「少女☆歌劇レヴュースタァライト」アニメ#9 Act.1 永遠、心、離れて 


第9話『星祭りの夜に』
今回からBD-BOX最終3巻収録内容です。7話から続いていたばななのエピソードと戯曲『スタァライト』の全体像がおぼろげに見えてきた回でした。最終巻のトップバッター回として、今まで伏せられていた情報が開示されていくのに、こちらの処理が追い付かない程には密度のあるものだったかと思います。
さて、更新の日付を見てもお分かりの通り、この9話の感想はすでにアニメ版最終話が放映された以降に書かれているものになります。筆者も既に最終回まで視聴済みではありますが、延長戦という体で感想を続けさせていただく事をご了承ください。
理由は簡単で、いろいろ考え込んでいたら書くペースがどんどん低下していったという、よくありがちなものです。ここまで続けたのならやはり完走はしたいし、一方でリアルタイムで更新できなかったのが心苦しくもありますが、どちらにせよ最終話まで書いていけたらなと考えております。アニメ放映終了から1年が経過、再放送も先日終了していまいましたが、最後までお付き合いいただければ、と。
なお今回の更新は前編(Act.1)とさせていただきます。書き進めるうちに文章と書きたい内容が雪だるま式に増えていった結果、あまりにも長くなりすぎてしまったので、一旦区切りのいいところで切らせていただきました。この前編の文章だけではてな記法込みで3万字超ほどあります(本文は多分くらい2万字くらい?)ので、読む際はそれを踏まえてご覧ください。
物語の結末は知っていますけど、なるべくそこを意識せずに残りの話数を書いていくつもりです(説明の必要性があって先回りして語るかもしれませんが)。それにまだ作品展開が完全に終わったわけではないですし、こちらとしてはじっくり納得の行く形で書き上げて行きたいですね。今回の後編(Act.2)ともども、気長にお待ちください。


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今回も舞台#1の筋なども含むネタバレですので読み進める場合は以下をクリック(スマホなどで読まれている方はそのままお進みください)




さて。手始めに復習と行きましょう。当ブログの7話感想を見ながら振り返ってもらいたいのですが、掻い摘んで言うと「大場なな」という存在は描かれる物語の外側と内側に分裂しています。もっとわかりやすく言い表せば、キャラクター(記号)と登場人物(実体)に分かれているという事。ばななは物語という創作の中に配置された記号である一方で、人間として架空の物語の中を生きているのだといえます。この相反する二つの側面を持つ存在であるからこそ、彼女は「永遠の舞台」と自ら定めた第99回聖翔祭を繰り返す「物語機能」の役割を果たすことができたわけです。7話で語った一連の解説は物語構造における立ち位置をメインに示したので、物語上における「大場なな」という人物の問題点を語るだけに終始した感がありました。今回の9話はその「大場なな」という物語上の人間について考えたいと思います。



7話で提示したネームプレートの無いロッカーの扉です。ばななはその背景が語られていない以上、物語上の人間としてはモブキャラと同等である。その一方、メインかつネームドキャラとしての個性は虚無であると考えました。虚無である以上、彼女は望んだ「永遠の舞台」を何度も繰り返す。「大場なな」という人間にとっては「ばなな」という個性が与えられ、がらんどうのロッカー(虚無)を埋めてくれた第99回聖翔祭が忘れられないし、失われてしまう事を恐れている。だから繰り返す。このものすごく壮大な堂々巡り、つまりは「絶望の輪廻」を繰り返しているのが大場ななの問題点だと言えるでしょう。
ただこの「絶望の輪廻」がひかりの登場によって破綻しているのは、7話や8話を見ていれば分かることです。「輪廻」が破綻しているという事は同時に「ばなな」の「永遠の舞台」も終わりを告げているのです。つまり「永遠」ではなくなる、ということ。ばななにとっての「永遠の舞台」である第99回聖翔祭を過去のものとしなければならない。それは彼女にとって完璧だったものが失われるということと同義です。反面、この「絶望の輪廻」から解き放たれた事によって彼女の「物語機能」としての記号的な役割を終えたとも考えられます。

舞台少女がトップスタァになる瞬間
奇跡とキラめきの融合が起こす化学反応
永遠の輝き 一瞬の燃焼
誰にも予測できない運命の舞台
私は…それが見たいのです
~7話キリンの台詞より抜粋~


キリンが7話でもこう語るように「トップスタァとなった瞬間に起こる、永遠にして一瞬の輝き」こそが運命の舞台に望まれるもの、だという事を踏まえると「ばなな」の望み続けた「絶望の輪廻」は運命の舞台にとっても歓迎出来ないものであるはずです。なにせ「同じ舞台を繰り返す」わけですから、トップスタァの放つ「永遠の輝きかつ一瞬の燃焼」としては新鮮味が薄れてしまいますし、なにより「誰にも予測できない運命の舞台」ではないでしょう。繰り返されている以上、「予測ができてしまう」舞台であるのは間違いないと思います。ゆえに「ばなな」の「運命の舞台」は否定されないといけないわけです。
8話感想ではひかりをピックアップしていたのであまり触れる事が出来ませんでしたが、ひかりとばななで「孤独のレヴュー」を繰り広げていた事に着目しています。繰り返しになりますがこの「孤独のレヴュー」というのは舞台#1、アニメ版合わせて都合3回も行われているレヴューで、どのレヴューにおいても一方の相手を務めるのがばなななのです。それだけに「孤独」というキーワードと「大場なな」という人物はこの作品において、とても強く結びついていることがわかります。ばなな以外の相手はそれぞれに抱える「孤独」の意味合いが異なっているのは先の感想で語ったとおりですし、ばなな自身の「孤独」も「ばなな」という個性を認めてくれた「幸せな日々(=第99回聖翔祭に至るまでの一年次の日々と関わった生徒たち)」が失われてしまう恐怖心と繋がっています。それが彼女が「絶望の輪廻」に囚われる一端となっていて、解消するためには他者の存在が不可欠だと言う事も明らかでしょう。
「大場なな」の抱える「孤独」は文字通り「独り取り残されてしまう」事にほかなりません。では、彼女の「孤独」を埋めるためにはどうすればいいのか。繰り返しになりますが、「大場なな」という「孤独」を解消してくれる存在が必要です。同時にもう一点、彼女が真に踏み出さなくてはならない事があるのですが、それは今回の記事の後半で。とは言っても、そんなに複雑な話でもないと思います。ここまでの話で答えは出ているようなものですし。また「踏み出さなくてはいけない事」についても今回の9話をご覧になっていれば、分かりやすい事でしょう。ただそれがどうしてそうなるのか、をいろいろと確認しながら考えていきたいと思います。
前置きが長くなりましたが、以下から9話の内容を考えていきましょう。



【なな、心のむこうに】



9話アバンタイトル。ついに第100回聖翔祭用「戯曲『スタァライト』」の脚本第一稿が完成し、それを叩き台に俳優科、舞台創造科揃っての意見出しの光景から今回のエピソードは始まりを告げます。第100回聖翔祭に向けての日々がいよいよ始まると、みんなが意気揚々としている中でばななだけがなんとなく気が沈んでるトーンで周囲から浮いているのが目に付きますね。これにはちゃんと理由があります。



ここまで描かれてきたばななのレヴューオーディション以外の動向を振り返ってみましょう。まず3話の朝礼(ホームルーム)で、俳優育成科(A組)と平行して、舞台創造科(B組)の手伝いをすることが周知されます。当然のことながら、クラスメート(もちろん華恋たちも)に動揺が走ることに。



その後、5話では演技の練習に参加せず、舞台創造科、演出の眞井さんと脚本の雨宮さんと見学。階段の踊り場で主演のキャスティング談義をするも、99回と同キャストを望むばななは眞井・雨宮に同キャストである必要はない、舞台を育て、進化させ、常に挑戦する意識を持つべきと窘められて立ち尽くす。



続く6話ではその眞井・雨宮と並んで、脚本見習いとしてオーディションの審査側に立ち、「一度の結果に一喜一憂しないでのびのびと演技してね」とにこやかに発言。


とまあ。ここまで見てきて、何かに気づきませんか? こうやって並べてみると、9話アバンでばななが「浮いている」理由がなんとなく見えてくるはずです。ばななの行動だけをピックアップして今までの出来事を振り返ってみると、彼女は周囲の注目を集めたり、物事の中心に自分を置きたがっているんですよね。今回の後半の台詞でも出てきますが、永遠の舞台=第99回聖翔祭を今までよりもっと上手く成功させようと、ばななは演出を変えたり、台詞を変えたりしていた事が明らかになります。
「ばななはその背景が語られていない以上、物語上の人間としては今回の9話に至るまでモブキャラと同等であり、メインかつネームドキャラとしての個性は虚無である」 と、当ブログでは解釈していますが、永遠の舞台=第99回聖翔祭を繰り返す「物語機能」として、ばななは自らの「幸せな日々(=永遠の舞台)」を脚色する演出家も務めていた事になります。
つまり、先ほど説明した3話や5・6話における行動は「ばなな」という主役を演じる「大場なな」の演目上の行動だと考えると、理解しやすいはずです。これはおさらいで提示した「名札のないロッカー」の如く、がらんどう(=虚無)であった大場ななに与えられた、初めての「人生の役割」こそが「ばなな」だったわけです。先の描写でも彼女の過去が顔を出しますが、恐らく舞台少女であるという以上に「生きる実感」を得たのは、聖翔音楽学園に入学してからなのではないかと思われます。もっと言い換えてしまえば、ななという人間が曲がりなりのアイデンティティを獲得したのがあの「幸せな日々=第99回聖翔祭=永遠の舞台」という図式なのではないでしょうか。
そこまで考えると、ばななは演出家として「永遠の舞台」における主役に自らを選び出し、演じようとするわけですね。良くも悪くも「自分を中心に世界(舞台)は動いている」と自覚(錯覚)しているのです。それは何度も何度も何度もレヴューオーディションに勝利して、「永遠の舞台」を飽きることなく(そして渇望し続けて)、繰り返したことによって生まれた無自覚な傲慢さでもあると思うのです。
ここまで語ったことは7話感想で解説した事とある程度被るわけですが、8話でのひかりとのレヴューオーディションにおいて、ばななの守っていた「永遠の舞台」は崩れ去ってしまいます。



ひかりとのレヴューオーディションは孤独のレヴュー8話感想でも語ったように、舞台#1においてもTVアニメにおいてもばななはレヴューオーディションで「孤独」を演じ続けています。もちろん彼女は「永遠の舞台」を繰り返すためにレヴューオーディションを何度も勝ち上がっていたわけですし、その度に他の題名が付くレヴューも演じたものと思われます。しかし、観客(=視聴者)に見える形においては、ばなな、もとい大場ななは「孤独」と題名の付くレヴューを繰り返しているのです。

慣れてきた当たり前の孤独
舞台が変えてくれたわ
変わりたくないこのまま
次には私まだ進めない……
時間よ止まれ 大人にならないで
〜舞台#1劇中歌「私たちの居る理由」よりばななパート抜粋〜


舞台#1の劇中歌「私たちの居る理由」においても、ばななは「慣れてきた当たり前の孤独」と自らがずっと孤独であったことを吐露していますが、それを解消したのはTVアニメの彼女が言うところの「永遠の舞台」であります。孤独を変えてくれた「永遠の舞台」の顛末は7話に詳しいですが、上記の歌詞引用にもあるように「変わりたくない」「まだ進めない」「時よ止まれ」「大人にならないで」、と固執しているのが分かりますね。これも繰り返しになりますが、彼女は再び「孤独」となることを非常に恐れているわけです。再び「独り」になるかもしれない、この「次」に進む「時間」を止めてまで、ばなな自身を変えてくれた「舞台」執着しているのです。

怖がらないで
ひかりちゃんはもう私たちの仲間なんだから!
〜8話レヴューシーンよりばななの台詞抜粋〜



ですから、ばななは「永遠の舞台」の再演に突如、乱入してきたひかり(こちらは8話に描かれたロンドンのレヴューオーディションに敗退して、キラめきをほとんど失った状態)を自らの舞台に取り込もうとするわけですね。しかし、ひかりはばななとは異なる執着の持ち主であることも明らかです。再び行われるレヴューオーディションに参加するのも、自らのキラめきを失ってもなお消えることのなかった執着があったからこそなのです。
と、ここまで書くとお分かりのように、ばななもひかりも強烈な執着を抱えているという点で共通点が見出せるわけですが、同様に執着に囚われる事によるエゴイスティックな面が窺えるのも彼女たちの共通性だと言えます。8話感想で筆者はこんなことを書いています。以下、該当部分。

つまりはひかりは常に華恋の先を走っていたいのですよね。彼女をリードする者として、いやそれ以上に知ってかしらずか彼女をバーターにして、より高みを目指していこうとする、無邪気なエゴイストらしさがすでにこの時点で滲み出ているのが受け取れてしまいます。


以上。
華恋との「約束」を果たすために、ひかりは常に彼女の上に立つ導き手としてありたいという意識が無自覚に働いている。一方、ばななは先ほど述べたように「永遠の舞台」を飽きることなく(そして渇望し続けて)、繰り返したことによって「自分を中心に世界(舞台)は動いている」という自覚(錯覚)が生まれた。どちらも無意識、無自覚にある種の傲慢さが滲み出ているのが分かります。



当ブログでおなじみ、「三つの執着にまつわる物語」として本作を表した画像です。今までのエピソードはこれらの執着に当てはめられて描かれており、主役格の華恋とひかりはこの「三つの執着」すべてを内包しているとも語りました。今回のばななについては、当然のことながら、あの「舞台」への執着である事は明白でしょう。しかし、ひかりはすでにロンドンのレヴューオーディションで華恋との「約束」で立つ「舞台」への執着を自身の舞台少女のキラめきとともに失ってしまいました。この為、「少女」と「約束」に執着が偏ってしまった、というのが8話までで明かされた背景です。
ばななはどうでしょうか。彼女の場合は「孤独」である以上、「少女」への執着も「約束」への執着もありません。ただその「孤独」を埋めてくれた「舞台への(尋常ではない)執着」は、7話から今回の9話まで一貫して描かれた彼女の「狂気」に他なりません。
つまり8話におけるばななとひかりの対決はレヴューオーディションと言う以上に、彼女たちに渦巻く執着のせめぎ合いだったわけです。その結果は描かれた通り、ひかりが残された執着を舞台少女のキラめきへと変換し再生産した事で、ばななに打ち勝つ形で終演となります。執着と言う点では「舞台」よりも「少女」と「約束」が競り勝つ格好となったのですが、この敗北がばななにとっては大きな変化を迎える事になるのです。7,8話を踏まえて考えるのであれば、キラめきと執着は表裏の関係にあるはずです。

一度で終わりなんかじゃない
私たちは何度だって舞台に立てる
〜2話「舞台少女」より台詞抜粋〜


もちろんこの2話での華恋の台詞からも分かるように、レヴューオーディションに一度負けるくらいでは劇的な変化が起こるわけでもないですし、8話でも描かれたように、トップスタァが確定した段階で舞台少女のキラめきは奪われるという仕組みに見えます。が、ひかりとのレヴューを経て、ばななの「永遠の舞台」に対する執着は彼女本人の気持ちとは無関係に奪われたように感じられるのです。というより、ひかりの執着がばななの執着に勝った結果、ばななという「キャラ」の「永遠の舞台」を守る前提が失われてしまったというのが正しいかもしれません。
先の「三つの執着」を踏まえて考えてみましょう。ひかりには華恋という「少女」の存在があって、同じ「舞台」に立つという「約束」があったわけですね。ロンドンのレヴューオーディションでキラめきを奪われた結果、「舞台」への執着が失われ、「少女」と交わした「約束」への執着が強くなります。彼女は「少女」と「約束」への執着をキラめきへと再生産するわけですが、対するばななはどうしょうか。
ばななは舞台#1からTVアニメ版に至るまで、ずっと「孤独」を背負い続けています。繰り返しになりますが、彼女が「孤独」である以上、「三つの執着」における「少女」と「約束」への執着は存在し得ないのです。当然、「約束」は交わす相手がいないと成り立ちませんし、相手となる「少女」の存在もばななの内には潜んでいない、あるいは秘められていないのですね。あるのはただ「舞台」への強烈な執着のみです。
「少女」と「約束」の執着をキラめきに再生産したひかりと「舞台(=幸せな日々)」に届かない憧憬を抱きそれでもなお固執するばなな。結果は皆さんご存知の通りです。「舞台」への執着を失ってもなお、華恋との「約束」のために前に進もうとするひかりが、過去の「舞台」に執着するばななに打ち勝った。再生産されたひかりのキラめきに、ばななのキラめきは飲み込まれてしまった。もとい、より強い光が彼女の光をかき消してしまったのです。ひかりの「未来」がばななの「過去」を打ち破ったと言い換えていいかもしれません。
このレヴューの勝敗によって、ばななの守っていたものが決定的に崩れ去ってしまいます。



ここまで語ってようやく本題に戻ります。何度も繰り返してばななの「孤独」と「守りたいもの」を説明してきましたが、第100回聖翔祭用「戯曲『スタァライト』」の脚本第一稿が上がって、周囲が沸き立つ中でばななが浮かない表情を見せる理由はこの後に続く台詞にあります。TV放映時の録画を持っている人は字幕情報が入っているのでぜひ確認していただきたいですが、話を進めるために以下に引用します。引用部分は字幕表記ままとなります。


(なな)昨日、雨宮さんが書き上げちゃったの。「ひとり」で


「ひとり」で。この部分がことさらに強調されていますね。雨宮さんが「A組に負けていられない」と徹夜で書き上げたということが伝わってきますが、問題の本質はそこではなくカギ括弧でくくられた「ひとり」という部分。6話でも描かれたように脚本見習いとして手伝うはずだったのに、という以上にこの台詞には非常に重要な意味が含まれています。
本来ならばレヴューオーディションの勝者であるばななが「永遠の舞台(第99回聖翔祭)」の再演を繰り返しているので、第100回聖翔祭の準備が始まることはない(※恐らくですが彼女が繰り返していたレヴューオーディションでは、準備が始まる前に勝者が決まっていたのかも)わけですが、9話の時点でばななはイレギュラー因子であるひかりに敗北しています。この敗北を喫した事で、彼女の歯車が実は大きく狂いだしているのです。



論より証拠。この画像は3話ですが、このカットもばななが中心に配置されているのが分かります。「永遠の舞台」を繰り返し過ぎた事によって「自分を中心に世界(舞台)は動いている」と錯覚している。このように先ほど触れましたが、それを物語るようなカットでありますね。さらにもう一丁。今度は7話アバンタイトルから。





これも同様です。
7話感想ではここで「大場なな」が「ばなな」に生まれ変わったと書きました。またスマホで写真を撮っているところから、撮った写真に自身を写さない=思い出の中に自分の姿は必要ない=自分自身を承認していないとも解説しています。7話アバンはそれこそ、彼女の思い出の一番煎じ、つまり「眩しくて届かない」とされる一番楽しかった記憶です。もちろんその後、ばななはこの光景をも幾度となく再演し続けるわけですが、この「他者からの自己承認」を繰り返すことによってこの光景の意味合いが歪んでいったのではないかと思われます。それこそが「永遠の舞台」を繰り返し過ぎた事によって「自分を中心に世界(舞台)は動いている」と履き違えてしまう所以なわけですが、それを踏まえてみると、やはり7話アバンは大場ななが「ばなな」として一緒に舞台を作り上げた仲間たちに認められるという、彼女の「永遠の舞台」の再演においてのクライマックスシーンでもあるわけです。ばななの「永遠の舞台」の主役は彼女自身であることも先ほど触れていますが、この場面を気の遠くなるほどの回数を繰り返せば、「自分を中心に世界(舞台)は動いている」と錯覚してしまうのもやむなしという所でしょう。
とまあ、以上のことを踏まえると、ばななが9話アバンで「ひとりで」と強調した意味が見えてくるのではないでしょうか。「永遠の舞台(=幸せな日々)」を再演するためには、ばななの認知する全ての同級生(と先生)を庇護しなければいけません。自らの管理下に置くことで、生徒たちのあらゆる行動を演出しようとしていた、のですね。



しかしどうでしょう。8話を経て行われる、このブレインストーミングの光景は。俳優育成科、舞台創造科が入り乱れて、各人があれこれと意見を出している。無論、舞台は一人で作り上げることは出来ませんので、完成のイメージを共有するための意思統一の場でもあります。そういった場の役目はともかく、ここではおのおのが個性と感性を発揮して、新しい舞台を作り上げようとしている、という点が重要です。





ばななが何度も繰り返してきた「永遠の舞台」、第99回聖翔祭でもおそらく同様のことが行われ、俳優育成科、舞台創造科ともに忙しく舞台を作り上げていったということは容易に想像できます。ここで挙げた7話の画像も舞台を作り上げる過程(ばななにとっては二度目の、ですが)を活写したものですが、これらはばななのスマホで撮影されています。記録された光景は彼女の主観によって切り取られたものであり、当事者としての「記憶」でもあります。彼女にとって「永遠の舞台」は「幸せな日々」です。その「幸せな日々」を「ばなな」という当事者として関わる事が出来た、換えがたい眩しさを繰り返そうと再演を繰り返してきたわけですね。
しかし、先ほども説明したように8話のレヴューオーディションによって、ばななが「幸せな日々」に感じていた「眩しさ」は未来(約束=将来の夢)に向かうひかり(=光)に飲み込まれてしまったのです。文字通りの「ひかり」によって塗り潰された事で、彼女の感じていた「永遠の舞台」への執着、つまり「輝かしい過去」に対する異様な執着は本人の意志とは無関係に断ち切られてしまったように感じられます。比喩的な言い回しになってしまいますが、より強い光によってばななが眩しく感じていた光はかき消されてしまった。言ってしまえば、執着していたあの「眩しさ」が跡形もなくなった事に、彼女は気付けないでいる。そう。「孤独」であるが故に、です。

まひるとの「孤独」のレヴューの場面にて)
私は過去に決別なんてしない
戦い抜いて…またスタァライトを!


(華恋との「孤独・再演」のレヴューの場面にて)
「孤独」というタイトル、私にぴったり!
……ずっと独り…みんなで作り上げたスタァライトを忘れたくない!

〜「舞台#1-revival-」より大場ななの台詞抜粋〜


これらの台詞を考えても、ばななは過去に囚われ続けることで独り取り残されてしまうという図式から逃れられていないわけです。もちろん舞台#1は再演も含めてTVアニメの始まる以前の上演ですので、設定が煮詰まっていない部分はあったかと思います(※先回りすると放映終了後のスタッフ発言を見る限り、舞台スタッフには共通の設定としてアニメ1~3話までのシナリオと設定が渡されていたそう)。ですから、#1のばななの「孤独」とアニメ版のばななの「孤独」はニュアンスが若干異なる箇所があるのも事実です。が、敢えてTVアニメと結びつけるのであれば、やはり過去に「みんなで作り上げた舞台(スタァライト)」の中においても、人知れず「孤独」はあったのではないかと考えられます。対人的な距離感という点では「ばなな」という愛称を与えられ、クラスメートに受け入れられもしたわけですが、もっと彼女の芯に近い精神的な距離感においては「幸せな日々」だった第99回聖翔祭においてもずっと「孤独」だったのではないでしょうか。言い換えれば、誰からも慕われ頼られるばななの内面を理解してくれる人がいなかった、ということになります。この辺りのニュアンスは、アニメ版、舞台#1のキャラクター紹介文でも押さえられています。以下に引用します。

大きな優しさでみんなを包み込む99期生の「お母さん」的舞台少女。ニックネームは「ばなな」。歌や踊りだけでなく舞台演出にも優れた才能を見せる。1年次にみんなで演じた『スタァライト』が今でもお気に入り。
公式HPのキャラ紹介ページより抜粋~

クラスで一番の長身を活かしたダンス、歌、お芝居となんでもこなせる本格派舞台少女。そして女子力が高く自慢の手料理と大きな優しさでみんなを包み込むお母さん的存在。1年次の学園祭でみんなで創った舞台『スタァライト』が今でもお気に入りで、自分がキラめくよりも、みんながキラめいているのを見ていたいと願っている。ニックネームは「ばなな」。夢は「あのときの舞台が、また出来たらいいな♪」
~舞台#1パンフレット、登場人物紹介より抜粋(※#1-revival-のパンフレットも同内容)~


赤字で示した通りですが、情報量の詰まり方でいうのであれば舞台#1の紹介文に軍配が上がります。とはいえ、TVアニメ版の方は舞台#1に書かれていたばななの内面的なニュアンス(赤字部分)がオミットされている分だけ、ばななの外見から来るイメージを強調している文章に読み取れますね。これは7話の展開を踏まえているからでしょうし、舞台#1の方は劇中でばななの「孤独」に対する感情が描かれているからに他なりません。
この差異は連続シリーズものであるTVアニメと一回の上演で全てを曝け出す舞台の違いでもあるわけですが、どちらにおいてもばななの核心に迫れる(気付いている/理解している)人間がいる事を考慮していない描き方です。特に「自分がキラめくよりも、みんながキラめいているのを見ていたいと願っている」という箇所は9話のレヴューオーディションでの前口上と重なる部分でもあり、彼女自身が「永遠の舞台」に第99回聖翔祭を選んだ遠因でもあります。自分よりキラめいている人たちが眩しくて、なおかつその眩しい光を放つみんなは誰ひとり欠けてはいけない。だからこそ、守らなければいけないというプロセスもあって、「永遠の舞台」を再演することに血道を上げるわけですが、途方もなく繰り返すことで無自覚な傲慢さが顔を出し、本来の目的から歪んでいったのですね。「自分を中心に世界(舞台)は動いている」と錯覚しだしたのはそういった経緯が重なった結果なのでしょう。しかし、それもひかりとのレヴューオーディションでリセットされたわけで。問題なのはばなながその歪みと「孤独」を持ったまま、起こった事態に気付いていない事。そしてそこに気付けないのは、ばなながその「孤独」ゆえに、「自分の持つ問題」を解く鍵を持ち得ていないからなのです。

かげがえなくて 愛しくて
胸がトキめいて苦しいんだ
こんなに ああ 眩しい舞台に
私たち誰一人欠けちゃいけない

~「願いは光になって」歌詞より~



しかし、そんな眩しい過去に惹きつけられるばななの孤独を、彼女が守ってきたはずの舞台少女たちはあっけなく否定してきます。A組(俳優育成科)の面々で、新たに書き上がった脚本の読み合わせをしている所で、純那は彼女らしく世界(というよりシェークスピア)の名言を語り、それを受けて真矢が言葉の解釈を語る場面。ここまで語ってきたばななの背景を踏まえて見ていくと、彼女に対してかなり辛辣なことを言っているのです。

(純那)「人生は二度繰り返される物語のように退屈である」

~中略~

(真矢)「人生は一度きり
   同じ物語を繰り返すだけではつまらない
   だから退屈しないように色々なことに挑戦すべき」

~9話より台詞抜粋~


この引用からもわかるように完膚なきまでに真っ向から否定していますね。もちろん純那も真矢もその他のみんなも、ばななが同じ「永遠の舞台」を繰り返しているなどと知る由もありません。舞台少女ならば誰もが知り得ている、一種の真理として語っているに過ぎないのです。言ってしまえば、演劇に携わる上での一般常識、共通認識であるはずです。しかしばななは「永遠の舞台」が眩しすぎて、その目を曇らせてしまっているのは何度も繰り返した通り。舞台は一度幕が上がってしまったら、不可逆です。ましてや全く同じ舞台を繰り返すことなどは天地がひっくり返っても有り得ないこと。しかしばななは「永遠の舞台」の再現性に囚われることで、返って自身の「孤独」を深めてしまっているのです。

(なな)みんなでつくった最高の、私たちだけの舞台。もうつくれないのかな、同じ舞台は…
(真矢)たとえ同じメンバー、同じキャストだとしても、同じ舞台など存在しません

~中略~

(真矢)言いましたよね? 主役をかけてオーディションに挑みましょうと。 〔中略〕 恵まれた体躯、素晴らしく伸びる声、舞台全体を見渡せる視野。…なのに、あなたはなぜっ

~中略~

(真矢)みんなのばななさんでいたいがために、本気を出していないのならば、私は…
   大場なな。あなたを赦さない

~7話より台詞抜粋~


9話の真矢がそうであったように、前段の7話においても真矢は同じようなことをばななに言い放っています。むしろこの7話の引用箇所は原初の「永遠の舞台」後の会話であり、9話の真矢はばななの体感においては果てしなく「永遠の舞台」を繰り返した後の会話です。9話の方は周りに華恋たちがいる分、語気の強さは柔らかくなっていますが、真矢の本音という点では7話に軍配が上がります。その本音をぶつけた矛先がばななであるということもきわめて重要なのですね。



全てはより良い舞台を作り上げるため。同じ演目だからこそ、同キャストであることには拘らず、そして一年前とは確実に違う、成長した99期生の姿を見せるために。A組、B組が垣根を越えて、「次の舞台」を作り上げるために、活発に動き出している。前の舞台では出来なかった事、届かなかった事、成長した今だから言える事。それらが第100回聖翔祭の「スタァライト」という舞台を作り上げる原動力となる。99期生の舞台少女たちは「良い舞台」を目指し、それぞれの個性を発揮することで「新しい舞台」が生み出していくのです。9話アバンはその始まりを描いています。……ただ一人を除けば。



周りのみんなが第100回聖翔祭へと気持ちが向く中、独りだけ第99回聖翔際の眩しさに囚われ続けるばなな。ところでお気付きかもしれませんが、9話アバンタイトル陽の光が差し込まない日陰の教室というシチュエーションが取られています。この為、通常場面の色彩設定から、色調をかなり下げているんですよね。キャプチャした画像はその濃淡がはっきり出ていますが、実際の映像で見ると薄暗がりの淡く弱い彩度に抑えられているように見えます。どちらにせよ場面設定として「光が差し込んでこない」事がダイレクトにばなな、もとい大場ななのパーソナリティに結びついているのです。
舞台#1のキャラクター紹介文にあるように自分がキラめくよりも、みんながキラめいているのを見ていたい、あるいは7話でみんなのばななでいたいがために本気を出していない、と真矢に言われたように。ばななは自分でキラめこうとしていないのです自主性に欠けるといわれれば、それまででしょう。反面、なんでもソツなくこなせるからこそ、周囲から頼まれ事を引き受けてしまう。しかしそれは、ばなな本人が自ら事を動かそうとしていないという裏返しでもあるわけですよね。すべて彼女の意思とは関係なく流れてきた案件をほとんど受動的に対処してきたに過ぎないのです。




7話もそうでした。「永遠の舞台」を再演し続けるため、あの舞台でキラめくみんなを守りたい──。ばななが「眩しい」と感じた第99回聖翔祭は誰がキラめいていたのか?それは自分以外のみんなであり、そのみんなから自分は「ばなな」という役回りを与えられて、聖翔音楽学園に存在できている。そう認識してしまっているからこそ、ばななにはスポットライトの光が当たらないわけです。
舞台少女にスポットライトが当たらない。これがどういう事なのか、お分かりでしょうか。このままでのばななの状態では、どんな役回りで舞台に立ったとしても彼女にスポットライトの光は当たることはありません。理由は簡単です。ばななは自分の個性を蔑ろにしているからです。自分のことよりも「みんな」のことを優先している。みんなから頼られることにアイデンティティを見出し、いつの間にか舞台少女の本分を忘れてしまっている事が、7話の真矢がばななにその苛立ちを露わにした理由でしょう。
このばななに「光」が当たらない状態というのはTVアニメ序盤から周到に描かれています。



2話で「永遠の舞台」に対するイレギュラーとして現れたひかりとお近づきになろうとしてバナナプリンを差し出すこの場面でも、ばななには光が当たりません。同様にひかりにも影が落ちているのが実は重要だったりしますが、ばななだけに限定すると完全に窓から差す日の光に背を向けているのが分かります。ひかりはまだ日の差す方を見ているので、まだ「諦めてない」んだろうというニュアンスが残されていますが、ばななは完全に逆光です。この印象的なカットにおいて、ひかりには自身に影が差し込みつつも希望を捨てていない。ばななは(おそらく無自覚に)影の住人となり、「絶望の輪廻」を繰り返している。だからこそ逆光の立ち位置で見せる彼女の笑顔には、本来のニュアンスとは別のトーンが潜んでいるように感じられるのです。
この場面や7話に見られる、逆光のばななは彼女の孤独や絶望、はたまた狂気を深めるものとして演出されているのが分かりますし、それが舞台少女にとって異常だという事が仄めかされた描写であると考えられます。その理由は先に説明したように、「永遠の舞台」への固執によって、舞台少女の本分を見失ったためであることに間違いないでしょう。

でも楽しかったなあ、一年生の時のスタァライト
B組が裏方として支えて、私たちA組が歌って演じる。
99期生全員で作った私たちだけの舞台。忘れられない永遠の一瞬──。

~1話より台詞抜粋~



「永遠の舞台」である第99回聖翔祭に拘泥しているからこそ、みんなが第100回聖翔祭に向けて活気だっている事が気に入らない。ばななにとっては「忘れられない永遠の一瞬」だった。にも関わらず、周囲はその一瞬をいとも簡単に忘れていく。ばななにはそれが耐えられないし、我慢ならないことでもある。
上の画像はそういった点においての光と影の対比。ばななのやり場のない苛立ちと孤独、そして「永遠の舞台」への並外れた執着心が光から影の方へと向かわせる。そのイメージの意味する所は明白でしょう。彼女は前を見ずに、後ろをずっと振り返っているわけです。



そして同様に光と影がかかる第99回と第100回の舞台設定画。これもばななの心象風景といっても過言ではないかと。第99回の設定には光が当たり、第100回の設定には影が落ちているのは言わずもがな。ばななにとって「眩しく」感じられるのは当然前者であり、後者は望ましくない「変化」だということです。

(なな)B組が裏方として支えて、私たちA組が歌って演じる。
99期生全員で作った私たちだけの舞台。まったく同じ舞台はもうできないのかな…。
(華恋)その舞台には私は立てないかな (略) だって舞台は生き物。同じスタァライトでもまったく同じ舞台なんてあり得ないもん (略) ここは舞台、私の舞台

~7話より台詞抜粋~


先に挙げた真矢とばななの会話と同じやりとりを華恋に投げかけると、こう返ってきます。真矢と同じ答えを言っているのも興味深い所ですが、注目したいところは「舞台は生き物」と「私の舞台」という2点。
華恋が真矢と微妙に違う点は、舞台に対する捉え方でしょう。真矢は「主役の座をかけて争い、勝ち抜くことで立てる場所」というニュアンスが強く、相手(ばなな)にもそれが強く求められていますが、華恋は「生き物」と表すことで自らが立つ「舞台」と舞台に立つ「自分」をイコールで結んでいるわけです。



だからこそ、「私の舞台」というのは華恋にとっては、今立っている場所こそが「自分の舞台」であり、なによりその舞台を演じているのは愛城華恋という一人の人間(生き物)であるという事。「舞台が生き物」であるという事は翻って、「生き物(人間=舞台少女)の生き様」こそが「舞台(演劇)」である事に他なりません。
舞台少女が立つ場所こそが「舞台」であり、その生き様こそが「演劇」である。どんな演目を舞台で演じようとも、舞台少女という「生き物」は日々進化中であるからこそ、同じ演目を演じても以前とはまったく同じにならないしあり得ない、という事なのです。

世界は舞台、人は役者。
ウィリアム・シェイクスピア「お気に召すまま」より~

世界は私たちの 大きな舞台だから
~「舞台少女心得」より歌詞抜粋~


さて。
それではもう一度、「ばなな」の事を振り返ってみましょう。何度も繰り返してきましたが、「ばなな」は「永遠の舞台」に執着しすぎて、舞台少女の本分を見失ってしまいました。それはつまり、「ばなな」が誰からにも頼られる存在として、そのアイデンティティを獲得した「幸せな日々」に耽溺したのです。楽しい時間ほど「一瞬」で過ぎ去っていきます。しかし、彼女はその「一瞬」を永遠に望みました。自らが必要とされて、その「存在」を認めてもらえる、かけがえのない日々を。どんなにその輝きの眩しさが強くなろうとも繰り返し続けたのです。


でも、ちょっと待ってください。



私が見つけた永遠の仲間と運命の舞台
この日、生まれたのです。舞台少女、大場ななが

~7話より台詞抜粋~


第99回聖翔祭を通じて、大場ななは確かにみんなから認められました。第99回後のあの打ち上げ会場の場で、華恋が「大場なな」という少女を「ばなな」という存在として名を与え、みんなに認めてもらったことによって「舞台少女」として生まれたのです。


いいですか、もう一度繰り返します。


大場ななは「大場なな」としてではなく、「ばなな」という舞台少女として生まれたのです。


つまり
彼女が「永遠の舞台」である第99回聖翔祭にこだわる理由も、
同じキャストが演じるまったく同じ舞台の再演を望むのも、
「永遠の舞台」が繰り返すほどに眩しく感じるのも、
はたまた真矢が7話の会話でななの現状に対して懸念を示すのも、
全てはななが「ばなな」で居続ける為に引き起されているのです。
「ばなな」として存在しようとすればするほど、ななは「ばなな」という舞台少女に眩しさをより強く感じざるを得なくなります。華恋の言に照らし合わせれば、「ばなな」そのものが「永遠の舞台(=生き物)」であり、絶対不変の「舞台少女」であるからです。
つまりどういうことかというと、こういうことです。



7話アバンに出てきたミロのヴィーナス像のレプリカです。7話感想では像の失われた両腕を指して、「可能性」の象徴と未完成ゆえの完成美が「ばなな」の個性を担保していると語りましたが、さらに飛躍すれば、その両腕の失われた「未完成の美」こそが、ななにとっての「届かない理想」なのではないかと思えてきます。
ミロのヴィーナスはその両腕が失われ「未完成」となった結果、高い芸術性を持つに至ったわけですが、「ばなな」もまた同じです。あの第99回聖翔祭において、未完成ながらも自分の思い描いていた理想に届いた「永遠の一瞬」を成し遂げることが出来たのです。しかしそれはミロのヴィーナスの失われた両腕のように、「かつては存在したが、今は失われてしまった」ものであるし、B組の眞井さんが5話で言ったように「1年のわりにはよく出来ていた」に過ぎない。言ってしまえば、ななは「ばなな」という過去の自分とみんなが作り上げたビギナーズラック的な「永遠の舞台」に理想を見ているのですね。ここについては、朧げながらに感じ取っていた方も多いのではないでしょうか。
ただし、なな本人としては「ばなな」の住み分けが出来ていないというか、ほとんど意識できていない、というのが彼女の難点だろうと思います。



その所以はこのネームプレートの入っていない「無名」のロッカーです。7話感想でも触れ、今回の冒頭でもおさらいで取り上げていますが、ななが自身の個性をどう感じているのかのメタファーにもなっているわけですね。冒頭でも振り返りましたが、大場ななという少女の持つ二面性、描かれる物語の内と外に分かれる彼女の個性です。本ブログではキャラクター(記号)と登場人物(実体)として考えていますが、「無名」のロッカーを大場ななと見立てると、現在は「ばなな」という名(記号)がロッカーの名札に掛かり、中身も詰まっているわけです。しかしこの「記号」を抜き取ってしまうと、大場ななというロッカーの中身はがらんどうになります。
9話において提示される彼女の背景にも結びついてきますが、自身の「孤独」を拗らせた結果として、「自分には何もない=虚無である」事を認識し、「自分がキラめくよりも、みんながキラめいているのを見ていたい」と願うようになってしまった。自らのキラめきよりも他者のキラめきを優先するようになった一方で、キラめく他者たちに自分の存在を認めてもらい、舞台少女「ばなな」として生まれたというのが7話アバンタイトルの顛末。だからこそ、舞台少女「ばなな」の生まれた「永遠の舞台」、第99回聖翔祭を眩しく思うわけですね。他者のキラめきによって、自分のあるべき姿や考えうる理想の舞台を上演できたから。

B組が裏方として支えて、私たちA組が歌って演じる。
99期生全員で作った私たちだけの舞台


この「私たちだけの舞台」というのに、舞台少女「ばなな」として活躍したなな自身も含まれるわけです。聖翔音楽学園に入学し、第99回聖翔祭を成功させて、みんなから頼られる舞台少女「ばなな」として生まれるまでが、大場ななの「永遠の舞台」。
みんながキラめいていたからこそ、作り上げる事の出来た舞台であり、ななにとっては居場所も出来た、かけがえのない「思い出」でもあり「憧れ」でもあった。しかし問題はそこにあります。



もう一度、この「三つの執着」に立ち返ってみましょう。先ほども話したように「ばなな」は「孤独」であるために「少女」と「約束」の執着が存在せず、「舞台」への執着が肥大化している状態です。「永遠の舞台」と見定めた第99回聖翔祭を再演し続けているのは、彼女にとって特別な記憶だからです。その記憶の再現性に拘っているために「変化」を求めてないわけですね。この「執着」の拘泥さだけを見て取ると、「ばなな」の執着は5話に描かれたまひるの執着とほぼ同一のものと考えられます。



5話の感想でどんなことを語ったかといえば、まひるは華恋(少女)に執着するあまり、本来の自分らしさを見失っているというもの。これが「ばなな」の場合は、「少女」から「舞台」へとその範囲が大きく拡張して、執着しているという格好です。
まひるもまた自らの理想を華恋に押し付けて、彼女自身の変化を望んでいなかった。その為に、舞台少女として変化し続ける華恋が自分の理想とかけ離れていくのが我慢できなかった、というのがまひるの執着の正体でした。
しかし、まひるの場合は他者のキラめきに気後れしてしまい、自分のキラめきを信じることが出来なくなった結果、理想を華恋に見るようになっただけで、彼女自体がキラめいていなかったわけではないのです。それ故、まひるは自分のキラめきに気付ける、秘めた強さを持つ舞台少女であることが描かれていました。



一方、「ばなな」はどうでしょうか。彼女の気質は舞台#1パンフレットの紹介文にもあったように自分がキラめくよりも、みんながキラめいているのを見ていたい人間です。まひるのように自分と他者を見比べて、劣等感に苛まれる類ではないですし、そこに執着する対象の違いも重なってきますが、先に語ったように「ばなな」のレッテルを剥がしてしまうと、ななに残るのは「虚無」のみです。
ななの「空っぽ」な個性を埋めるのは「ばなな」という舞台少女の存在であり、その「ばなな」が生かされされている舞台こそが「永遠の舞台」なのです。つまり彼女が第99回聖翔祭の再演を繰り返す理由は「みんなで作り上げた永遠の一瞬」を忘れたくないのと同時に自分が舞台少女「ばなな」として必要とされていたいというのが重なっているからです。
「同じ舞台」と言うことに拘っているのも、99期生全員で舞台を作り上げる過程において、みんながキラめく姿を誰一人欠けることなくずっと見ていたいと言う以上に、なな自身がその存在を周囲に認められている事の方が比重としては大きいように思えます。
その理由が先の画像に挙げている、中学生時代のななです。後に舞台#2でもクローズアップされますが、この「たった一人の演劇部」というのが、ななにとっての大きな心の傷であり、彼女が舞台に対して見せる「執着」の根源なのでしょう。
一人で舞台に立たなければならなかった中学時代。たくさんの仲間たちと共に「私」たちだけの舞台を作り上げることの出来た第99回聖翔祭。この差にななはどれだけ救われたのでしょうか。残念ながら、他の登場人物たちも視聴者もそれを完全に理解することは出来ません。
それはななの内面だけにしかない、彼女自身の感情だからです。言葉では説明できても、そのニュアンスを実感できるまでには至らないようなことは、日ごろの私たちの会話でもあることですが、ななの経験したことやそこに生まれた感情や孤独は他人には実感の難しいものです。


私ね、ずっと一人だった。
この学園に来て、本当の意味で一緒に舞台を創る仲間に出会った。舞台に立つことができたの。初めての舞台と、最高の仲間。守らなくちゃ、私のスタァライト

~9話より台詞抜粋~


ななの様子を案じて、やってきた純那を前にして語られるこの独白も、なな自身が他の舞台少女たちとは、明らかに「舞台(=スタァライト)」との距離感の異なるものです。もちろんここでいう「私のスタァライトとは第99回聖翔祭のことを指していますが、ここで「私の」という定冠詞が付くのが、彼女にとってはかけがえのない思い入れの深い舞台という以上に、「運命の舞台」と位置づけ、選び続けてきた事によるエゴイズムをやはり感じ取ってしまいます。あたかも自分の所有物のように語るその姿こそ、ななの「舞台への執着」であり「星摘み」ならぬ「星罪」であるのです。


なぜここに囚われたのか
どんな罪を犯したのか

永き時の中、それすらも忘れてしまった女神


「ああ、また繰り返すのね…絶望の輪廻を」


~9話より、ななのモノローグを抜粋~   


真矢とクロディーヌの歌う「星摘みの歌」をバックに、「スタァライト」(同時に第99回聖翔祭)の一部始終が描かれていきますが、その中で目を引くのが上に抜粋した、ななのモノローグ。第99回聖翔祭でのななは「絶望の女神」を演じていますが、赤字部分は役どころの台詞という以上に彼女の現状すらも示しているわけです。この前後で語っているモノローグも大事で、「なぜここに囚われたのか」は「『みんな』で作り上げた舞台が眩しかった」のであり、「どんな罪を犯した」のかと言えば、「第99回聖翔祭を『運命の舞台』に選んでしまった」事でしょう。「舞台に執着」するあまり、いつしか「ばなな」でない、大場なな自身が「舞台少女」である意味を忘れてしまった。これは再三繰り返していますが、「絶望の女神」たる「ばなな」が「絶望の輪廻」を繰り返すことに嘆いているという構図はなな本人の心理劇として見ると、舞台(演劇)を媒介に彼女の意識と無意識が拮抗する、メタ的な構造にもなっています。「『私』のスタァライト」を守らなければならないななと、それを「絶望の輪廻」として繰り返すことに徒労を感じてしまうなな。この分裂する二人の「なな」こそ、当ブログで語ってきた「キャラクター(記号)」と「登場人物(実体)」であるのです。「ばなな」と「なな」、彼女は自分の内に抱えた相反する二つの意識の間で揺らいでいる事が良くわかります。


最高の舞台、大切な仲間達、全部守りたいから、
「運命の舞台」にあの一年間の再演を選んだの

~9話より台詞抜粋~


大場ななが選んだ「永遠の舞台」は「聖翔音楽学園に入学し、第99回聖翔祭を成功させて、みんなから頼られる舞台少女「ばなな」として生まれるまで」、ということは先にも触れました。ここまで説明してきたことを総合すれば、思春期に通過すべき「自分が自分である事をどのように認識するか」という、アイデンティティ(自己同一性)の問題を、彼女は「永遠の舞台」の上で演じる「ばななという記号」に仮託、依存してしまっているという捻じ曲がった状態だと確認できます。


でも純那ちゃんも言ってたじゃない。
「大変だけどすごく濃密で充実した時間、最高の一年」って。
あの時間がずっと続けばいい。だから私は繰り返しているの。
私の永遠の舞台、あの一年間を。


(略)


そんな脚本、知らない
何もかも変わってっちゃう
次のスタァライト
そんなの、私のスタァライトじゃない!


~9話よりななの独白抜粋~


この場面での純那との会話も、ほとんど会話として成立しておらず、ななは目の前にいる純那の事すら見ずに、自分の心に渦巻く感情と「永遠の舞台」への執着のみを吐露するのに終始しています。まるで子供が駄々をこねるように。そうなのです、ななはここまで語ってきたように「自分が自分であること」を認識せずに、舞台少女「ばなな」をずっと演じているだけなのです。この為に何が発生しているか、というのは非常に単純明快です。長々と回りくどく語ってきましたが、一言で片付きます。


大場ななは舞台少女としてまだ目覚めていないのです。


彼女は自身が「舞台少女」であるということを、みんなから与えられた「ばなな」(記号)に任せすぎてしまった。「ばなな」という自我をみんなに認識される一年間は確かにななにとって「永遠の舞台」であるのは、疑いようのない事でしょう。「あるべき自己」を他者に認識してもらい、生きる意味と理由を実感するわけですから。その齟齬に気づいた7話の真矢は「ばなな」に安住するななの姿を見て、「本気を出さないのならば赦さない」と発言してるわけですね。
しかし、ななの「永遠の舞台」は8話のひかりとのレヴューオーディションによって断ち切られているということは語ったとおりです。ひかりと戦った「孤独のレヴュー」において、ななは自らが「孤独」である理由を突きつけられているのです。つまり「永遠の舞台」イコール「絶望の輪廻」を続けているから、です。しかし、それはひかりとのレヴューに敗れたことで歯止めが掛かりました。同時にななは「今までの自分」から一歩踏み出す勇気を問われることになるのです。ですが、彼女は「永遠の舞台」に拘泥し、孤独であることに浸りすぎてきたのも事実です。
ななとばなな、自己の同一化していない少女は、その自己矛盾を浮き彫りにされる中で、次なるレヴューオーディションに誘われる事になります。次項ではこういった背景を抱えたなながどのようにレヴューオーディションに立ち向かったかを見ていこうと思います。


#9 Act.2に続く…
※現在執筆中。完成しだい、分割投稿もしくは本記事に連結予定です…しばしお待ちください。


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※なお本感想はあくまで個人の印象によるものです、悪しからず。


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