【ネタバレ】劇場版「少女☆歌劇 レヴュースタァライト 」インプレッション~さらば青春のひかり~第一幕【『物語』を始めたのは誰か】

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【はじめに】


劇場版 『少女☆歌劇 レヴュースタァライト


公開初日*1に見てまいりました。


以上の呟きからも分かるように長い間ファンを続けてきた身としては感無量の出来でした。みっちりと詰め込まれた120分の映画作品は、追っかけてきた年月が長ければ長いほど見ている者の心を打つ映像だったと思います。古川監督を始め、制作に携わってきたスタッフの皆さんには最大限の賛辞と感謝を伝えたい、伝えたくなる映画でした。



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とはいえ見終わった後、感想をどう書けばいいか困ったのも事実です。公開前に上記リンク記事以外にもいくつか書いたせいもあって、「なにか話すことはあるのか?」と途方に暮れていましたし、先の呟きがもう感想でもいいんじゃないかなくらいには、満足度が高かったので、感想を書こうにもどこから切り出していくのかを考えあぐねていました。

先のリンク記事にも取り上げた通り、今回の劇場版は端的に「愛城華恋の物語」だと思います。もちろん他の8人の舞台少女たちの進路とそこに対しての葛藤や別離や決意、も詰め込まれていますが、映画全体を眺めた上でこの作品の物語として一番比重が置かれているのは、「愛城華恋」であるのは間違いないでしょう。個人的には他の舞台少女たちの繰り広げるレヴューや覚悟も非常に楽しませてもらいましたが、それでもなお映画の物語は「愛城華恋」に集約されているのです。「華恋の物語」が主菜であるなら、劇場版に描かれる舞台少女たちのエピソードは副菜であると言ってしまっても構いません。そういった枝葉の部分に惑わされがちだけど、メインに活けられている華の部分は今までになく明快だと思っています。当然ながら、その紐解きは必要だと考えていますし、TwitterのTLに流れてくる感想を見ているとこちらが紐解きをせずとも、それを感じ取っている人も多くいます。筆者も筆者なりに感想を書いて、ひとまずの締めとしたいと思います。

記事タイトルにもつけていますが、ここから先は映画を鑑賞している前提で容赦なくネタバレをしていきますので、どうか映画をご覧になってからお読みください。また書かれている文章においては個人の印象・主観・見解に基づくものである事を踏まえてご覧いただけると幸いです。


【『物語』を始めたのは誰か~「私たちはもう舞台の上」】



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特別公開の冒頭映像動画リンクを出しましたが、ご覧になってもならなくて問題はありません。*2 
映画は再生産総集編ラストから地続きで、ひかりが「再演者」となってTVアニメ版の「ふたりでひとつの物語」を明確に否定する(あるいは『完成美』の花言葉を持つトマトを粉砕する)事によって、「ひかりに執着し続けていた華恋」という閉じかけていた可能性に綻びを生ませ、塔から線路へとモチーフが変容する事で、華恋の新たな道筋が生まれたことを示すシーンだと思います。


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劇場版の物語はここを起点として始まっています。筆者の見解としては、再生産総集編を含めた劇場版二部作はひかりを基軸として編み直された「再演」によって、TVアニメ版最終回から分岐したパラレルワールドという認識ですね。論拠としては、再生産総集編の新規パートで描かれる地下劇場を照らす舞台照明の色が基本終始だという点、ななの再演が途切れてより眩しいの光に取り込まれている点、またTVアニメ版4話がほぼカットされて、かわりに8話のロンドンの回想が差し挟まれた事でよりひかりが主体として描かれている点などでしょうか。


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そしてこれらの論拠は全て再生産総集編のタイトルである「ロンド・ロンド・ロンド」に結びついていきます。


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ロンド・ロンド・ロンドのロゴや劇場版二部作からの作品のロゴには、列車の車輪を模したデザインがあしらわれていますが、車輪の意味合い以外にも「〇」が一つの「ロンド(輪舞)」を表していて、それが三つ並んで「ロンド・ロンド・ロンド」になっているのが分かりますね。三つの「ロンド(輪舞)」を貫いているものは劇場版のコピーにもなっている、華恋のキラめきだと見る事も出来ますし……、


        


劇中で出てきた、ロンドン地下鉄のマークのように華恋の「ロンド(輪舞)」をひかりのキラめきが貫いているようにも考えられます。どちらにしても上に挙げた劇場版のロゴマークには「ロンド(輪舞)」に対してキラめきが貫かれている、という意味合いも重ねられているのです。

ではここでいう「ロンド(輪舞)」とは一体何か。三つあるうちの一つは皆さん分かりやすいと思います。大場なながTVアニメ版で繰り返してきた「再演」ですね。


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ななは第99回聖翔祭の戯曲『スタァライト』を聖翔音楽学園第99期生全員で作り上げた「舞台」が忘れられず、そしてそれが眩しすぎて、何度も何度も「再演」を繰り返した。前に進むことを恐れ、ひたすらに自分が眩しく感じた「舞台」を演じ続ける事で「絶望の輪廻」を繰り返してきたと言えます。前に進まず同じところをグルグルと回り続けていたわけですね。


ja.wikipedia.org
kotobank.jp


ところで「ロンド」そのものがどういうものかという所を見ていくと、上に挙げたリンクでも確認できますがその始まりは13~15世紀のフランスで生まれた定型詩かつ楽式の一つである「ロンドー」と確認できます。音楽でいう所の「ロンド」17世紀に入って、器楽曲として作られるようになった形式の一つで、主題が異なった楽想の挿入部を挟んで何度か繰り返される形式の楽曲の事を指します。以下、リンク先の説明をざっくり引用してまとめてるとこうなります。

ロンドー(詩):特定の様式化されたパターンにしたがって繰り返されるリフレインを用いる押韻形式のもの
ロンド(音楽):少なくとも三つの主題が異なった楽想の挿入部を挟んで何度か繰り返される形式の楽曲


kotobank.jp


なお日本語で「輪舞」がロンドと読まれるのも英語で言う所の「Round Dance」の「Round」が「ロンド」と同じ語源に当たる事からの発展だと考えられる(はず)。これも以下に、リンク先の説明を引用しつつ、ざっくりと纏めます。

輪舞:舞曲形式の一つ。大勢が円く輪になって歌いながら踊る。民族舞踊において中心を設定し輪をなす場合,踊り手が自転するものと,単に循環するものに大別され,また宗教学的には生と死が循環する形式,輪によって包囲される中心部で犠牲が捧げられ輪をつくっている人々が贖罪される形式,神力を中心部から得る形式などに分類される。


とまあ、物語に関わりそうな部分はこの辺りでしょうか。細かく見ていくとキリがないですが、「輪舞」の生と死が循環する宗教学的形式や中心部で犠牲が捧げられ、輪を作る人々が贖罪される形式というのは、分かりやすい所で言うと、お盆の縁日で行う盆踊りなんかが代表格のようです。日本民俗学の開拓者、柳田國男の指摘するいわゆる「ハレとケ」の概念にも結び付いてくるのですが、もっとざっくりと見れば「輪舞」というのも「日常/非日常」の境を循環するものであるという見方も可能ですね。

これらを踏まえて、再生産総集編のタイトルに冠せられた「ロンド・ロンド・ロンド」という「三つのロンド(輪舞)」を「少なくとも三つの異なった主題が、特定のパターンに従ってリフレインを繰り返し、生と死(あるいは日常と非日常)が循環している」ものだと考えると、おのずとレヴュースタァライトの作品主題に当てはまって来るのではないでしょうか。


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TVアニメ版の当初より提示されている「三つの執着」。当ブログでも本当に何度も繰り返して出してきました。「舞台」「約束」「少女」へのそれぞれの「執着の物語」が作品を駆動させて、物語を突き動かしてきたことは「少女☆歌劇 レヴュースタァライト 」をここまで見てきた人間にとっては周知の事実である事でしょう。TVアニメ版全12話では9人の舞台少女たちそれぞれの「執着の物語」が大小描かれてきました。そして掲げられた「三つの執着」それぞれにひと際、強い執着を見せていたのが大場なな神楽ひかり愛城華恋の三人です。

先に説明したななはもちろん「舞台」に、ひかりと華恋はそれぞれ「約束」「少女」に強い執着を見せていました。とはいえ、ひかりと華恋については二人の関係の中に「三つの執着」すべてが詰まっているというのは以前の感想でも何度か語っています。「舞台」に対してはお互いの共通項であるので、強い志向を見せている要素が異なっているのがそのまま二人の違いにもなっているのですね。そして、ひかりと華恋でそれぞれ強調されている執着は、舞台少女として歩んできた二人のこれまでに何度もリフレインしているのです。

劇場版では華恋の舞台少女としての歩みが幼い頃から順に描写されていきますが、彼女の歩みに何度も「少女(ひかり)」の姿が事あるごとに顔を出してきてますね。その度、「見ない、聞かない、調べない」と自分の設定したルールを課して、華恋は「ひかり(少女)」から目を逸らしていた。ひかり(少女)が自分との約束を覚えているかどうかを知りたくなくて。知らなければひかりへ一方通行の手紙を出すことで「約束」は継続されていて、自分も「舞台」を頑張っていける。いつか来る「運命の舞台」に向かって。

華恋の心理を想像すると、このような思考回路が思い浮かびます。しかし一度だけ自分ルールの禁を破って、スマホでひかりの名前を検索し彼女がイギリスの王立演劇学院に入学している事を知り、同じ道を進んでいるのを確認できたことで安堵してしまうんですよね。むしろ本人に確認しないまでも「約束」を覚えていてくれた「ひかり(少女)」が華恋の中で決定的に「舞台に立つ理由」になってしまったのは、12年ぶりに再会した「振り」をしたあの瞬間だと思われます。


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対して、ひかり。当ブログのTVアニメ版8話の感想ではどちらかというと「先を行く者としての無自覚な傲慢さ」という観点で初めて「挫折」を味わったひかりが「舞台」への執着を失い、「約束」と「少女(華恋)」への執着で再生産したと読みました。しかし再生産総集編を経た今回の劇場版で、ひかりは幼少期に華恋を誘って一緒に見に行った戯曲『スタァライト』の公演で役者とその演技の凄さに気後れしてしまい、舞台少女になる事を諦めようとしていたのを華恋が繋ぎとめてくれた、という描写が新たに付け加えられていました。この描写も劇場版においてかなり重要な意味を持つものだと考えられます。

編み直された再生産総集編を通じて考えると、ひかりは華恋が繋ぎとめてくれた「約束」を胸に、舞台少女としての高みを目指して王立演劇学院に入学して、研鑽を積んでいきます。全ては「同じ舞台に立つ」という「約束」がひかりを舞台少女として奮い立たせる原動力になっていて、どんなに厳しいレッスンやカリキュラムなども乗り越えられてきた。「舞台」も「少女(華恋)」も大事だけど、ひかりにとっては「少女(華恋)」との「約束」が「舞台少女」となるきっかけであり、トリガーそのものだったというのが再生産総集編以降の舞台少女・神楽ひかりのスタンスなのだと思います。推測するに、厳しいレッスンなどで心身挫けそうな瞬間もあったろうと思うのですがその都度、ひかりは「約束」をリフレインする(思い返す)事で、心折れずに向き合えたのではないでしょうか。

このように考えていくと、大場なな神楽ひかり愛城華恋の「舞台少女である理由」はそれぞれが強く執着する対象を中心にして輪舞(ロンド)していた、というのが「ロンド・ロンド・ロンド」たる由縁なのではないかと。さらに飛躍すれば「少なくとも三つの異なった主題が、特定のパターンに従ってリフレインを繰り返し、生と死(あるいは日常と非日常)が循環する『ロンド(輪舞)』」とは聖翔音楽学園という高校生活の3年間でもあり、モラトリアムの「輪舞(ロンド)」でもありそうです。というのも、聖翔音楽学園の伝統として「一学年が一つの演目を三年間作り上げる」事も大きな括りとしての「ロンド」であり、高校生活と舞台という「日常と非日常」が三年間循環していく点からも「輪舞」なんですよね。三年間を通じて特定のパターン(戯曲『スタァライト』)を異なった主題で繰り返し、「一つの舞台」を作り上げる。聖翔音楽学園第99期生、ひいては9人の舞台少女たち、もっと言えばななとひかりと華恋が一つの大きな輪舞(ロンド)を巡っているとも言えるでしょう。

しかし大きな輪舞=モラトリアムの「輪舞(ロンド)」だと見れば、その「輪舞(ロンド)」からいずれ出ていかなければならないのもまた事実です。そこに加えて、劇場版二部作に出てくる「私たちはもう舞台の上」「私だけの舞台」といったキーワードはその事実を象徴する言葉であるとも考えられます。特に「私たちはもう舞台の上」は(強い)執着から解き放たれた者から順に口にしているのにお気付きでしょうか?


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ななは第99回聖翔祭の「みんな」で作り上げた戯曲『スタァライト』、つまり「舞台」に執着しすぎて、過去を顧みることが出来ず、未来を見ることが出来なくなった人間として描かれていますね。この後で説明するひかりや華恋とはベクトルが異なっていて、なな自身が執着している事は「舞台少女である」事とは実は強く結びついていないのが大きなポイントです。ななが執着した理由というのは、聖翔に入学するまでずっと「独り」で活動するしかなかった舞台少女が思いを同じくする「みんな」と出会って作った初めての「舞台」であるからで、大場ななという「舞台少女」がそこで生まれたからではないのです。そこを誤認して繰り返してしまっていたのがななの「再演」であり「ロンド」だった。ですから、TVアニメ版8、9話相当部分でひかりと華恋それぞれにその執着を断たれた事により日々進化する「舞台少女」に戻ることが出来たのが、大場ななという「舞台少女」が抱えていた捻じれだったのですよね。「舞台少女である理由」を錯覚していた事が原因であるからこそ、そこに気付きさえすれば容易に「ロンド」から抜け出すことが出来る人物と言えるでしょう。

しかしひかりはそうも行きません。彼女の場合は執着(ロンド)しているものが自身のパーソナリティへと結びついているからです。先に説明した通り、劇場版では華恋との「約束」がひかりの「舞台少女である理由」へと結びついていますので、その因果関係はより強固と言えるでしょう。それはTVアニメ版でも同様に描かれていますが、「レヴューオーディションに負けた者は一番大切なものを失う」というルールに基づいて、舞台に立つために必要な「キラめき」を失ったという恰好だったのに対して、劇場版二部作を通じて見ると「諦めかけていた舞台への道を華恋が繋ぎ止めてくれた」というニュアンスで「約束」が描かれているので、「約束」は「ひかりのキラめき」であり「舞台少女である理由」という風に肉付けされているのですね。


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その為に劇場版を見た後に再生産総集編を見返すと、TVアニメ8話相当のロンドン回想とレヴューシーンはひかりの執着の喪失から「私だけの舞台」を見出すまでのプロセスだと見る事も可能です。ひかりのレヴュー第二幕「華、ひらくとき」で彼女の武器であるCaliculus BrightBlossom Brightへと変化するのも、ひかりが「約束」という執着を超えて、新たに「舞台少女としての自分」を花開かせた、と見ると劇場版以降の立ち回りは頷ける所ではありますね。ひかりのパーソナリティは愚直に「舞台」へ向き合い研鑽を重ねる姿が「約束」への執着と結びついていて、「舞台少女である理由」と一致している。TVアニメ版では「死せる舞台少女」という面が強調されていましたが、再生総集編ではその辺りのくだりが全てカットされているのもあって、「舞台少女としてのひかりの物語」はより華恋の関係性に絞られていますね。再生産総集編で描かれている事だけを見て取るならば、ひかりは華恋のキラめきを守るためには、他者のキラめきを奪って運命の舞台に立つ事を厭わないのです。そうでなかったとしても、他の舞台少女のキラめきまでを守ろうという事は少なくとも考えていない。11話相当部分の真矢の言葉を借りれば「舞台少女は何度でも甦る事ができる」わけですから、誰かに守られる必要はないんですよね。

もっとも再生産総集編の12話相当部分では4話相当部分の幼少期の回想よろしく、約束タワーブリッジで舞台を貫いた華恋の押しの強さが戯曲『スタァライト』の新章を始め、押しの弱いひかりがそのまま押し切られる格好で華恋の勝利で終わる結びになっています。


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「ふたりでひとつの物語」を標榜してきたTVアニメ版においてはこの結び方で問題ないのですが、一方で華恋の執着(ロンド)である「少女」が解消されていないというのがTVアニメ版の問題点でもあるのですよね。というより、執着を解き放つ事の出来たひかりが物語を支配する華恋の強い執着(ロンド)に引きずられて、呑み込まれてしまった、と言った方が正しいかもしれません。華恋の執着(ロンド)も彼女自身の人格形成に密接に関係しているのは言うに及ばずですが、ひかり以上に愛城華恋という人物そのものを形作る、アイデンティティの領域に根付いてしまっている事が華恋の人間像を考える上での、最大の難点だと言えます。華恋にとって「舞台少女である事」は「少女(ひかり)」の存在によって担保されていて、さらには華恋が自分自身であるために必要不可欠な要素として位置付けてしまっているのです。劇中でも語られていますが、「少女(ひかり)」という華恋の構成要素を抜き取ってしまうと、華恋自身が華恋であると示すものは何もなくなってしまう。それはTVアニメ版11話相当部分での演技を続けられなくなってしまった華恋を見ても明らかでしょう。


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華恋の強い執着(ロンド)が彼女自身のアイデンティティの領域に関わっていると考えるのは、この後の行動でそれでもひかりの事を探し続けた点にあります。キラめき(執着)を奪われたのにも関わらず、それを認めずに挙句、戯曲『スタァライト』の戯曲本から真の結末を見出して、ひかりの選んだ「運命の舞台」にまで追いかけてきてしまった。華恋が「舞台少女である事」を「少女(ひかり)」の存在ありきで求めてしまっている故に、執着という強烈な磁場が発生しているのがよく分かると思います。それはもちろん、愛城華恋がこの物語の主人公にして「主演」であることも大きく起因している点でもあり、古川監督を始めとしてスタッフや華恋を演じた小山百代さん本人にも共通の問題点として浮かび上がっていた事は劇場版パンフレットのインタビューなどからも確認できます。華恋が「スパダリ(スーパーダーリン)」と評されるのもそうですが、物語の立ち回り方が「デウス・エクス・マキナ」的である事からも、華恋自体に物語の機能以上の存在感を見出すことが出来ず、その人物像においては極めて没個性だと言えます。しかしそう言い切ってしまうのも気が引けるので、愛城華恋特有の個性が見出しづらいとしておきましょうか。

「少女(ひかり)」への執着以外の華恋の特徴というのは、言ってしまえば「典型的な主人公像」であるのは否定できないでしょう。元気いっぱいで少しおっちょこちょいで好きなことに対しては一直線、成績は中の下、など枚挙にいとまがない程度には華恋を表す「典型的」なキャラクター要素が掘り出せますね。これらの要素はいわゆるテンプレートとして汎用性高く扱われている「記号」的要素だと言えます。このように人物の外見から想像されるような特徴、つまりパーソナリティにおいて華恋の人物的な独自性を見出すのはなかなか難しいと言わざるを得ません。

外面は没個性、内面は難物。愛城華恋というこの物語の主人公は、登場人物つまりキャラクターとしての立脚点がかなり複雑である事が確認できます。言葉にして語り出すと、いとも簡単に手からすり抜けていくような難しさは言うに及ばず。主役であるにもかかわらず、もとい主役であるからこそ真っ向から考えていくと五里霧中に陥っていく。「少女☆歌劇 レヴュースタァライト 」はこの論ずるのが極めて困難な人物像を主人公に据えた作品、という他ないでしょう。それゆえに劇場版で描かれるべきなのは「愛城華恋」その人であるという事も明白なのです。

スタァライト」――それは遠い星の、ずっと昔の、遙か未来のお話。
この戯曲で舞台のキラめきを浴びた二人の少女は、運命を交換しました。
「二人でスタァに」「舞台で待ってる」

普通の楽しみ、喜びを焼き尽くして、運命を果たすために。
わずか5歳で運命を溶鉱炉に。

――危険、ですねぇ。

やがて二人は再会します。
一人は悲劇の舞台に立ち続け、もう一人は飛び入り、引き離され、飛び入り、
二人の運命を書き換えて……キラめきに満ちた新章を生みだしたのでした。

もう目を焼かれて塔から落ちた少女も、幽閉されていた少女もいません。
ならば……その新章の結末は?

スタァライト」は作者不詳の物語
キラめきはどこから来て、どこに向かうのか。
そして、この物語の『主演』は誰か。

私は、それが観たいのです。

ねぇ――聖翔音楽学園三年生、愛城華恋さん?


                    ~劇場版公式サイトよりイントロダクションを抜粋~


ここで引用したいのが劇場版公式サイトに載っているイントロダクションの文章。キリンの口調で綴られるこの文章はTVアニメ版(を経た再生産総集編)の総括を行いつつも、劇場版で繰り広げられる新たな物語を仄めかしている内容となっています。その点についてはなんら疑いの余地はないでしょう。ここで注目したいのは『(戯曲)スタァライトは作者不詳の物語』という点と『新章を生みだした』という点です。察しの良い方はこれでお気付きになるかもしれませんが、元からある戯曲『スタァライト』は作者不詳の物語である一方で新たに生み出された新章には明確に作者が存在しているのですね。

──────ですが、戯曲『スタァライト』は作者不詳。
あなたたちが終わりの続きを始めた。ならば……分かります。


(中略)


始まります、観客の望んだ『新章』の続き、舞台が求める新たな『最終章』───
ワイルドスクリーン・バロックを。


  ~再生産総集編「少女☆歌劇 レヴュースタァライト ロンド・ロンド・ロンド」より台詞抜粋~


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作者不詳の戯曲『スタァライト』に続章であるところの『新章』、つまり新たな『最終章』、ワイルドスクリーン・バロックを付け加えたのはTVアニメ最終話(また再生産総集編クライマックス)における愛城華恋その人なのです。厳密にいえば、戯曲『スタァライト』の筋を演じ切ろうとしたひかりに対して、戯曲に提示された結末を否定し、その結末に秘められている可能性に言及してしまったのが華恋、という事になります。

(華恋)
スタァライト』は必ず別れる悲劇───

でも、そうじゃなかった結末もあるはず
塔から落ちたけど、立ち上がったフローラもいるはず。
クレールに会うために! もう一度塔に登ったフローラが!


(キリン)
───終わりのない運命の舞台。
結末の続きが始まる?
運命の舞台の、再生産……!


  ~再生産総集編「少女☆歌劇 レヴュースタァライト ロンド・ロンド・ロンド」より台詞抜粋~


赤字で示した華恋の台詞こそが、TVアニメ版最終回を経て、再生産総集編が描かれ、さらに劇場版という新たな『最終章』のスタートラインであり、同時に物語の綻びを生んだ一言だったのです。戯曲『スタァライト』は作者不詳、しかし『新章』ワイルドスクリーン・バロックはまさしく華恋の生み出した物語であるとはっきりと断言できます。そして新たな『物語』を始めたことにより新たな結末に向かって、その幕を下ろす原作者としての責任を愛城華恋は図らずも背負ってしまったのです。

しかし、『新章』を生み出してしまった事によって華恋は新たな、もとい以前より持っていた問題点が顕在化する事になります。以下にブログの過去の感想を引用します。


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(なな)B組が裏方として支えて、私たちA組が歌って演じる。
99期生全員で作った私たちだけの舞台。まったく同じ舞台はもうできないのかな…。
(華恋)その舞台には私は立てないかな (略) だって舞台は生き物。同じスタァライトでもまったく同じ舞台なんてあり得ないもん (略) ここは舞台、私の舞台

~7話より台詞抜粋~


先に挙げた真矢とばななの会話と同じやりとりを華恋に投げかけると、こう返ってきます。真矢と同じ答えを言っているのも興味深い所ですが、注目したいところは「舞台は生き物」と「私の舞台」という2点。
華恋が真矢と微妙に違う点は、舞台に対する捉え方でしょう。真矢は「主役の座をかけて争い、勝ち抜くことで立てる場所」というニュアンスが強く、相手(ばなな)にもそれが強く求められていますが、華恋は「生き物」と表すことで自らが立つ「舞台」と舞台に立つ「自分」をイコールで結んでいるわけです。

だからこそ、「私の舞台」というのは華恋にとっては、今立っている場所こそが「自分の舞台」であり、なによりその舞台を演じているのは愛城華恋という一人の人間(生き物)であるという事。「舞台が生き物」であるという事は翻って、「生き物(人間=舞台少女)の生き様」こそが「舞台(演劇)」である事に他なりません。
舞台少女が立つ場所こそが「舞台」であり、その生き様こそが「演劇」である。どんな演目を舞台で演じようとも、舞台少女という「生き物」は日々進化中であるからこそ、同じ演目を演じても以前とはまったく同じにならないしあり得ない、という事なのです。


                                   ~9話感想より抜粋~


この華恋が「舞台」そのものをどう捉えているか、というTVアニメ版7話のくだりは再生産総集編では丸々省かれています。しかしここの場面で語られている事は劇場版を考えるうえで極めて重要な部分だと考えています。むしろ劇場版のテーマを見ていく上で、ここを残しておくと重複表現になってしまい、映画のテーマ軸がブレかねないほどに、真意に迫っている箇所でしょう。

ご覧いただいているように、この時点ですでに華恋が「私の舞台」に言及しているというのが、まず一点。次に自らが立つ「舞台」と舞台に立つ「自分」をイコールで結んでいる点。最後に「舞台が生き物」である事から飛躍して「生き物(人間=舞台少女)の生き様」こそが「舞台(演劇)」だと認識しているという三点です。

華恋がこの場面で語っている論法では「私の舞台」イコール「舞台少女の生き様」であり、つまりそれは「舞台(演劇)で繰り広げられる物語」こそが「私の生き様」というロジックが成立しているのがとてつもなく重要なのです。改めて、劇場版のイントロダクションなどで語られている『新章』ワイルドスクリーン・バロックに振り返ってみれば、この『新章』の作者は戯曲『スタァライト』の結末に無数の可能性を開いてしまった愛城華恋であり、同時に「ワイルドスクリーン・バロック」という新章の『主演』も愛城華恋であり、その物語が繰り広げられる「舞台(演劇)」そのものも、愛城華恋の生き様に結びついた「私だけの舞台」である事が見えてくるはずです。『新章』ワイルドスクリーン・バロック=愛城華恋の生き様=「私だけの舞台」と考える事で、初めて劇場版は「愛城華恋が自らの生き様を演じる物語」、つまりは「愛城華恋の物語」であると確認できるのですね。

ただし「愛城華恋の物語」である点においては一つ問題点があって、そこをつまびらかに指摘している作品も存在しています。昨年2020年7月にネット配信されたオンライン公演(通称:舞台#2.5)です。現在は青嵐総合芸術院シングル「Blue Anthem」の初回限定盤を購入すれば、見ることが可能ですね。ここで描かれる物語は舞台版#3の前日譚でありますが、劇場版を見る上でも示唆的な内容となっている事が窺えます。


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当ブログの再生産総集編インプレッション記事でオンライン公演の内容に触れていますので、以下に抜粋・引用します。

最上級生になる99期生たちが新入生の歓迎レクリエーションで実技演習と物語解釈を披露することとなり、物語解釈に華恋が指名された。が、ひかり以外の7人は1年時の忌まわしい記憶を思い出すこととなり……


ほとんどオンライン公演の内容になっちゃいますが、非常に重要なのは1年時の時も、次の3年時の演習も物語解釈を華恋が担当しているのです。ここでの物語解釈とは、「みんなのよく知る物語(※ここでは昔話の「桃太郎」)を独自に解釈して舞台を構築する」事。つまり華恋が脚本と舞台演出を一手に担うわけです。で、先の呟きでは案の定、華恋の物語解釈、つまりは彼女の解釈する「舞台」が神楽ひかりそのものであったために、あらぬ方向へ話が飛んでしまい、訳の分からない周囲が右往左往して、めちゃくちゃになってしまったという顛末。


ここで重要なのは赤字でも示したように実技演習であるにせよ華恋が脚本と舞台演出を行っているという点です。劇場版の内容を踏まえて考えると、このオンライン公演において描かれているのは華恋自身に「舞台」を演出する能力が皆無である事に尽きます。というより「舞台」への思い入れが強すぎて、物語を解釈する視点があまりにも主観的に過ぎる、と言った方が良いかもしれません。主観的過ぎるがゆえに「舞台」を客観視したり、俯瞰して捉えることが出来ず、「物語解釈」として扱う事となった「桃太郎」の物語がめちゃくちゃになってしまった。翻ってみれば、「定番の筋立てに対して独自の観点で舞台を展開する」事は出来ているのですが、それを演出でまとめ上げる事が出来ていないので結果、空中分解しているのですよね。「ひとりだけでは舞台を作り上げることは出来ない」を地で行っているわけです。

このオンライン公演の内容を踏まえると先に述べた通り、劇場版の物語構造は強烈に「愛城華恋の物語」である一方、劇場版で描かれる物語の舞台(演劇)かつ主演で原作者の華恋には「舞台」を演出する能力が乏しいのがすでに提示されているのですよね。もっと言えば、華恋自身の「私だけの舞台」を作り上げる為には華恋ひとりの力だけでは不可能であるという事もオンライン公演によって明らかになっているわけです。


華恋の演出能力の欠如についてはもう一つ具体例を提示しておきましょう。スマホゲーム「少女☆歌劇 レヴュースタァライト -Re LIVE-」で19年9月に開催されたイベントストーリー「広がれ宇宙!?遥かなるルネサンス。今年21年5月にもリバイバルという形で復刻されていましたが、ここで描かれる内容を見ていくとオンライン公演と同様の問題が出ている事が確認できます。


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内容をざっくり説明すると、聖翔OGたちが過去に書き上げた脚本を使って短編舞台を実技演習する「基礎演劇概論Ⅱ」。その講義を華恋・ひかり・まひるの組み合わせで行う事となり、「遥かなるルネサンス」という作品の脚本が振り分けられた。しかし、その脚本は聖翔に残された数ある脚本の中でも一、二を争うほど難物な脚本である事が分かり、途方に暮れる三人はまず「ルネサンスとは何か」という所から調べてることになった、という筋立て。


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真矢が上記画像で説明しているように「基礎演劇概論Ⅱ」は「昔の脚本を元に、内容を解釈し、演者がどのようなアプローチを取って役を演じるのかを見る講義」であるのが分かりますが、華恋たちの演じる「遥かなるルネサンス」は3世紀近くに渡るルネサンスの歴史を短い脚本の中に凝縮した難解な内容で、情報が過剰に詰め込まれている反面、ルネサンスの本質やそこに解釈すべきテーマや物語が描かれていないという厄介なホンなんですよね。三人も当然、どう演じたらいいのかと頭を抱えてしまいます。脚本に描かれているレオナルド・ダ・ヴィンチモナリザのエピソードを試しに演じても、どこが「ルネサンス」なのかが分からずじまいで、演劇としてもなにも面白くない。さあ、困った。


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そんな中、糸口を掴んだのはまひる。他のグループが脚本に対しての創意工夫を凝らす中で「ダ・ヴィンチの今までの常識に囚われない意識」に気付き、それが「ルネサンスの本質」だという事に辿り着けた。辿り着いた先がコロッケなのはこの際、色々仔細を省きますが。そこに華恋もいたく共鳴して、これこそがルネサンスと言わんばかりの勢い。そこにひかりも同意して、「今までの常識に囚われず、新しい発想を模索する事=ルネサンス」と位置付けて、短編舞台を演じる方向性が定まったのでした。

以上の事からも分かるように、この「基礎演劇概論Ⅱ」のエピソードで課題となった難解な脚本の物語解釈をしているのは華恋ではなくまひるなんですよね。脚本に描かれている内容を汲んで、そこから演じられる物語と演技の取っ掛かりをまひるは掴んでいるのです。オンライン公演での華恋と比べるべくもなく、課題脚本の物語解釈にしっかりと客観を持って、その中で自分をどう演じるのかまでを確認できているように思えます。まひるの気付きを得て、はじめて華恋も「ルネサンス」がどういうものであるかを実感できたのですね。ひかりと一緒に戯曲『スタァライト』の舞台に立つ事以外に舞台少女としての生きがいを感じられない華恋にとっては、それ以外の舞台のインプットを自分で行えないのだと思います。誰かの手助けがあって、作品や脚本にあるテーマや物語意図を掴めるようになる。恐らく華恋って演技指導がしっかりしていると、その通りに演じる事の出来る技量はある一方で自分の内からそれを見出すことには長けていないんじゃないかと。それは同時に自分を客観視できていないという事を意味してて、オンライン公演の物語解釈がひどく主観的なものとなっている原因なのでしょう。

しかし一方で、華恋にはこんな評価も出ている事にも着目しておきたいです。以下も、上記の引用と同じく出典は「少女☆歌劇 レヴュースタァライト -Re LIVE-」からです。


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本番の実技演習では全グループ中最下位の成績ではあったものの、舞台創造科であるB組からは華恋たちの短編舞台は高く評価されているのですね。しかも「脚本を再構築して、テーマを浮き彫りにする」というポイントで評価されている。このB組の高評価はTVアニメ版最終回で戯曲『スタァライト』の結末を覆した、華恋の演技への評価にも見て取れます。もちろん舞台創造科の生徒たちがあのレヴューオーディションを見ているわけもないのですが、少なくとも華恋の演技力にはそういう力があるというのがこの評価からも分かります。オンライン公演での「定番の筋立てに対して独自の観点で舞台を展開する」事が「遥かなるルネサンス*3」においては、ある程度成功しているわけですね。恐らくそれは物語(脚本)を解釈する人間(まひる)が別にいたから、その物語解釈を導線にさらに華恋の演技力によって、難解な脚本からテーマを浮かび上がらせることが出来た結果なのだと思います。ゆえに華恋は合点がいっている作品や物語に対しては、その演技力を持って、即興的に自分の思い描いている筋書きへと手繰り寄せる事が可能な舞台少女だと言えます。お膳立てがしっかりしていると、そこからプラスアルファして、作品の込められたテーマやメッセージを発展させてしまう事に長けているのは、TVアニメ版最終回を見ての通りでしょう。またTVアニメ版3話相当部分の真矢とのレヴューで全く歯が立たなかったのも、真矢と華恋の役者特性が対極だったから、だと言えそうです*4

ここまで語ってきた中で、愛城華恋という舞台少女の特性を美点欠点、その両方をつまびらかにしてきました。分かった事といえば華恋はどこまでも役者・演者であって、舞台の演出家ではない、というただそれだけの事なのです。しかし、そんな舞台少女が戯曲『スタァライト』の結末の「その先」を生み出してしまった。『新章』の扉が開いてしまったからには、物語を閉じなくてはならない。しかし、先に語ったように愛城華恋には物語を演出する能力はないに等しい。華恋の作り出した、そして主演する『新章』、つまりワイルドスクリーンバロックを完成させるには演出家が必要不可欠なのです。そんな役割を担うことが出来る者はレヴューオーディションに参加した舞台少女の中にただ一人です。


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大場なな

彼女を置いて他にいません。再生産総集編の新規パートは全てこれから始まる劇場版の舞台裏であり、その演出家であるななが劇場版のお膳立てとして、TVアニメ版の再生産をロンドし続けていたというのが事の顛末なのでしょう。恐らくTVアニメ版でのロンドとは違う、「愛城華恋の物語」を結ぶためのロンドを繰り返していたと考えられてます。そのロンドの先に見えたのが「舞台少女(=華恋)の死」であり、同時に「舞台(=ワイルドスクリーンバロック=愛城華恋の生き様=「私だけの舞台」)の死」でもあるのですね。演出家であるななはさっそく方策を講じます。


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「華恋(舞台少女)の死」を防ぐために、TVアニメ版最終回での「そうじゃなかった結末もあるはず」という華恋の即興的な飛躍を逆手にとって、「星摘みの塔に閉じ込められたままのクレール」ではなく「星摘みの塔を自ら下り、フローラに会いに行ったクレール」をひかりに演じさせることで、華恋の「少女」への執着を断ち切ろうとしたのです。同時に「必ず別れる悲劇」である戯曲『スタァライト』本来の筋立てへと軌道修正した上で、華恋によって舞台が引っ張られてしまう事に歯止めをかけている。これはTVアニメ版最終回や舞台#2へのルートに向かう事を意図して回避させる為に仕掛けた、演出ではないでしょうか。

つまり「愛城華恋の物語」を全うするためにはすでに結論の見えている、TVアニメ版最終話ではいけないわけです。「少女」への執着を断たれない限り、舞台少女「愛城華恋」自身の物語は始まらないのですから。その為に、ひかりに「星摘みの塔を下りたクレール」の演技をななは要求した。……というのは筆者の想像でしかありませんが、再生産総集編での一連の新規パートを眺める限りでは、新規作画部分のラストパートでなながひかりを待っていた事とエピローグのヒキでひかりが「私たちはもう舞台の上」と言い放つ間に、ななとなにかしらのやり取りがあったと推察するのは難しくないでしょう。さらに「私たちはもう舞台の上」と最初に言い出したのは、再生産総集編でのななである事からも、彼女が劇場版、というより『新章』ワイルドスクリーンバロックのカギを握る存在であるのも明らかです。これは「舞台である」事にいち早く気付いた、ななだからこそ「愛城華恋の物語」を俯瞰できているし、「舞台」の中にその身を置いた時に演じる「役割」も自覚できている。劇場版における「ななの役目」は舞台の外と内にそれぞれあって、彼女は進んでその役目を果たそうとしているのです。

ななの役目については次項以降に説明を譲りますが、(作中においてはななが仕掛けただろう)劇場版アバンタイトルの演出によって、華恋に今までにない「変化」が訪れる事となります。それこそが劇場版における最初のクライマックスポイントだと筆者は認識しています。


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101期生(新一年生)に実技演習のお手本として、純那と一緒に「遥かなるエルドラド」の演技を披露してみせるシーンですね。純那演じる主人公サルヴァトーレに対して、華恋はその友人役であるアレハンドロを演じています。祖国イスパニアを離れ、大海原へと旅立とうとするサルヴァトーレを、アレハンドロは引き止めるよう説得するが彼は意に介さず、まだ見ぬ冒険の旅に胸躍らせる場面を二人で演じています。ここのシークエンスはTVアニメ版第1話、ひいては第2話での華恋と純那のレヴューオーディションのリフレインであるのと同時に、劇場版のアバンタイトル以降に繰り広げられる99期生の進路面談がオーバーラップされていて、華恋のみ進路希望用紙を白紙のまま提出している事が分かる場面ですが、アレハンドロのセリフ自体が華恋の心情表現と結びついていて、白紙提出した理由となって表現されている所でもありますね。

ワイルドスクリーンバロックの前段階として、アバンタイトルで描かれた「ひかりとの別離」を経た華恋が「(サルヴァトーレとひかりを重ねて)置いていかれる私はどうなってしまうのか」*5と嘆き「友よ」と哀しみに暮れるその一連の演技は真に迫っていたのか、見ていた101期生の涙を誘い、華恋に拍手喝采を浴びせます。当の本人はそれに気付くと戸惑いながらも苦笑い、という描写。

この喝采を浴びる華恋、というのが極めて重要なのです。ここだけ明確にTVアニメ版、ひいては再生産総集編とは一線を画す描写だという事はお分かりでしょうか。


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「ひかりとの別離」を経験した華恋がTVアニメ版、再生産総集編ではどうなったか。先の説明でも触れましたが、結果としてひかりにキラめきを奪われて、舞台を、演技を続ける事への情熱を失ってしまった様子が描かれていましたね。しかし劇場版は「ひかりとの別離」に左右されずに、実技演習での「遥かなるエルドラド」のアレハンドロを見事に演じ切って*6101期生たちを魅了しているんですよ……! これは極めてドラスティックな変化だと言えます。アバンタイトルで仕掛けた『演出』は、華恋から「少女」に対する強い執着を切り離す事に成功している。ひかりへの執着以上に、華恋自身が舞台少女として積み上げてきた研鑽によって、自らを輝かせている姿をここに見ることが出来ますね。このワンシーンは作中最重要描写だと筆者は断言します。

問題があるとすれば、この時点で華恋自身がその事に全くの無自覚であるという事です。舞台少女として積み上げてきたものに対して、それを生かす場所がどこなのか。つまり「私だけの舞台」はどこにあるのか。舞台少女・愛城華恋は劇場版を通じて問われていく事となります。

しかし、ここまで説明してきた通り、華恋は自分を客観視する事ができない、ひいては自分の内面にある本心を引き出す事に長けていないという難点を抱えています。つまり自己演出が上手くないわけです。さらには劇場版は「舞台(=ワイルドスクリーンバロック=愛城華恋の生き様=「私だけの舞台」)」である事から華恋には舞台を終わらせる責任がありますが、舞台を演出する能力は皆無な以上、ひとりだけでは舞台を作り上げることは出来ないのは間違いないでしょう。そう考えていくと、この劇場版の描こうとしている「愛城華恋(舞台少女)の物語」はどのように描かれていくのかが見えてくるでしょう。

次項はそこに触れながら、さらに物語を掘り下げていこうと思います。


以下、第二幕へ……!

*1:当然ながら21年6月4日朝イチの回を鑑賞。そこから2か月と20日か……。その後初日と合わせて計5回ほど鑑賞してます

*2:書いている間に動画が非公開に。書くのが遅いからだ

*3:ちなみにルネサンス「再生」や「復活」を意味するフランス語

*4:真矢の方は見ている感じ、『ガラスの仮面』よろしく「千の仮面」を持って役者同士が演技を高めあい、筋立て通り舞台を演じ切る事に重きを置いてそう

*5:意訳です

*6:しかも主役のサルヴァトーレを演じていたはずの純那を食って