはずです。
戯曲「スタァライト」が「大嫌い」な理由を解き明かすためにはTVアニメの前日譚コミック「少女☆歌劇 レヴュースタァライト オーバーチュア」(作:中村彼方、画:轟斗ソラ)のななのエピソードを参照しましょう。以下、引用。




以上。
このエピソードで描かれているように「みんな誰かの事を想ってる/想われている」のをななは「羨ましい」と吐露している。「オーバーチュア」はTVアニメ本編の1年前を描いた作品である事からも、この引用箇所で回想されているのは中学時代のななです。「想ってる/想われている」以上に演劇部と掛け持ちしてくれている同級生たちには「演劇」の他に大事なものがある。けれどななにとってその大事なものこそ「演劇」イコール「舞台」です。たった一人の演劇部だったという経験が「誰かの事を想ってる/想われている」事へ羨望のまなざしを向けてしまうのは想像に難くないでしょう。そういった羨望があるからこそ、「想ってる/想われている」ふたりが離れ離れになる「悲劇」を嫌うわけですね。それは同時に「想ってる/想われている」事への憧れと無認識が裏返しになっている証拠でもあります。「星々の絆」でななが絆の事を歌っていないのも、そして今回の華恋や8話でのひかりとのレヴューオーディションで敗北するのも同じ理由から起きています。




論より証拠です。8話レヴュー曲「RE:CREATE」の歌詞を見ていきましょう。再び9話レヴュー曲「星々の絆」の歌詞も照らし合わせながら、以下に抜粋・引用します。

二人の夢が開くわ
(中略)
会いたかったよ キミにずっと
もう一度繋ぐ星の絆 奇跡起こせる
~8話レヴュー曲「RE:CREATE」より抜粋~

「大切」に出会って 私たちは強くなる
繋がったの 星の絆 いつまでも守るよ
~9話レヴュー曲「星々の絆」より抜粋~


どうでしょうか。
8話レヴュー曲「RE:CREATE」の大部分を占めるひかりの歌唱パートと「星々の絆」における華恋の歌唱パートはなんと「星の絆」でリンクしているのです。しかもどちらも「もう一度繋ぐ」「繋がったの」再び絆が結び付いた事を歌っているのですよ。これこそがななの敗因と言えるでしょう。ななにとって、別離は悲劇そのものであり二人は出会う事は二度とないと認識しているから「大嫌い」となるわけです。「星々の絆」において「絆」ではなく「舞台」を歌っているのはななが「舞台」に強く執着しているのもそうですが、今まで「絆」を感じる経験がなかった点に尽きます。中学時代は掛け持ちしてくれる同級生がヘルプで入ってたりした事もあったようですが、基本的には一人の部活動。いわゆる「同類」、舞台少女たちと共に舞台を作る事を経験したのは聖翔に入学してからなのは言わずもがな。ななにはその段階からして得難い経験だったのです。故に「舞台」には執着するが、戯曲「スタァライト」の筋書きには「大嫌い」と言えるのですね。大場ななは「絆」を今まで認識してこなかったし、同様に相手もいなかった。だからこそ、「悲劇」によって引き裂かれてしまう関係がそこで終わってしまうものだと考えたとしても不思議ではないでしょう。
一方でひかりと華恋はそれぞれに「星々の絆」がもう一度繋がる事を示し、ななの持つ認識を「日々進化する舞台少女の姿」とともに打ち砕いているのが、8、9話のレヴューオーディションの顛末と言えます。「RE:CREATE」「星々の絆」の歌詞を突き合わせて見ればわかりますが、どちらの曲もひかりや華恋のパートに対してななのパートは所在ないんですよね。それはななの執着しているものが「舞台」であり、華恋やひかりのように対象者の存在する執着ではない事が影響しているのもそうですし、「星々の絆」で歌われるように舞台という「容れ物」の中の「たわわな果実」にまで興味が及んでない、というのもまた事実なんですよね。一口に言ってしまえば「孤独」であるがゆえに「絆」がない事が、レヴューオーディションにおける大場ななの強さと弱さを表裏一体にしているように思えます。
「決して誰にも邪魔されない永遠の舞台」を演じ続けなければならない世界を独りで抱え込んでしまう大場ななという「少女」は、前項で語ったように『見つけてくれる』他者を必要としている人間なのです。その為には「永遠の舞台」という自分だけの世界から自ら出ていかなければならない。しかし「変化」が連れてくる悲劇に怯えるあまり、舞台少女としての役割、つまり生きる意味を与えてくれたその「舞台」に執着し続けてしまっている。本当の自分と演じている自分の違いに気付けないまま延々と、です。従って、華恋が以下の場面で取った行動は無自覚にせよ*5、かなりの強硬策だと言えます。


ごめん、なな


「一瞬で燃え上がるから舞台少女はみんな、舞台に立つたびに新しく生まれ変わるの」と諭し、「絶望の輪廻(=永遠の舞台)」を断ち切った華恋がその言葉を向けたのは、『ばなな』ではなく「大場なな」でした。


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思えば、7話の第99回聖翔祭の打ち上げで『ばなな』と名付けた張本人が直接引導を渡した格好ですが、「大場ななが舞台少女である事」「舞台に執着し続ける理由」一致していない事に本人が気付いていない以上はこうなる他なかったと言えそうです。当然ここまでのプロセス自体も観客(視聴者)の観点から、実際の物語描写から感じ取ることの出来た内面、あるいは機能的なプロセスであることは留意しつつ、ですが。



ともあれ、ななが守ろうとしている「永遠の舞台(=絶望の輪廻)」は誰かが一人でも欠けてしまったら舞台は「終わってしまう」。一方でその「舞台」は「舞台少女」の観点から否定されて然るべきものであるという事は7話の真矢が言っている通りであり、この場面で華恋が取った行動も同じ「正しさ」を伴ったものであると言えます。

日々進化しているから「同じ」は有り得ない。

ななが「変化」を嫌うのもそうですが、それ以上に華恋(と、ひかり)の「何が変わった」のか、どうして「きらめていて、まぶしい」のかが分からないのはこの段階でのななの価値観の違いが決定的だともいえるでしょう。「ふたりでひとつの物語」である所の戯曲「スタァライト」で描かれる物語をななはネガティブに捉えているけど、華恋(ひかり)は9話で描かれる通り、悲劇の物語にも拘らずフローラとクレールの「絆」に強く心惹かれているわけです。作品の捉え方としてはポジティブだと言えます。そこに自分たちを重ね合わせているのもあるのか、「RE:CREATE」や「星々の絆」で歌われているように「再び繋がった」事への奇跡も感じている。ずっと「孤独」だったななにとっては「想ってる/想われている」という「絆」も「別離」あるからこそ生まれる「再会」も想像の範疇を越えていたのです。「愚者は経験から学び、賢者は歴史に学ぶ」と言いますが、「別離」というものがななの身近な経験*6だったから、戯曲「スタァライト」の筋を「大嫌い」と捉えていたのかもしれません。

かくしてななは「ふたり」に敗北する事で「舞台への執着」から強制的に解き放たれました。しかし、ななは「舞台少女」としてリセットがかかっただけですので、前へと進むにはそれを後押しする力が必要です。つまり「からっぽになってしまった」少女の情熱がめざめるためには自分自身を再定義しなければなりません。それではいよいよ舞台少女、大場ななの「情熱がめざめるとき」を考えていきましょう。


【You're Not Alone】


では、ここで9話から7話前の2話について振り返りたいと思います。


terry-rice88injazz.hatenablog.jp


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「舞台への執着」から抜け出た大場ななについて話すためには、星見純那について触れなければなりません。というより、2話は9話との対比構造にあるので、9話の結びを語るには不可欠なパーツだと断言できます。そして大場ななと星見純那という「ふたり」に垣間見える共通項を追ってみていくと、「大場ななという舞台少女」もおのずと見えてくるのです。ここでは当ブログの感想を参照しながら、話を進めていきましょう。


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2話での純那がどうであったか搔い摘んで説明してしまうと、「自分星を掴もうと人一倍努力を重ねるも、周囲との届かない実力差に焦りを感じ、余計に空回してしまう」状況でした。スタァになりたいという理想に対して、そこに遠く及ばない自分に苛立ちを覚えているのですね。

観客気分なら出てって。
出てって。
彼女たちを越えていかないと、舞台の真ん中には立てないの。

~2話より純那の台詞を抜粋~


引用した台詞には純那の焦りが良く表れています。並みの努力では追いつけない実力差を肌身に感じている一方で、99期生の主席と次席のパフォーマンスに脅威を覚えず、憧憬のまなざしを持って見ているクラスメートの生温さに苛立っている。今、目の前のトップに立っている者たちをまず越えていかないと、憧れた「舞台」の中心に自分が立つ事が出来ない。それが分からない周囲と自分の志の差に思い余って出てしまった言葉を担任の櫻木先生に窘められているわけです。


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「舞台」に強く意識が向いている分だけ、自他ともに厳しさを求めてしまい、かえって孤独を深めてしまっているというのが2話における純那の立ち位置なのです。と、ここまで書けばお分かりでしょうが、純那の執着は当ブログお馴染みの「三つの執着」で言う所の「舞台」です。


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再三の繰り返しはしませんが、2話で語られている事からも分かるように純那とななは同じ執着に囚われており、さらに純那は2話時点において「舞台」への思いが強いあまりに孤独を深めているのです。この点からも7~9話にかけて繰り広げられるななの「孤独」とも共通しています。といっても、大場なな本人の感じる「孤独」は中学時代にまで遡ることが出来るのは語られている通りですね。二人の中に共通項は存在しているわけですが、それぞれの「執着」と「孤独」はニュアンスが異なっています。ななについては7話からここまで語って来たので、ここでは純那の「執着」と「孤独」にのみスポットを当て、見ていきます。

純那の「執着と孤独」は、無自覚さと複雑さを伴ったななのものとは異なり、非常に表裏一体です。「舞台と舞台少女の関係」と言っていいほど、この作品における正統派な印象を与える「執着と孤独」と言えるでしょう。


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ずっと勉強ばかりしてきた私が、初めて見つけたきらめく夢。
偉い人、賢い子じゃない私だけの星
出会ってしまった、巡り合ってしまった
あの日私は生まれ変わったの、舞台少女に

(中略)

このオーディションはチャンス。私はこのチャンスを逃さない。
絶対に逃がせない。
私は私の星を手に入れる
私の舞台を終わらせないために!

~2話より純那の台詞を抜粋~


以上の引用は2話のレヴューオーディション最中に純那が「舞台少女に生まれ変わった瞬間」を語る場面。同時に「自分星」を見つけてしまった瞬間でもあります。舞台少女たちの家族背景は作中においてあまり語られない*7のが特色ですが、純那の場合は語られる台詞でその背景が垣間見えてきます。ここでは「ずっと勉強ばかりしてきた」とあって、純那の家庭が教育熱心な家庭だというのが窺えます*8。「自分星」を見つけ、「舞台少女へと生まれ変わってしまった」のが8歳の頃ですから小学2年生の時点で勉強漬けであった事からも、両親が学術分野に従事している職に就いているか、高学歴でハイクラスな職業である事は想像できますね*9
純那自身、「舞台」との出会いを「夢」や「星」と例えている事からもそれまでの自分の中では考え付かなかった、あるいは存在もしていなかったほどの衝撃だったと言えるでしょう。この辺りは戯曲「スタァライト」に魅了された華恋やひかりと同様、観客席で見ていた「舞台」に憧れ、自らもそのステージに立ちたいと強く思ったわけですね。つまり彼女の「情熱がめざめた」のです。とはいえ、純那が華恋やひかりと異なっているのは舞台に「めざめた」年齢が遅かった*10のもそうですが、それ以上に家庭環境が大きく影響していると言えるでしょう。舞台版#1挿入歌「私たちの居る理由」にはその背景が滲み出ています。

期待されてきた未来
立派に生きることの期待
親の言うレールを破ってここまできたの
~舞台版#1劇中歌「私たちの居る理由」より純那ソロパート抜粋~


ここでいう「期待されてきた未来」と「立派に生きることの期待」というのが何を示すのかは分かりません。ただ先の台詞引用と合わせても、親が期待していた将来とは異なった進路を純那が選んだことは確実です。そしてここが華恋とひかりとの違いと言えます。二人は少なくともそれぞれの両親が子の進路を後押しているように思えます*11。一方、純那は自分の進路を一度反対されたらしいのが端々の描写から窺えますね*12。一般的な親の感覚からすれば、役者や舞台関係の仕事の不安定さは心配になるでしょうし、安定感のある職であればなおさらかと思います。想像するに、両親には難色を示されるも自分の行きたい進路を押し通した、というのは純那の頑なな性格を考えれば、当たらずとも遠からずと言った所でしょうか。
純那が「舞台」に執着する理由はそこに他ならぬ「自分星」を見出してしまったというのも間違いないのでしょうが、それ以上に本人の気持ちとしては進路を押し通した事で退路を断っているからこそ、是が非でも舞台の真ん中、ポジション・ゼロに立たなければならない思いも強いわけですね。そういった思いが強いあまりに「観客気分なら出てって」という言葉が口を衝いて出てしまうのも理解はできます。「舞台への執着」が空回りし、努力だけでは届かない実力差、そこから来る焦燥感と不甲斐ない自分と周囲への苛立ちによって孤立してしまう。一方で舞台に見たキラめきと輝く「自分星」を掴みたいと思ってしまったからこそ、「私だけの舞台」に立ちたい気持ちは収まらない。純那の中に渦巻く「執着と孤独」は舞台少女であるが為に抱えるべくして抱えてしまう「舞台少女のジレンマ」というべきものでしょう。理想と現実というか。そのギャップが大きければ大きいほど、苦悩し葛藤もする。純那もまたその溝が深さが分かっているから、少しでもそれを埋めようと必死になるのですね。


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一生懸命やっても、全然追いつけない。
どんなに努力しても追いつけない距離。
だからって諦められるわけがない。
なりたいの、スタァに

~2話より純那の台詞を抜粋~


純那の舞台に対する「執着と孤独」は「スタァになりたい」「私だけの舞台に立ちたい」思いに強く根差しているものであり、それはつまり「舞台少女」が持ちうる本能なのですね。「舞台に立つ事」を強く願う。これほどに強い感情はないでしょう。その執着ゆえに孤独になる事もある。しかしスタァを、ポジション・ゼロを、舞台の主役を掴み取るために諦めるわけにはいかない。舞台少女の生き様として非常に真っ当なものだと言えます。ですから純那の持っている「舞台への執着」というのは「舞台少女である」事とイコールで結べるわけです。



ううん、違うの。
嬉しいの。
私、この学園に来てよかった。
みんなで作る舞台がこんなに楽しくて、幸せでキラめいているなんて。
この舞台を、第99回聖翔祭のスタァライトを忘れない。

私が見つけた永遠の仲間と運命の舞台この日生まれたのです。舞台少女大場ななが
~7話よりななの台詞を抜粋~

諦めない、私だって舞台少女よ。
私だってスタァになりたいの!

~2話より純那の台詞を抜粋~


と、ここまで純那の「舞台への執着」を見た上で、ななの記憶する「舞台少女大場ななが生まれた日」のモノローグを見ると、先の項で語ってきたように「舞台を作り上げる」事に比重があって「舞台少女である」事に触れられていないのがよく分かります。「仲間と舞台を作り上げる楽しさ」を「運命の舞台」と見定めてしまっているので「舞台の上で演じる」事に対する執念はあまり強くないようにも見えますね。つまり「スタァになりたい」「私だけの舞台に立つ」思いに乏しいのです。それはななの舞台経験の無さも大きく起因していて、「舞台への執着」と「舞台少女」が彼女の中で結びついていない事が浮き彫りになっている証と言えるでしょう。ななにとっての「舞台への執着」はみんなで作り上げた第99回聖翔祭の舞台そのものであり、「舞台少女として舞台に立って演じる」事ではないのです。故にななは「運命の舞台」に固執しすぎて「舞台少女」である理由を見出せないまま、舞台での立ち回りを見失い孤立してしまったわけです。



純那とななは「舞台への執着と孤独」を抱えている。しかしそのベクトルは異なります。「舞台に立つ事」と「舞台を作り上げる事」、ふたりはそれぞれに「執着」しその結果「孤独」となってしまう。「舞台少女である事」を強く意識しすぎて孤立する純那、逆に全く意識しないせいで自分の恐れている孤独へ無自覚に陥ってしまうなな。似ているようで違っている、しかし同じ「執着と孤独」を持つふたりだと言えます。そんなふたりが9話終盤、夜の校舎中庭で鉢合わせしたのですね。寮では同室にも関わらず、お互いにお互いの領域へと不必要に踏み込んでこなかった二人*13がここでようやく自分たちの内面を交わすこととなった。



「絶望の輪廻」もとい「運命の舞台」から強制的に解き放たれたななが「私、間違っていたのかな?」と吐露するのを、純那が歴史上の名言を列挙して励ます9話クライマックスシーン。本記事ではその格言を一つ一つ見ていくよりも、先に挙げたレヴュー曲「RE:CREATE」「星々の絆」、加えて1話レヴュー曲「世界を灰にするまで」2話レヴュー曲「The Star Knows」の各歌詞を抜粋しながら、ななと純那の感情の交差を見ていこうと思います。少し引用が長くなりますが、逐一説明を挟んでいきますのでどうかひとつ。ここからはなんというかラップミュージックのMCバトルのノリでご覧いただければ。



きっと邪魔させない この世界を灰にするまで
誰よりも熱く燃え続ける 私の情熱は
~1話レヴュー曲「世界を灰にするまで」より抜粋~

決して誰にも邪魔はさせない
私だけの永遠の舞台
~9話レヴュー曲「星々の絆」より抜粋~>>


まずは「世界を灰にするまで」「星々の絆」から、純那とななの「舞台への執着」のスタンスの差をよく表している部分です。先に説明した通り、純那は世界を灰にするまでは誰よりも熱く燃え続ける、「舞台少女の情熱」を歌っていますが、ななは誰にも邪魔させない「私だけの永遠の舞台」を歌っています。歌詞だけを捉えて見ると、同じ語句を使いながらもニュアンスの異なる意味を受け取られるようになっているのは、レヴュー曲及びアニメ本編の全歌詞を手掛けている中村彼方さんの本領発揮な所でありますね。純那は「舞台少女である事」を強く想い、ななは「永遠の舞台」を強く願ったというのがこのヴァースを取っただけでもよく分かります。ここではこの二つの歌詞が起点となります。

悲しみで廻る世界にさよならを
大事な人を守って
(そして何度も)何度も 絶望の前で折り返す
~8話レヴュー曲「RE:CREATE」より抜粋~

変化は悲劇を連れて来る
大切に守っていたいだけ
~9話レヴュー曲「星々の絆」より抜粋~>>

罪に惹かれたが 落ちてくる時
譲れない夢がある 守りたい空がある
~1話レヴュー曲「世界を灰にするまで」より抜粋~


さらに「RE:CREATE」からも引っ張ってきて、「守る」という言葉をキーに「星々の絆」「世界を灰にするまで」と並べると、今度はななの弱さが浮き彫りになってくるのが分かるでしょうか? 「守って」とか「守っていたい」と口では言っているものの、「悲しみで廻る世界」というのは「別離」が身近な経験としてあったななの仄暗い不安から来る観点だと言えます。同様に「変化は悲劇を連れて来る」というのも「別離」イコール「変化」だと捉えるななの「変わりたくない」あるいは「この舞台(時間)をずっと続けていたい」という願望による恐怖でしょう。「私だけの永遠の舞台」を強く願いながらも、それが変化してしまう事を何よりも恐れているというのが大場ななの心の奥深い所に潜む「弱さ」に感じられますね。

慣れてきた当たり前の孤独
舞台が変えてくれたわ
変わりたくないこのまま
次には私まだ進めない……
時間よ止まれ 大人にならないで
〜舞台#1劇中歌「私たちの居る理由」よりばななパート抜粋〜


先に挙げている舞台#1劇中歌「私たちの居る理由」の歌詞をもう一度見てみてもそれは明らかです。「慣れてきた当たり前の孤独」「舞台が変えてくれた」わけですが、「変わりたくなくて次にまだ進めない」わけですよ、みんなと作り上げた*14舞台がとても楽しくてキラめいていたから。そんな幸せな時間を終わらせたくないとは誰もが思うはずです。けど、始まりがあれば終わりもあるのも世の常ですね。言ってしまえば、ななは「終わらせたくない」と願って「永遠の舞台」を続けることで「絶望の輪廻」を繰り返す罪を知らずと背負い込んでしまっていたのが7話で描かれた事の顛末でした。
それがひかり、そして華恋とのレヴューオーディションによって打ち破られる事となるのはここまで語って来たとおりですが、「世界を灰にするまで」での「守りたい」純那側の視点だと言えます。純那は「譲れない夢」がある一方で、「守りたい空」があるとも語っています。前段の「罪に惹かれた星」をななだと解釈すれば、「星が輝く空」も守りたいと読む事も可能です。「罪に惹かれた星が落ちて来た時」とはまさに9話終盤で純那がななと対峙している場面を指していて、純那が「舞台少女である事」「スタァになって、ポジションゼロに立つ夢」も譲れないとしながらも、「罪に惹かれた星が再び輝く空も守りたい」と歌っているわけですね。もちろん「世界を灰にするまで」の歌詞が描かれた段階で、「RE:CREATE」「星々の絆」の引用部分をフォローするような作りとして構成されていたかは分かりませんが、このように並べて見ると純那がななへ手を差し伸べている風にも取れる連関性を持ち得ている事のも、今ご覧いただいた通りです。純那は続けて「The Star Knows」では以下のように歌っています。


理解者など誰一人 傍にはいなかったから
向かい風に煽られ心を焼いたの
何を求めているのかはあのだけが知っている

触れられない未来かは 誰にも分からないでしょう
戦い続けてた 自分自身の影と
何を求めているのかはあのだけが知っている

幕が開けば未来が 必ず迎えに来るはず
そう ここにいてはいけないもっと遠くへ
~2話レヴュー曲「The Star Knows」より抜粋~


タイトルの「The Star Knows」よろしく、「星が知っている」という曲の根幹テーマを純那が歌い上げる部分ですね。ここで歌われる「星」に着目してみると先ほど「世界を灰にするまで」で歌われた「罪に惹かれた星」はイコールで結びつけられそうです。「理解者など誰一人傍にいなかった」「向かい風に煽られ心を焼いた」というのはおそらく「舞台少女」の道を進路選択した純那の境遇そのもので、ここでの引用部分も純那自身の苦闘と信念が語られている内容であるのは疑う所はないでしょう。「星」に比して「未来」は純那の辿り着こうとしている行き先です。舞台に魅了されるのが遅かった分、触れられない、あるい辿り着けない「未来」を掴むために何を求めているのかは「星」だけが知っているわけですね。

(真矢)言いましたよね? 主役をかけてオーディションに挑みましょうと。 〔中略〕 恵まれた体躯、素晴らしく伸びる声、舞台全体を見渡せる視野。…なのに、あなたはなぜっ

~中略~

(真矢)みんなのばななさんでいたいがために、本気を出していないのならば、私は…
   大場なな。あなたを赦さない
~7話より台詞抜粋~


これももう一度取り上げておきましょう。7話での真矢とななの会話ですね。ここは真矢が「本気でない」ななを叱咤する場面ですが赤字で示した通り、ななはトップスタァになれる資質を全て持っているにも拘らず、「永遠の舞台」に囚われているせいで真矢にこのように言われてしまっているわけですね。それは純那がいくら努力しても得られない天賦のものである事も事実です。ゆえに純那が目指す「未来」に求められる全てを「星」は知っている(持っている)のに罪に惹かれて落ちてきてしまった。それでも純那は「未来」に触れられるかは誰にも分からない。だからこそ幕が開けば、必ず迎えに来るはずとも歌い込むのですね。「舞台少女である情熱」を常に燃やし続ける事を怠らなければ、いつかは届くはずであると。純那はこう歌って、「あなたはどう?」とななに問いかけている。という風に結びつけると、純那の語る格言はどれも「失敗は恐れることではない」「諦めない」「これで終わりじゃない」というニュアンスが含まれたものであるのも頷けるのではないでしょうか。

あなたの事分からない だからこそ
語り合える 二人
朝が来るまで
未来は誰にでもある
~2話レヴュー曲「The Star Knows」より抜粋~


そうして読み込んでいくと、「The Star Knows」終盤の華恋が純那と掛け合うパートの歌詞は9話終盤の純那とななの対話としても符合するんですよね。あなたの事が分からないからこそ語り合う。そして辿り着こうとしている行き先(未来)は誰にでもある、という着地点として読めてしまいます。純那もななもお互いの胸の内までは分からないし、知らない。それでも互いに進むべき「未来」はあるはず、ということを華恋が歌う事で純那とななの関係性は繋がったのです。恐らく「ふたり」だけでは点は線にならなかったはずです。華恋というイレギュラー要素によって初めて、近くて遠い二人がお互いの事を見た。これもまた「変化」がもたらした結果だと言えます。


人にはさだめのがある
きら、明け、流れ
己の星は見えずとも、見上げる私は今日限り
99期生星見純那! 掴んでみせます、自分星!

~2話より星見純那の前口上を抜粋*15


その「変化」があったからこそ、純那はななの傍らで「立ち止まらず前進する」自分の意志を言葉で示して励ましてみせた。ななはそんな純那を今まで「見たことなかった」から、驚いた拍子で笑ったんですよね。今まで繰り返してきた「永遠の舞台」では見ることが出来なかった姿だからというのもあります。けどそれ以上に「変化する事」を面白いと感じた事で、ななの認識と価値観が更新された。「舞台少女として」これは大きな一歩です。ななは純那を通じて「情熱がめざめた」。舞台少女の日々進化している姿を目の当たりにして初めて「変化」を受け入れる事が出来たのです。



一方でそれらをどう受け止めていけばいいのか、戸惑うななの背中を押したのも純那でした。「舞台も舞台少女も変わっていくもの」、であるからななもまた「舞台少女である」事を純那は認めて、抱きしめた。「(あなたも)舞台少女なら大丈夫」と舞台少女大場ななの進む未来を保証したのですね。がらんどうだったはずのななの内面(個性)に純那は舞台少女という中身を見つけたキャラクター(記号)と登場人物(実体)に分かれていたななの個性は純那によって初めて一致したのです。そして遂に────


知らなかった
ななってこんな大きいのに
怖がりで泣き虫で
子供みたい

~9話上記引用シーンより純那の台詞抜粋~


舞台少女大場ななは生まれた
純那の腕の中で、その産声を上げたのですね。いやあ、ここまで長かった。そうなのです。今までの語ってきた大場ななの精神構造と言いますか、心持ちをひっくるめての「子供みたい」なんですよね。「みんなで作り上げた舞台」が楽しくて、それがずっと続いていけばいいと願った。舞台#1劇中歌「私たちの居る理由」での「時間よ止まれ 大人にならないで」という悲痛な叫びも、9話終盤以前のななが「子供みたい」であったから、日々成長していく周囲から取り残されていくような感覚に囚われたのは間違いなくあるのでしょう。ただそれも純那が受け止めたことでやっとななは「前に進む」事が出来たわけです。純那の持っていた情熱大場ななという「星」に火を灯したのは偶然でもなにもなく、必然だったのですね。

空の輝き 昨日と今日は違う
生まれたての星を届けたくて あなたに
~9話レヴュー曲「星々の絆」より抜粋~


ここでようやく大場ななにとっての「星々の絆」が機能します。生まれたばかりの星にキラめきを分け与えたのは星を見る人、つまり純那ですね。そしてあなたに受け渡したのがこのパートを歌う愛城華恋である事も見逃してはいけません。

あのだけが未来を知っているのなら
空を見上げて、そっと手を伸ばす

~2話レヴュー曲「The Star Knows」より抜粋~


同様に「The Star Knows」の締めの歌詞も華恋です。この部分は先に挙げた「星々の絆」と歌詞が対応している事からも未来が並列して存在しているのが分かります。こちらは星を見る人未来を知る星のために手を伸ばしています。反対に「星々の絆」はその星を見る人生まれたばかりの星を届ける、という風になっています。



「少女☆歌劇 レヴュースタァライト」 トレーラー 第1弾


思えば、今から5年前*16の6月に公開されたアニメ版の第一弾トレーラーでは引用した画像のごとく、「ふたり」の距離感は登場人物の組み合わせの中でも一番離れたもの*17であったわけで、この大場なな編ともいえる7~9話「舞台少女たちの絆が生まれる瞬間」を描いたものだったと言えるでしょう。そんな距離感の遠い「ふたり」の絆を華恋は結び付け、一人は舞台少女として再生産させているわけですからけしてやって来た「変化」は悲劇ではなかったという裏付けにもなっているのですね。*18


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大事なのは大きな視点を持つ事です。
自分自身を演じるのはこの一番小さな円。
大局的な視点から舞台を見る事で、自分の役割をより客観的に捉える事ができます。

~2話より教師の台詞抜粋~


と、同時にななも純那も自身に持って回っていた問題点は2話の授業シーンで語られた教師の言葉に尽きるのです。ななは大きな視点を持っていたけれど、自分を演じる小さな円を持ち得ていなかった。純那は小さな円は持っていたけど、舞台を見据える大きな視点を持っていなかった。似ているようで逆の問題。それはつまり、お互いがお互いの足りなかった所をそれぞれ補ってはじめてバランスが取れる、「ふたりでひとつ」の関係性なんですよね。まるでななの扱う二本の刀「輪(めぐり)」「舞(まい)」のように性質の似ているふたりでもあり、その実、特性が全く異なるふたりでもあるというのを体現してるともいえるのです。



『ばなな』から『なな』へ。
『ばなな』として大切に守っていた過去、時間を全てひっくるめてななは『舞台少女』大場ななとして再生産できた。それらを全て糧として「次の舞台へ」────。
前に進むことも変化する事も怖くない。傍らには「情熱」と「キラめき」を与えてくれたパートナーがいる。お互いがお互いに切磋琢磨しあえば、未来にはきっと届くはずだから。

未来はまだ真っ白なままのシナリオだね
書いて消してはまた描いて 私たちの夢を

~「願いは光になって」より、なな・純那のソロパート歌詞抜粋~


きっと大丈夫────。





以上















大場なな主演・演出
『バナナになった少女』


の公演はすべて終了となります。ありがとうございました。


……という仕掛けだったんですよね。戯曲「スタァライト」とは別に存在していた劇中作「バナナになった少女」はそのまま、ななという少女が「舞台少女」へと生まれ変わるまでの物語をコントロールしていたのですよ。大場ななが巻き込まれた数奇な生き様はそのまま彼女の一人芝居として演じさせられていた、つまり「舞台に生かされている」状態であったとも言えます。この記事の頭辺りに挙げた、華恋の舞台の捉え方では「生き物」と表すことで自らが立つ「舞台」と舞台に立つ「自分」をイコールで結んでいるとしました。7~9話におけるななはまさにそれを地で行っていたのです、「バナナになった少女」の主演として。
事実、「舞台少女」大場ななとして再生産されてからそれまで舞台、アニメ、コミカライズにも出張っていた「バナナになった少女」の脚本は影形も見えなくなっていますから、なな自身が「舞台少女」として「次の舞台」へと歩みを進められた事で「ばなな」である必要がなくなったのとも符合しているわけですね。なんでこんな話をするかというと、それはつまり戯曲「スタァライト」もまた……*19




かくして舞台少女たちは出揃い、レヴューオーディションもいよいよ大詰め。
果たしてトップスタァの座に輝くのは誰か────。
という所でお時間となりました。
続きはまた次回に。



次回に続く
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※なお本感想はあくまで個人の印象によるものです、悪しからず。

*1:こんなこと言いつつ、TVアニメ1話分の感想書き上がるのに3年以上掛かってるのには言い訳も立ちません

*2:舞台であり世界でもある

*3:なな3行→華恋2行→なな1行→華恋2行の順で歌われる

*4:もちろん運命と言い換えていい

*5:というのは、ななの抱える問題以上にひかりとの間にある約束と執着が華恋の中では先に立っているから

*6:先回りすると再生産総集編のパンフレットに転勤族の家庭だったので引っ越しが多かったとの記載アリ

*7:例外はあれど、特段描く必然がないので

*8:再生産総集編のパンフレットでも出身校が大学の教育学部付属中学校となっている

*9:設定は明かされていないので類推すれば、という話

*10:あくまで他の8人と比べて

*11:劇場版では

*12:そうは言っても、きちんと学費は払っているようだけど

*13:前日譚コミックス「オーバーチュア」でもお互い「困った時はいつでも私を頼ってね」という所で留まっていた。※この作品でも3話(純那)と9話(なな)とこれも数えでエピソードが7話分離れてます

*14:ななにとっては初めての

*15:ここでの強調部分はそのまま劇場版の伏線です

*16:もちろん書いている時点で

*17:このせいか、舞台#1ではななと純那の絡む場面が全くなかった事もまた無関係ではありません

*18:放映当時にしても1年越しの伏線回収というのは流石にロングパスすぎる

*19:それとは別に9話を経た事でななと純那にはまた別の問題が生まれてるわけですが、それはまた別の話。追って語る事になるでしょう。