劇場版「少女☆歌劇レヴュースタァライト」インプレッション番外編 ~『舞台裏のキリンたち』~



そう、 私たちは……この檻を開くと決めたのだ。
囚われ、 変わらないものはやがて朽ち果て、 死んで行く。
だから生まれ変われ。 古い肉体を壊し、
新しい血を吹き込んで。
今居る場所を、 明日には超えて。
たどり着いた頂に背を向けて。
これが……導きの果てにあった真実。
今こそ塔を降りるとき。


           ~ 『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト 』 パンフレットより抜粋~


【はじめに】


 冒頭に引用したのは 『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』 (以下、 劇場版) において、 99 期生卒業公演大決起集会の場面で配られた第 101 回聖翔祭用 『戯曲 スタァライト』 初稿脚本に記された台詞である。 一連の台詞は劇場版パンフレットでも取り扱われている事からも分かるように、 作品全体を貫く主題として明示されている。 むしろ作品そのものがこの主題に基づいて展開されていると言っても過言ではないだろう。

 劇場版の根幹ともいえる、 これらの台詞を劇中で紡いだのは、99 期生舞台創造科の雨宮詩音。 1 学年で 1 つの演目を 3 年間演じ続ける聖翔音楽学園の伝統に則って、 第 99 回聖翔祭より 『戯曲 スタァライト』 の脚本を、 彼女は執筆し続けている。本作においてはその雨宮が初稿脚本を完成できず、 大決起集会を迎えてしまった事が物語に一石を投じるきっかけにもなっている。

 この大決起集会シーンにおいては 『戯曲 スタァライト』 の演出を務める、 同じく舞台創造科の眞井霧子も印象に深い登場人物だ。 初稿を完成できなかった雨宮と集まった 99 期生たちを前に、 卒業公演に立ち向かう怖さを叫び、 それでも前に進んで99 期生全員で舞台を創り上げたいと宣言するくだりは、 眞井の芯の強さが表れた劇場版ハイライトシーンの 1 つだろう。

 大場なながその幕を上げた、 ワイルドスクリーンバロックにおいて 「死んでいる」 と宣告された舞台少女たちは、 この大決起集会をきっかけに各々のケリを付けるため、 自らと向き合う事となってゆく。 のだが、 本稿が語りたいのはそこではない。 むしろ大決起集会に戻り、 眞井と雨宮に着目してみたい。



 読者諸氏がご存じのように眞井と雨宮という名前の由来はマサイキリンとアミメキリンから来ている *1。 それぞれキリンの亜種として知られているがこの 2 種の違いは素人目には判断が難しく、 2 人のキャラクター像と元ネタの共通項は 「キリン」 である事以外に関連性は乏しい。

  しかし 『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』 という作品において、 津田健次郎演じるキリンは作品の鍵、もとい礎となる存在として大きなインパクトを与えている。「永遠の主役」 を巡るオーディションに舞台少女たちを誘い、 そのキラめきの化学反応から生まれる 「だれにも予測できない運命の舞台」を見る事を待ち望んでいる謎のキリン。レヴューオーディションの行く末を眺めるその姿は本作において非常に特異な立ち位置だ。



 TV アニメ版 『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』 (以下、 TV アニメ版) 最終話で 「そう、 あなた (≒視聴者) が彼女たちを見守り続けてきたように」 と、 第四の壁を飛び越えた台詞を投げかけてくるキリンは基本的には我々と同じく、 事の次第を見届ける 「傍観者」 に過ぎない。 キリンが競い合う場として舞台を創り上げていたり、 舞台少女たちのオーディションを演出しているわけではないのだ。 キリンは 「運命の舞台」 が訪れる瞬間を目撃したいために存在している。 作品や物語に何がしかの影響を及ぼすわけでもなく、 ただそこにいるのみ。 この 「キリン」 の存在の異質さは特筆すべきだろう。

 キリン、 そして眞井と雨宮。 これらのキャラクターは 「キリン」という共通項で一括りに出来るが、 一方で 「舞台」 という共通項もまた見えてくる。 眞井は演出家、 雨宮は脚本家として。 そしてキリンには TV アニメ版最終回の台詞からも分かる通り、 観客の像が重なっている。 舞台を演じる 「役者」 が愛城華恋を始めとした舞台少女たち 9 人ならば、この 3 者のキリン、いわば「舞台裏のキリンたち」 は本作に描かれる 「舞台」 を外側から司っている者たちとも言えるはずだ。

 本稿ではキリン、 及び眞井と雨宮を 「キリン」 という同列の存在として扱い、TV アニメ版と比較して劇場版で描かれる 「舞台」と 「舞台裏のキリンたち」 の関係性がどのように変化していったのかを検証したい。 それは結果として、 彼女たちもまた三者三様に 「今こそ塔を降りるとき」 を迎える事となるが、 ここでも愛城華恋の存在が多少なりとも関与してくると、 ひとまず触れておこう。 次項ではまず劇場版に至る前段として、 TV アニメ版のキリンたちを振り返った上で、 さらに劇場版を考えていきたい。


レヴュー、 それは歌とダンスが織り成す魅惑の舞台。
舞台少女のキラめきを感じれば感じるほど、
照明機材が、 音響装置が、舞台機構が、 勝手に動き出す。
芝居に、 歌に、 ダンスに……
舞台少女のキラめきにこの舞台は応じてくれる。



舞台少女がトップスタァになる瞬間、 奇跡とキラめきの融合が起こす化学反応。
永遠の輝き、 一瞬の燃焼、 誰にも予測できない運命の舞台。
私は……それが見たいのです。


         ~少女☆歌劇 レヴュースタァライト第 7 話 「大場なな」 よりキリンの台詞~


【キリンという『ひとつ』の集合体】



 この項では TV アニメ版における、 眞井 ・ 雨宮 ・ キリンの関係性を振り返っていきたい。 とはいえキリンに比べると、 眞井と雨宮の 2 人は作品の端役であり、 物語本編での出番はさして多くない。 劇場版の前章に当たる 『劇場版再生産総集編 「少女☆歌劇 レヴュースタァライト ロンド ・ ロンド ・ ロンド」』 では台詞を伴う登場シーンが軒並みカットされている事からも、 作品の登場人物としてあまり重要ではないのが窺えてしまうのも事実だ。

 先に引用した第 7 話におけるキリンの台詞は、この 3 者を 「舞台」 で結びつける事ができる象徴的な部分と言えるだろう。 前項でも触れたように華恋たち舞台少女が 「舞台」 の内側でレヴューを繰り広げるのであれば、 いわば外側で 「舞台」 を形成しているのが、 眞井 ・ 雨宮 ・ キリンの 3 者なのである。 もっと噛み砕いて言えば、 舞台少女たちが繰り広げるレヴューオーディション、 その至る先にある 「運命の舞台」 においての演出家と脚本家、観客の表象を具現化したキャラクターたちと考えられる。

 無論、 聖翔音楽学園においては舞台創造科なる学科が置かれており、 文字通り舞台を創り上げる事を学ぶ多くの生徒たちが存在している。 ここで指しているのは、あくまでも 「運命の舞台」を引き合いに出した際の、 「演者」 である舞台少女たちと呼応する記号のようなものである。 実際、 「運命の舞台」 にキリンは表出しているが、 眞井 ・ 雨宮の姿は見えない。 物語上の表象をただ背負ってるに過ぎないからだ。

 しかし舞台を創出する点では現実に属する眞井 ・ 雨宮も、 舞台 (劇場) という虚構に属しているキリンもそのスタンスはあまり変わらない。 観客の表象であるキリンは 「誰にも予測できない運命の舞台」 を見たいという願いによって存在しているが、眞井 ・ 雨宮の両者はキリンに比べて、 より 「舞台」 というものに向き合っている様子が窺える。 以下に TV アニメ版第 5 話の台詞を引用しよう。


(眞井) 「分からなくはないけど、 同じキャストの必要はないでしょ?
      3 年間 『スタァライト』 をやるといっても」
     「1 年のときの私たちの 『スタァライト』 は確かによくできてたと  思う。
     でもそれは 1 年のわりには……よ」


(雨宮) 「舞台を育て進化させていく。 それが私たち、 裏方の使命よ。
      あなた (注 : なな) も裏方の勉強するなら、常に挑戦する意識を持ってね」


          ~少女☆歌劇 レヴュースタァライト第 5 話 「キラめきのありか」 より~



 舞台少女たちのキラめきによって生まれる、 運命の舞台。 それぞれ演出家と脚本家の表象を背負った眞井と雨宮は、 「舞台」を受け取るだけのキリンとは異なり、 その 「誰にも予測できない(運命の) 舞台」を創り上げ、 送り出そうという意識が働いているのが引用した箇所からも分かる。この場面のやり取りは、 ななが第 99 回聖翔祭と同一のキャストを推すのに対して返された会話であるが、 受け手 (観客) のキリンに対して送り手 (演出家 ・ 脚本家) の 2 人は同一の演目を扱いながらも 「新しい (=進化した=誰も見た事がない) 舞台」を送り出す事を考えている。 一度創り上げたものに安住せず、 眞井も雨宮も 「舞台」 を進化させようと模索する姿勢のその先に「誰にも予測できない(運命の)舞台」を見る事は可能だ。

 彼女たちはそれを目標として、 常に挑戦を心がけ、 試行錯誤するはずだ。 「誰にも予測できない運命の舞台」 というのは一種の理想であり、 キリンの見てみたい 「舞台」 も同様に、 「叶うかもしれないし、叶わないかも分からない願望」 である事からも、キリンと眞井 ・ 雨宮の思い描いているそれぞれの 「舞台」 はイコールで結ぶ事が出来るだろう。 簡単には手が届かないからこそ、 近づくために研鑽を重ね、 進歩していく。 作中でも度々言われるように 「同じ舞台は存在しえない」。

 大場ななという舞台少女はそこを理解できず、 同じ舞台を創り上げる事を半永久的に繰り返したわけだが、 常に理想を掲げて、 日々進化していこうとする姿勢に俳優育成科や舞台創造科の区別はない。「舞台少女」 だからこそ通じ合う想いであるからだ。

 TV アニメ版における 「舞台裏のキリンたち」 の意識は同様に「誰にも予測できない ( 運命の ) 舞台」 へと向いている事が分かる。 それは 『戯曲 スタァライト』 という演目が存在しているからだろう。 作中では作者不詳であるが戯曲本が存在し、 物語の「始まりから終わりまで」 が明記されている。 この事が極めて重要なのだ。 何が言いたいかというと、 『戯曲 スタァライト』 の劇作あるいは創作物における定石 (セオリー) がはっきりとしている、 という事だ。

 時代劇や特撮ヒーローものを想像してもらいたい。 いわゆるニチアサ作品と呼ばれる TV 番組群でも構わない。 これらの作品群の物語の展開フォーマットは、 定型化したものの中で自由度を探っていく作りになっているものが多い。 1 話ごとの起承転結やテーマ語りはそれぞれに違えども、 作品の枠組みや定型を考えると、 それぞれの作品のお約束事やルールが存在している。そのシリーズ作品を 「らしく」 見せるためのルールや起承転結をはっきりさせる事で演出や脚本は構成され、 観客あるいは視聴者はそのルールに則って物語を楽しんでいる、 という構図なのだ。



 戯曲本、 いわゆる 「舞台」 を創り上げる設計図があるからこそ、 それを元にして 「新しい舞台」 を生み出す事が可能となっているのだ。 『戯曲 スタァライト』 という枠組みの中で、 どのような演出や脚本から 「誰にも予測できない (運命の) 舞台」 を創るのか。また観客側に立ってみれば、物語の筋立てが頭に入っている上でまだ見た事がないキラめきによる一瞬の燃焼、 永遠の輝きを見る事ができるのか。 こちらの想像を凌駕する 「舞台」を常に期待している、 という事になる。

 「舞台裏のキリンたち」 に背負わされた表象というのは 『戯曲スタァライト』 というルールブックによって担保された蜜月関係、と言えるだろう。 「誰にも予測できない (運命の) 舞台」 という1 つの理想を追って、 演出家、 脚本家、 そして観客が三者三様に外から 「同じ舞台」 をそれぞれの角度から眺めている。 この作品の演者たる舞台少女たちが内側から 「舞台」 を構成しているのであれば、 「舞台裏のキリンたち」 もその 「舞台」 を構成している一部である事が見えてくるのではないだろうか。

  舞台少女に対してのキリン。 それぞれに表象を背負ってはいるものの、「在る」 事によって舞台を構成する要素としては同一体だと言える *2 。 演者は決まり事に沿って演じていく。 その本作の 「決まり事」 を司っているのが 「舞台裏のキリンたち」 なのである。このように TV アニメ版での 「キリンたち」 を同一の存在として見なせるのは、 作品世界の現実と虚構においてそれぞれ繰り広げられる 「舞台」 を司る存在として相互関係にあるからだ。彼らの存在意義を示す支柱となっているのが他ならぬ 『戯曲 スタァライト』 であり、 その大きなルールに基づいて 「少女☆歌劇レヴュースタァライト」 という物語は駆動している。ゆえに 「舞台裏のキリンたち」 は舞台を形成する 1 つの集合体として、 その存在で舞台少女たちを下支えしていることが分かるだろう。

 ここまで TV アニメ版での 「舞台裏のキリンたち」 を振り返って来た。 これらを前段として、いよいよ劇場版での 「キリンたち」を見ていく事にしよう。 その為には劇場版の下敷きになっている要素を拾い上げてみて、 キリンたちがどう描かれているかを絡めて考える事から始めてみたいと思う。



【分裂するキリンたち】



 「映画」というだけあって、劇場版には様々な名作映画のオマージュが随所に散りばめられている。 この事は多くのファンが指摘しているのはもちろん、 監督自らもインタビューなどで言及している事からも明らかだろう。 それら全てが明らかになっているわけではないが、 ファンの間でそのオマージュ元の 1 つであると目されているのが 1973 年制作の映画 『ジーザス ・ クライスト ・スーパースター』だ。

 1971 年にブロードウェイで上演されたロックオペラ (ミュージカル) の代表作の 1 つで新約聖書におけるイエス ・ キリストの死と復活を題材に、キリストの 「最後の七日間」 が描かれている。劇場版において舞台少女 ・ 愛城華恋の 「死と復活」 を描くために援用されていると考えられるが、 本稿ではこの 「イエス ・ キリスト=愛城華恋」 という見立てを踏まえ、 参照作品からやや飛躍して、 その原典である新約聖書に遡り、 「舞台裏のキリンたち」を考えてみたい。

 前項で語った通り、 キリンたちは TV アニメ版における 「舞台」を外側から形成している。 これを劇場版にも当てはめてみれば「愛城華恋、 あるいは舞台少女の物語」 をキリンたちは外側から形成しているという事になる。 だが 1 つ注意して欲しいのは、劇場版は TV アニメ版や再生産総集編の終盤において華恋が生み出してしまった、 『戯曲 スタァライト』 新章の 「まだ誰も見た事のない」 結末を目指す物語である点だ。

 『戯曲 スタァライト』 は舞台を創るための底本が存在し、 悲劇ではあるが物語の結末と筋立てがはっきりしている作品だと言える。 では、 『新章』 はどうだろうか。 愛城華恋が 『戯曲 スタァライト』 の結末を否定して、 物語に新たな 1 ページを書き加えた事で、物語の結びは解かれてしまった。 つまり 『新章』 は 「筋書きのないドラマ」 へと姿形を変えてしまった 『スタァライト』 なのだ。 故に物語は愛城華恋の、 ひいては 「舞台少女の物語」として描かれなければならなくなった。


※以下リンクは参照までに。
『新章』を始めてしまった華恋の問題点を長々と書いている、当ブログの劇場版感想本編第一弾です*3
terry-rice88injazz.hatenablog.jp


 本稿の冒頭に用いた、 第 101 回聖翔祭用初稿脚本にも 「だから生まれ変われ。 古い肉体を壊し、 新しい血を吹き込んで」とあるように、 舞台少女たちは新しい舞台と向き合う度に 「死と復活」、 つまり再生産をその都度繰り返していく。 舞台を終えたら、 また次の舞台へ。 日々進化を繰り返していく事こそが舞台少女、 「舞台に生きる」 者の生き様と言えるだろう。

 そういった舞台少女の生き様を愛城華恋はどのように生きるのか。 こうして劇場版に掲げられたテーマはイエス・キリストの 「死と復活」 と重なってくるわけだが、 この筋立てに対して、「舞台裏のキリンたち」 はどのような役割を果たしているのか。 という観点が本稿の主眼である。 前項で語ったように、 キリンたちには外側から舞台を創り上げている構成要素として 「演出家 ・ 脚本家 ・ 観客」 の表象が重ねられている。 しかし劇場版においてはこれらの象徴にさらにもう一枚、 新たなイメージが重ねられているのだ。



エスは、 ヘロデ王の時代にユダヤベツレヘムでお生まれになった。
そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。
ユダヤの王としてお生まれになった方は、 どこにおられますか。
 わたしたちは東方でその方の星を見たので、 拝みに来たのです。」


(中略)


彼らが王の言葉を聞いて出かけると、 東方で見た星が先立って進み、
ついに幼子のいる場所の上に止まった。 学者たちはその星を見て喜び
にあふれた。 家に入ってみると、 幼子は母マリアと共におられた。
彼らはひれ伏して幼子を拝み、 宝の箱を開けて、
黄金、 乳香、 没薬 (もつやく) を贈り物として献げた。


       ~日本聖書協会刊、 新約聖書新共同訳版『マタイによる福音書』 2:1-12 より抜粋~


 上記の新約聖書からの引用はいわゆる 「東方の三博士」、 あるいは 「東方の三賢者 (賢人)」*4と呼ばれる占星術の学者たちがイエスが生誕した時に拝みに訪れた際の記述である。 『ジーザス ・ クライスト ・ スーパースター』 という参照作があり、 その上で愛城華恋をイエス ・ キリストだと見立てれば、 この新約聖書における 「東方の三博士」 こそが 「舞台裏のキリンたち」 の劇場版における新たなモチーフなのだ。 そして 「東方の三博士」には 7 世紀ごろから以下のような名前が付けられている。

メルキオール Melchior (黄金。 王権の象徴、 青年の姿の賢者)
バルタザール Balthasar (乳香。 神性の象徴、壮年の姿の賢者)
カスパール Casper (没薬。 将来の受難である死の象徴、 老人の姿の賢者)


 イエスに捧げられた贈り物が 3 つであった事から、 人数が 3人だと解釈されて名前が付いたとされているが着目したいのはその贈り物の方である。 黄金はさておき、 乳香は古代エジプトにおいては神に捧げる神聖な香として焚かれた樹脂の香料。 没薬も同じく樹脂からなる香料で殺菌作用がある事でも知られている。 こちらも古代エジプトにおいてミイラを作る際、 遺体の防腐処理に使用されていたようだ。

 3 つの贈り物に象徴されている意味が先に書いた、王権、神性、そして死の受難であるのはそういった由来にあるからだろう。 そしてこれら贈り物の表す象徴をキリンたちに以下のように当てはめてみたい。

眞井 : 演出家。 メルキオール (黄金。 王権の象徴、 青年の姿の賢者)
雨宮 : 脚本家。 バルタザール (乳香。 神性の象徴、 壮年の姿の賢者)
キリン:観客。 カスパール (没薬。 将来の受難である死の象徴、老人の姿の賢者)


 TVアニメ版においてキリンたちの担った役割は物語で繰り広げられる 「舞台」 を外側から司るものであり、 同じ方向を見ていたと考えられる。 そこには 『戯曲 スタァライト』 という完成された作品がある事は言うまでもない。 「舞台」 を 1 つの塊だと考えるなら、 キリンたちはその土台を担っている存在だ。 直接関与しているわけではないが、 物語に存在している事で、 舞台少女たちの 「舞台」 を構成する役割を果たしていると言えるだろう。

 対して劇場版は 『戯曲 スタァライト』 を巡る物語から、 「舞台少女の物語」 ひいては 「愛城華恋の物語」 という所へシフトしている。 さらに 『戯曲 スタァライト』 は前述した通り、華恋によって 『新章』 が書き加えられてしまった事で 「未完成の物語」 へと変容してしまった。 それゆえに、 『戯曲 スタァライト』 と物語上の舞台を外側から司る役割を持っていた 「舞台裏のキリンたち」もその役割を変えざるを得なくなってしまったのだ。

 これは 『ジーザス ・ クライスト ・ スーパースター』 が参照作に用いられたのも作用して、 劇場版の物語はキリスト教文化圏の文脈が以前よりも色濃く出ている為だと言っていいだろう。 イエス ・ キリストのごとく華恋が舞台少女として真に 「死と復活 (=再生産)」 を遂げて、 生まれ変わる事が劇場版における 「舞台」の主旨であるならば、 新約聖書の 「東方の三博士」 の持つ表象を組み込まれた 「舞台裏のキリンたち」 もまたその物語に従わなければならない。 それは同時に TVアニメ版の 「古い肉体」を捨てる事を意味する。TVアニメ版では 『戯曲 スタァライト』 という 「決まり事」 を司る表象を背負っていたキリンたちは、 その古い肉体を脱ぎ捨てて、 劇場版で付加された新たな表象、 つまり 「東方の三博士」の象徴を背負い、 物語の中を動かなければならなくなったのだ。

 広義の意での 「舞台少女」、 あるいは愛城華恋という 「ひとりの舞台少女の物語」 へと生まれ変わった 『劇場版 少女☆歌劇レヴュースタァライト 』 は全ての舞台少女にとって 「終わりのない物語」 となった。 もちろん映画としては愛城華恋が舞台少女として 「生きる」 事を自覚する結びを得たわけだが、 それは作品としてピリオドが打たれただけであり、 華恋たちの物語はこれからも続いていく。舞台少女たちは次の舞台へ。 それを観客の我々が見る事は叶わないが、 「閉じる事のない物語」 となった時点で舞台少女たちは描かれた物語の外で生き続けてくれる事を保証してくれたのが劇場版最大の功績だろう。

 本題からやや逸れてしまったが、言ってしまえば 「新しい肉体」を得た 「舞台裏のキリンたち」 はこの劇場版の結末に至るためのトリガーなのだ。 そしてキリンたちの顛末はイエス ・ キリストに捧げた 3 つの贈り物の象徴と重なっていく事となる。古代ヨーロッパの神学者ヒエロニムスの解釈*5によれば、 3つの贈り物はイエス ・ キリストが王であり、 神であり、 さらに人間として死すべきものである事を示していると指摘している。この解釈が劇場版の内容に強く影響を及ぼしているかは定かではないが、 劇場版での愛城華恋の行く末と 「舞台裏のキリンたち」の顛末には図らずもリンクしている。 これらを踏まえて、 順に見ていきたい。

 まずはキリンを見てみよう。 TV アニメ版においては 「観客」を象徴として背負っているが、 劇場版では 「死」 を象徴する没薬を捧げたカスパールと呼ばれる老賢者が重ねられている。 劇場版が 「舞台少女の人生、 生き様」 を辿る物語となり、 「舞台」よりも 「舞台少女」 を描く事に大きく傾いた事で、 「舞台を眺める観客」 としての立場そのものが無くなってしまった。 『戯曲 スタァライト』 という 「決まり事」 の中で成立していた 「舞台」 を見る 「観客」 であった事からも、 その 「舞台」 そのものが 「舞台少女の物語」 に変化した以上、 フォーカスされるのは舞台少女であって、「観客」が見る事で完成される「舞台」は消えてしまったと言えるだろう。

 「観客」 という象徴を失ったキリンに残るのは死を象徴する没薬である。 最終的にキリンは舞台少女を 「舞台」 に生かす熱狂、つまり燃料となって、 その身を捧げてて燃え尽きてしまう。


(キリン) 「ああ……私にも与えられた役があったのですね……
       舞台に火を灯すその役が……」


             ~ 『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト 』 よりキリンの台詞~


 この台詞からキリンはその死を捧げる事によって、 最終的には愛城華恋が 「舞台少女」 として復活するお膳立てを作った、 と見る事も出来る。 没薬がミイラ作成の防腐処理として使われた香料であり、 ミイラそのものは古代エジプトで来世で復活するための肉体を保存する必要があると考えられていた事からも、 没薬の象徴を背負ったキリンがその身を捧ぐという図式は劇場版における愛城華恋の見立てを考えれば、 理に適っていると言えるだろう。 「観客」 の立場を失ったキリンは新たに舞台少女 ・ 愛城華恋の 「復活」 を促す役割を持つ事で劇場版での役目を全うしているのだ。

 「脚本家」を背負っていた雨宮はどうだろうか。彼女には「神性」の象徴を持つ乳香を捧げた壮年の賢者バルタザールが重ねられている。 また舞台を 「観る」 キリンとは異なり、 「創る」 側に立つ存在だ。 同じく 「創る」 側である 「演出家」 の眞井と比べると、「脚本家」 の雨宮にはバルタザールの捧げた乳香の象徴と親和性があると考えられる。

 これまでに語ってきた事を踏まえると、 TV アニメ版における「脚本家」 の像は 「神の視点」 によって物語 (運命) を司る役目だと言える。 故に 「神性」 の象徴を持つ乳香と舞台の物語を 「創り出す」 事の出来る脚本家が結び付くのは想像に難くないだろう。 とはいえ物語の創造主たる 「脚本家」 の存在意義は「完成した物語」、 作者不詳の 『戯曲 スタァライト』 が持つ、 一定の神話性によって担保された役割である事も間違いない。 加えて劇場版は華恋の生み出した 『新章』 によって、『戯曲 スタァライト』は「未完成の物語」へと生まれ変わってしまっている。

 「完成した物語」、 つまり 『戯曲 スタァライト』 の持つ神話性を司っていた 「脚本家」 の立場も絶対的ではなくなってしまったのだ。劇場版が 「舞台少女 (愛城華恋) の物語」 となった事で物語の様相が TV アニメ版 (『戯曲 スタァライト』) の寓話的、 神話的な趣きから、 より人間的な趣きへと変わっているのは明らかで、 乳香の持つ 「神性」 の象徴を重ねられた 「脚本家」 がその舞台少女 (人間) の未完成さゆえの可能性を 「物語として」制御できないのはやむを得ない事のように思えてくる。

 『新章』 によって切り拓かれてしまった 「未完成の物語」 である為に、『戯曲 スタァライト』 の内包する神話性は崩れ、 物語は「舞台少女 (人間)」 そのものと化した。 そして雨宮もまた 「舞台少女」 である故に 「未完成」 の渦中にいる。 「完成された物語 (≒神話)」 を見失い、 それを司る脚本家も 「未完成」 だと暴かれた結果、 雨宮の脚本執筆は難航し、 締め切りの大決起集会までに初稿を 「完成」 させる事が出来なかったのである。劇場版において新たな役割を見出したキリンとは逆に、 雨宮はその 「筋書きのないドラマ」 に巻き込まれてしまい、 立ち位置と役割を見失ってしまったのだ。

 このように TV アニメ版で背負った役目を見失ってしまった 2者と比べると、 「演出家」 を背負っていた眞井は劇場版の物語に適合しているように思える。 その論拠は以下に示す大決起集会での眞井の決意に表れている。



(眞井) 「第 100 回、 あのスタァライトを超えられるのか、 ホンット怖い。
      でも、 怖くて当たり前だよね? 私たち卒業公演なんて初めてだし。
      先輩たちだって、 きっと怖かったと思うんだ。
      でも、 みんなとなら……私たち 99 期生だけで作る最後の舞台だもん!
      立ち止まっていられない!! 最後まで作りたい!
          みんなと!」


       ~ 『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト 』 より大決起集会での眞井の台詞~


 眞井が劇場版で背負わされた役割は黄金を捧げた青年賢者、メルキオールだ。 黄金は 「王権」 の象徴であり、 金自体も精錬を必要とせず、 ありのままに自然界に存在する純度の高い金属だ。 長い年月を経ても変化しない性質を持っている事からも古来より富の象徴としても重宝されているが、 先の引用に表れている眞井の芯の強さとも合致しており、 本稿冒頭に引用した第101 回聖翔祭用の 『戯曲 スタァライト』 初稿脚本に詰め込まれた劇場版のメインテーマからも明らかだ。

「舞台裏のキリンたち」 の内、眞井だけが劇場版においてポジティヴな方向を示しているのは、 彼女が物語の表現を統括し、 方向性を整えたり、脚色を加えたりする事の出来る「演出家」を背負っていたからだろう。 黄金の象徴する 「王権」 とは文字通り、人々を統治する王の権力の事を指す。 没薬の 「死」 という事象や乳香の 「神性」 のような超越的かつ抽象的な象徴と比べても、 より具体的に影響を及ぼす 「力」 の象徴だ。 その力をもって国家を司る王と 「舞台」 そのものを統括する 「演出家」 は近い距離で共通している。 「脚本家」 が物語、 ひいては 「舞台」 を創り出すのだとすれば、 「演出家」 はその 「舞台」 そのものを司る役目を背負っているのだ。 また黄金自体が持つ経年によっても変化しない性質は 「演出家」 として不可欠な、 揺るがない意志の強さにも結びついている。

 確固たる意志を持ち、 進歩を止めず、 新しい舞台への飽くなき意欲を言葉にして示しているのは第 101 回聖翔祭用の 『戯曲 スタァライト』 初稿脚本と共に、 劇場版が示す主題であり、愛城華恋が映画のラストでようやく掴んだ 「舞台少女の生き方」なのだ。 次の舞台に向かうためには、 飢餓感や焦燥感が必要なのは、 大場ななが大決起集会のシーン終わりに 「おやつの時間はもうおしまい」 と言った通りだが、 「たどり着いた頂に背を向けて」、 「塔を降りる」 というのにも同じ事が言える。

 劇場版が 「舞台少女 (愛城華恋) の物語」 であり 「終わりのない物語」 である事は先に示しているが、 「舞台裏のキリンたち」 の内、 なぜ眞井のみが劇場版の物語と呼応できたのかは、重ねられた 「東方の三博士」 のイメージが青年賢者のメルキオールである事も大きい。 メルキオールが経年変化をしない性質を持つ 「黄金」 を捧げている、 という所からも分かるように作品が 「完成された物語」 から 「未完成の物語」 へと変質しようとも、眞井の意志と 「演出家」 の気質には影響はないのだ。 彼女もまた 「舞台少女」 として 「未完成」 であるのは大決起集会で切った啖呵からも自覚的と言える。

  メルキオールが青年という「若い」賢者である点からも「未完成の物語」、つまり舞台少女たちの「可能性」 と符合しており、眞井はそれを受け入れた上で 「演出家」の意志を示したのだ。これに比べると 「未完成の物語」 に対して、 「脚本家」 の雨宮が背負った壮年の賢者バルタザールと乳香の 「神性」 の象徴は先述した通り 「完成された物語」 の上に成り立つものであり、「未完成ゆえの可能性 (=若さ)」 に対応しきれず、 「観客」 であるキリンの背負った老年賢者カスパールと没薬の持つ 「死」 の象徴は 「可能性」 そのものが潰えている。*6描かれた物語に込められた 「可能性」 の観点から見れば、 眞井が背負った若き青年であるメルキオールと黄金に込められた象徴はこれからの未来を進む舞台少女たちの意志と合致しているのだ。

 TV アニメ版では物語の外側で 「舞台」 を司っていた 「舞台裏のキリンたち」 は 「完成された物語」 を 「誰にも予測できない (運命の) 舞台」 という 1 つの理想に昇華する為に一致していた。 しかし劇場版は愛城華恋によって物語が変化し、 キリンたちはより物語にコミットしなければならなくなったのだ。 これは劇場版に描かれる物語の主軸が 「舞台少女」 であり 「愛城華恋」となったからでもある。 「舞台」 という大きな枠からパーソナルな 「存在」 に物語の視点がフォーカスされるのに伴って、「舞台」で一致していたキリンたちも個々の 「存在」 として物語の役割を背負わされた。 そしてそれぞれの果たす役割そのものが、 劇場版の主格である愛城華恋の 「再生産」 へと貢献している。

 そこにはイエス ・ キリストがあり、 東方の三博士たちが彼の生誕に捧げた贈り物のモチーフが重ねられている、 と考える事が十分に可能だ。 これらキリスト教的なモチーフによって 「舞台裏のキリンたち」 もまた 「舞台少女」 たち同様、「塔を降りるとき」 を迎えたのだ。


ああ  私たちは何者でもない
夜明け前のほんのひととき
ああ 私たちは今何処へだって
夢を宿し 行ける


             ~ 『再生讃美曲』 より~


ひとりにひとつずつ 役があるなんて
神サマもニクいよね 最高の演出家だね
たくさんの光届けるよ 一等星の明るさで (踏み出す一歩に勇気を)
だからきっと見つけてね 明日もあさってもずっと (波打つ心に歌を)


             ~ 『私たちはもう舞台の上』 より~


【おわりに】


 「舞台裏のキリンたち」 というフレーズを用いて、 TV アニメ版から劇場版に至るキリン、 そして眞井と雨宮の立ち位置の変化をここまで考えてきた。 劇場版がオマージュした映画作品の 1つに 『ジーザス ・ クライスト ・ スーパースター』 があり、 そこから新約聖書の 「東方の三博士」 へとキリンたちを結び付ける試みはやや飛躍した推論ではあるものの、 劇場版本編に描かれる愛城華恋の 「死と復活」、つまり 「再生産」 へ捧げるためのモチーフとして、 東方の三博士たちの贈り物をキリンたちに重ねる見立ては存外、 的を射ているのではないだろうか。

 TV アニメ版においては、 物語に寄り添う形でしか存在していなかったが、 劇場版におけるキリンたちは物語本編に影響を及ぼしている。 雨宮は作品のメインテーマを、 眞井は舞台少女の生き様を、 キリンは舞台少女の生きる糧として。 「舞台少女 (愛城華恋) の物語」 に、 それまで外側で 「舞台」 を眺めているに過ぎなかった 「舞台裏のキリンたち」 がぞれぞれ背負った象徴を携えて、 関与している。 それは、 キリンたちにも作品における役割と個性を与えているという点では、 TV アニメ版でのひと塊の集合体から分裂しているのだ。 劇場版で 「舞台裏のキリンたち」 は意味を持つ存在として物語の根幹に機能している。 この事は大きな変化と言えるだろう。

 最後に 『戯曲 スタァライト』 の印象的なセリフを以下に引用して終わりたい。 「星摘みの歌」 として楽曲にもなっているが、 劇中の台詞として演じられる一連のフレーズは、 先に引用した新約聖書の 「東方の三博士」 たちが 「星」 に導かれてイエス ・ キリストの生家を訪れている、 という事を踏まえるとまた興味深い読みができるのではないだろうか。 『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』 という作品がそれぞれの 「スタァ」 を目指す物語であればこそ、 星に導かれた 3 人の賢者たちと 「スタァ」 を目指す舞台少女たちも対比として考えられそうだ。

本稿はここまでとするが、 筆者もまた次の舞台へ──その歩みを止めずに考えてゆきたい。


小さな星を摘んだなら、 あなたは小さな幸せを手に入れる
大きな星を摘んだなら、 あなたは大きな富を手に入れる
その両方を摘んだなら、 あなたは永遠の願いを手に入れる



今こそ星がキラめくとき
星摘みは罪の赦し
星摘みは夜の奇跡
お持ちなさい、 あなたの望んだその星を


         ~少女☆歌劇 レヴュースタァライト TV アニメ版第 12 話
          『第 100 回聖翔祭 99 期生第二回公演 戯曲 スタァライト』 より台詞抜粋~



参考文献
日本聖書協会新約聖書」 新共同訳版、 1989 年


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※以上の文章は2022年10月に発行した劇場版少女☆歌劇スタァライトの考察合同誌『舞台創造科3年B組 卒業論文』へ寄稿したものとなります。

その他の論考は以下のWEB版「舞台創造科3年B組 卒業論文集」にて公開中です。ご興味のある方はそちらも是非ご覧ください。

note.com

*1:https://twitter.com/toppy1218/status/1162061760209178625?s=21

*2:無論、 舞台美術に衣装、 照明 ・ 音声、 大道具に小道具と実際に舞台を作り出す分野を蔑ろにしてるわけではない。

*3:続きはもうしばらくお待ちください

*4:本稿の 「東方の三博士」 の記述は東方の三博士 - Wikipedia を参照している。

*5:元ページの記述の注釈に松本敏之 「マタイ福音書を読もう (1) 一歩を踏み出す」 (2013 年、 日本キリスト教団出版局) の書名記載あり。 同書の記述に基づくものだと思われる。

*6:一方でその 「死」 をもって新たな 「可能性」 に火を灯す役割を果たすわけだが。