初めに。

ここは私ことテリー・ライスが主に漫画や音楽やアニメや小説、映画などの感想を好きに語るブログです。
あくまで個人の感想である事にご留意よろしくお願いします。


サイト名のIn Jazzとは音楽ジャンルのジャズではなく、俗語の意として「熱狂」とか「たわごと」の意です。
好きなことを語れたらいいなあという思いを込めて。
更新はかなりの不定期になってますが気が向いたら、書く方向になると思います。


※2019/1/1追記
はてなダイアリーの2019年春サービス終了に伴い、はてなブログに移行しました。
移行するにあたって、ブログの看板名も少し模様替えして、「What's Going On」を付け加えています。マーヴィン・ゲイのアルバムタイトルからの引用ですが、そんなに問題提起するつもりではなくなんとなくノリです、ノリ。まあ、「自らの熱狂の中で何が起こっているのか」みたいな感じで、これからも変わらずマイペースに行きたいと思いますのでよろしくお願いいたします。


それとtwitterでもつぶやいてます。なんだかこっちがメインっぽくなってますが。
テリー・ライス (@terry_rice88) | Twitter

斉木久美子『かげきしょうじょ!!』~ポスト『少女革命ウテナ』・『トップをねらえ2!』の物語~

f:id:terry-rice:20190820111311j:plain


なんというか。
急に話題になってしまったので、遅きに失してるかもしれないけど、自分で書きたいことは先んじて書いておく。


先日、一作の漫画がTwitterのTL上でにわかに話題になった。
その名を『かげきしょうじょ!!』(作:斉木久美子)
宝塚歌劇宝塚音楽学校をモチーフに、トップスターを目指して入学してきた「歌劇少女」たちの青春の日々を描いた長編作品。


筆者は4年前、ちょうど「!!」(※あとで後述)の1巻が出た際に思いがけず表紙買いをして、のめり込んで以来、どっぷりと掲載誌である月刊メロディを定期購読して、最新話まで追っかける&作者、斉木久美子先生の全作品を購入するまでに至ってるわけですが、まあそれはともかく。
個人的に言わせてもらえば、漫画の面白さとしてはここ5年間の中でも不動のトップを走り続けている作品なので、今頃話題になっているのが不思議なくらいですよ。まあ、あんまりにも面白すぎて、筆者としては「人には知られたくない」と思いましたし、むしろ周囲に振り回されずに作品を描き切って欲しいなとも感じてたので、今までわざわざ声高に言ってこなかったんですけど、話題になってしまったのだから仕方ない。


筆者が「かげきしょうじょ!!」で語りたいことは記事タイトルにも書いたとおりです。
ついに現れたとも過言ではない、ポスト「ウテナ」「トップ2」作品であることです。このポストウテナ、ポストトップ2の意味するところは、翻って幾原邦彦監督、脚本家の榎戸洋司さんを意識するところであるのですが、個人的には近年の両氏の手掛けた作品には満足がいってない、というか時代の役目を終えて、作風の熟成があってもいいはずなのにそこで足踏みしてるという悩ましい状況が続いているように感じていた矢先に、この「かげきしょうじょ!!」が両氏の描いたものの先を描いてくれていて、これがあったからこそ個人的には近年の創作を楽しめた、という感じの作品です。一昨年から現在もなお筆者が追いかけ続けている、アニメと舞台演劇のメディアミックス作品「少女☆歌劇レヴュースタァライトとは同工異曲といいますか、むしろ同作品を内包して物語の筆致的にはさらに上を行った作品でもあるのです。


というかですね、「かげきしょうじょ!!」読んでいると、



と、思ってしまう箇所があちこちに出てくるのですよ…!!
本当にそうかはわかりませんが、かなり端々にその影響があるように思うのですよ。そもそも「宝塚」だし? だから知っている人が読むと、幾原・榎戸成分をオマージュとしてふんだんに溶け込ませている上で、なおかつ「かげきしょうじょ!!」という作品へと昇華しているのが本当に凄まじい。なにが凄いかって、単行本でまとめて読んでも十二分に面白いんですが、最新話を読む度にこちらの期待をさらに上回る出来を繰り出してきてて、真面目にヤバい。例えると今のところ打席に立てば、必ずホームランを打っている状態、株価で言えば毎回最高値を更新してるストップ高、昇り調子が止まらない感じ、読んでいて圧倒的な感謝しか出てこない作品です。


もうここまで話題に上がってしまっている以上、注目されてしまうのは致し方ないので個人的にこの作品に感じていることをざっと書いてしまって、作品紹介とともにその面白さを感じていただければな、と。


ここから先、ネタバレに近い話をバシバシ飛ばすので、それが気になる人は原作を読んでからご閲覧ください。前述したように幾原・榎戸作品が好きな人には漏れなくぶっ刺さる作品なので、それらが好きな方には損をさせない作品だということは筆者が保証いたします。 


なお以下より、「かげきしょうじょ!!」の画像は全て、単行本及び雑誌掲載時の切り抜きより引用しています。

続きを読む

音楽鑑賞履歴(2019年7月) No.1333

月一恒例の音楽鑑賞履歴。
また、というか色々あったせいもあって、1枚のみの履歴です。なるべく数は聞きたいんですけどね。夏に差し掛かるとイベントなども多いので、必然的に聞く機会も少なくなるのは悩ましいところです。今年も暑くなりそうですが、何とか対応していきたいですね。
というわけで以下より感想です。


Magic & Medicine

Magic & Medicine

・03年発表2nd。前作の狂騒的な響きは鳴りを潜めた反面、音楽性の奥行きを深めた印象のある一作。前回が幽霊船がやってきそうな霧の濃い港町の印象だったが、本作は一転して、鬱蒼とした森で繰り広げられる幻想といった趣を感じる。猥雑だった音もより整理されて、繊細さを増した枯れた味わい
内容はとてもフォーク&トラッドで渋く侘びたテイストだが、前作で見せたサイケさや神秘性が練り込まれており、一曲ごとに、妙に引っかかりのある音を聞こえてくる辺り、挑戦的、あるいは若さが滲み出ているのが興味深い。とてもレトロだが、演奏の勢いは血気盛んな印象も感じられる。
当時のメンバーの年齢を考えると、びっくりするぐらい若いので、その辺りの溌剌さがサウンドにも出ていて、洗練する一方で、その才気が充実していることも証明しているような名盤だと思う。改めて聞くと一つのピークに到達した感もある、アンファンテリブルな一枚だろう。

次の「永遠」を手に入れるために-『天気の子』にまつわるエッセイ-

それもまた、伝説に過ぎない──既に消えた街、かつてあった街のひとつに過ぎないのだ。
恩田陸『EPITAPH東京』より~


今、改めて「東京」が見つめ直されている。漠然とした印象ではあるが、ここ1、2年の創作業界のトレンドとして再び「東京」がフォーカスされるようになってきているように思う。今年のNHK大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺~」なども、現代に繋がっていく東京を「再定義」する要素を多分に含んだ物語として非常にクリティカルな作品だろう。

さて、そんな中で「天気の子」である。

大ヒットした前作「君の名は。」より三年──元号も「令和」に変わった2019年の日本。そういった現状にまだ実感は持てないままだが、時代の変わり目という過渡期の目まぐるしい変化の中で新海誠監督の新作はなにと向き合って、「東京」を見たのか。



新海監督の作品モチーフとして「東京」は重要なファクターのひとつだろう。こと直近の二作、「言の葉の庭」「君の名は。」と本作においては新宿周りを中心とした「都会」「都市」としての東京がつぶさに描かれている。描き方の違いはあれど、それぞれ公開当時の「東京」が提示されているし、「天気の子」も同様に2019年の東京が記憶される映画になっていくのだろうと思う。




「天気の子」は東京に転がり込んできた家出少年の帆高と天に祈る事で空を晴れにしてしまう少女、陽菜の物語だ。本来あるべき、親の支えを期待できない境遇に陥った少年と少女が「東京」という都市の中で喘ぎ、お互いに「生きる理由」や「自分の居場所」を見つける、一見ストレートな内容だとも言える。
だが「東京」と「ボーイ・ミーツ・ガール」、この日本の映画にありがちな二つのモチーフを取りながら、新海監督自身が語るように「物語のセオリーから外れた(かもしれない)物語」が展開されていく。個人的にはセオリーが外れているというよりかは、映画の三幕構成(設定 、対立 、解決) に極めて忠実な作品、という印象を持つ。マナーに忠実でありながらも、セオリーに外れているとすれば、それはキャラクターの行動やこの映画で見せる「東京」の表情にあてはまるのだろう。

都市というのは、無数の煩悩を呑み込んでくれ、ただの無名の胃袋になってしまえる、ありがたい場所なのだ。

ここはお菓子の街。お菓子の家。けれど、その中には爆弾が仕掛けられている。あるいはゆっくりと回る毒が仕込んである。誰もが東京の毒にあたることを望み、同時に望んでいない。
愛おしき毒。習慣性のある毒。それがこの街だ。

~以上、恩田陸『EPITAPH東京』より~


先ほどから引用している文章であるが、筆者はたまたま恩田陸『EPITAPH東京』を「天気の子」の鑑賞前に読み終わったのもあり、この小説に描かれる「東京」を「天気の子」とどことなく重ね合わせている。『EPITAPH東京』は2015年の刊行であるが、「天気の子」と通じているように感じる。
それは「東京」についての物語であるということに他ならないわけであるが、どちらにも根底としてるのは、「東京」へのペシミズムだろうと思われる。同時に愛憎相半ばするトーンも滲み出ているのも一緒だ。
『EPITAPH東京』は脚本家である筆者Kと彼が出会った、吉屋という自称吸血鬼の男の、二人のモノローグから浮き彫りになっていく「東京」という都市の姿が綴られる。
題名にもなっている「EPITAPH東京」はKが構想を練る新作舞台の脚本で、その舞台の場面なども作中に挿入されているが、筆者Kは自らの手がける「エピタフ東京」を以下のように形容する。

「エピタフ東京」は、小文字で語られる東京の物語なのだ。
たとえばそれはひと壜のお酢を探す話かもしれないし、ひと壜のお酢も手に入れられない話かもしれない。


この前段で「『エピタフ東京』は大上段にかまえて(歴史を)語るような大文字の物語ではない」(意訳)とも語る。大文字と小文字。砕いていってしまえば、マクロとミクロの物語であり、筆者Kは「エピタフ東京」をミクロの物語であると認識している。それはつまりどういうことのなのか。

確かに『エピタフ東京』に家族の物語は含まれているのだろうが、そこまで母と子というテーマに重いテーマを持たせるつもりはない。小文字で語られる物語であるが、陰の主人公は東京なのだ。


(中略)


大都市東京が何十年もの時間をかけて解体してきたのも、家族であったり、地域であったり、共同体だったりするのだから。


つまり筆者Kの作中においてイメージ(それは同時に作者、恩田陸のものでもあるのだが)する「東京」はこういうことである。あらゆる繋がりが解体され、しかし先の引用にあるように無数の煩悩を呑み込む都市として、爆弾や常習性が認められる毒が仕込まれた街でもある。
この「東京」にまつわるイメージは「天気の子」も適用されるものだ。というより、新海監督はこの目線で本作を仕立て上げたとも言っていい。




「天気の子」では何らかの理由で家出をした少年、帆高があらゆる煩悩を呑み込む都市に翻弄される中で、必死で繋がりを求める作品といっても過言ではないし、それは同様に本作のヒロインである陽菜にも当てはまるだろう。
「東京」という都市機能の中で、家族、地域、共同体からも分断された少年少女を語った「小文字の物語」であり、そこから写し取られる2019年現在の東京の姿がクローズアップもされている。少年少女の物語でありながら、これは「東京」の物語でもある。そしてその「東京」の上空を渦巻く「天気」を描いた作品でもあるのだ。
作品に描かれる「天気」の解釈はさまざまあるかと思う。そもそも「天気」というものが移ろいやすいものであり、気象予報士が天気予測をしても外れる場合も十分ある、抗えない自然の摂理なのだが、本作においては人々の「気分」に直結している。それは翻って、舞台となっている「東京」という都市と社会の「気分」でもあり、当然のように帆高と陽菜の「気分」にも密接に関係するものだ。「天気」という曖昧なものだからこそ、作品における意味はボカされているのも確かなのだが、人は雨が降って憂鬱になったり、空が晴れて文字通りの晴やかな心地になったりもする。天候によってその「気分」は操られ、鑑賞している我々も含めて、映像に映し出されるイメージに支配されてしまう。「天気」という題材をとることで、登場人物や観客の「曖昧」な気分を掴む事に成功しているのは新海監督の鋭い一手だろう。
先の引用画像の通り、「雨が降り止まない東京」が作品の舞台だ。この雨が降り止まない事が最も注目すべき点で、この雨はダイレクトに「少年少女」と「東京」に掛かっている。それはもちろん現代日本のメタファーとして機能してもいるし、帆高や陽菜の見えない心の奥底に流れるものとしても機能しているのだろうが、なによりこの作品では「雨」と「晴れ」の構図が反転している事に尽きる。環境の状況として、雨が通常の状態で、晴れが稀な状態であるという天候が逆位相の状態であることに、帆高と陽菜をはじめとして、作品世界の人々はその状況に慣れ切ってしまっている。それゆえに陽菜が「100%の晴れ女」として稀事を操る存在として機能しているのは、観客から見れば奇異な状態にも見えるのだ。





「雨降る日常」が正常で、「晴れる」事が異常のように描かれている(見える)この作品の特異さは、帆高と陽菜の関係性が作中の「東京」の状態にそのまま結びついているからだろう。「東京」という都市の異常な状況と、帆高と陽菜がその「街」で置かれている境遇はどちらも歪んだものだと言える。というよりこの少年少女たちは都市、あるいは社会の歪みに陥ったために出会うことの出来た二人であり、「ボーイ・ミーツ・ガール」の物語としても位相を逆にしている。彼らは出会う事によって何かを得て成長するのではなく、出会った事で自分の「在る意味」がようやく見出せる所に物語が着地しているので、それが間違いであるか正しいどうかかはあまり関係がない。

地震に台風、空襲に組織犯罪など、幾多の災厄に見舞われてきた東京は、常に破壊の予感があり、廃墟に対するデジャ・ビュがある。日本人にとって、スクリーンの中の破壊は、「いつか見た光景」であり「いつか見る光景」なのだ

東京は、消しゴムをかけるようにいつも表面をごしごし削られ、常に更新され続けている。今この時、この地に存在したと自分で思っていても、実は足元や肩あたりからもう消されているのではないか。既にもうここにはいないのではないか──
消せるボールペン。シールはがし。つまりは消してしまいたいのだ。前に貼ってあったラベルの黒ずんだ切れ端や、書き損じた文字はなかったことにしたい。いつもまっさらで、リセットされた──あるいは上書きされた──世界でいたい。


物語の終盤に主要人物の一人でもある中年男性、須賀圭介が変わり果てた東京を指して、「世界は最初から狂っているんだよ」と発するが、それは翻ってみると、この作品における彼らや東京の「異常さ」を正当化する言葉でもある。しかし一方で『EPITAPH東京』で言及されるように、「東京」は常に破壊の予感がある都市であり、フィクションにおけるその破壊描写は「いつか見たor見る光景」であり、そういった更新の上に成り立っている「街」であると評されている。
それを汲んで考えれば、帆高の「陽菜を取り戻したい」という終盤の行動と決断は「世界(東京)を救う」という行為から完全に逆らっているし、自らの中にある「正しさ(それが狂気であっても)」を押し通した結果であるのだけど、それが「東京」という街そのものには影響を及ぼせていない。

東京は、常に誰かがどこかを「掃除」している。ただの現状維持のみならず、存在していたものの痕跡を消し、平らに均そうとする力が働いているのだ。だから、再開発されたところなど、それまでの土地の記憶を根こそぎむしり取るような、暴力的といっていいほどの殺菌消毒された「クリーン」な気配が漂う。


(中略)


それは、日本画と同じだ。日本の絵は瞬間を切り取ったものではなく、移り変わっていく時間そのものを描いている。瞬間ならば、その時刻の光が描かれその光が作る影も写し取らなければならないが、流れ続けている時間全体を描くのであれば、影は意味がない。
日本画は、この景色を写し取っていたのだ。影も暗がりもなく、限りなく二次元のアニメに近づいていくこの世界を。


この東京の暴力的なまでの「クリーン」な気配、日本画の移り変わっていく時を写し取る特徴からも分かるように、「天気の子」というアニメ映画もまた描かれる「東京」という街の淡々と移り変わる様を活写したに過ぎない。アニメという媒体で美しく切り取られ、平らに均された「東京」を。帆高は自らの煩悩を都市から奪い取って呑み込むことで、陽菜を救ったのかもしれないが、依然として「東京」という街は抗い難く残り、変容し続けている。年端も行かない少年少女に「東京」という都市の存在を塗り替えることは出来ないのだ。

あの夏の日──あの空の上で僕たちは世界の形を決定的に変えてしまったんだ。


作中では帆高がモノローグでこのように語っているが、この「世界の形」というのは僕たちに掛かっているので、どちらかと言えば帆高や陽菜から見えている世界が「変わった」だけに過ぎない。須賀の「世界は最初から狂っているんだよ」という言葉や、あるいは『EPITAPH東京』が語る「更新され続けていく東京」というのを見ると、帆高たちが「世界を変えてしまった」のとは無関係に、「東京」が変化する岐路に立っていたという方が正しいように思えてくるのだ。

今経験している都市が(都市というのは、体験と言い換え可能な気がする)、過去となっていく瞬間を常に目撃していて、東京がやがて経験する未来から過去を回想しているところに居合わせているような、めまぐるしく時間が逆向きに流れていくような、奇妙な感覚だ。
東京では、いつも過去と未来が激しく戦っている、居残ろう、存在を主張しようと、土地に爪を立てて痕を残そうと踏ん張る過去に対し、未来は常に先へ先へと進もうと、過去の痕跡を完膚なきまでに消し去ろうとする。そのスピードは一定ではなく、時にゆるやかであり、時にエネルギッシュである。加速と減速、あるいは停滞の時期もある。今はまた「巻き」に入っている時期なのではないか


2020年の東京オリンピックを前にして、おそらく「東京」は変化の岐路に立っている。範囲を拡大すれば、日本全体や全世界がそうなのかもしれない。2010年代の終わりに「天気の子」で描かれた「都市の変化」は過去と未来がせめぎあった末の「巻き」の時期が誇張されて表現された結果なのだろう。その点においては新海監督にとっても「天気の子」は「過渡期」を上手に捉えた作品なのかもしれない。
かつてないスピード感で世界や日常が変わり行く中で「東京」はどのような過渡期を経るのか。またその先にある「東京」はどんな未来を経験させてくれるのか。何が待っていようとも、大都市東京は平然と存在し続け、人の織り成す無数の煩悩をこれからも呑み込んでいく街であり続けるのだろう。

街は生き物だ。栄枯盛衰があり、歴史がある。


つまり「東京」は生き物であるのだ。成長もすれば衰退もする、時代を経て変化もする。それは帆高たちが関わらなくても、訪れた変化なのかもしれない。しかし、「東京」に人がいる限り、歴史は連なり、街は息づいていく。

「絵本」や「童話」のしめくくりで、『いつまでも幸せに暮らしました』っていう文章がありますよね、あれがどうにも気持ち悪くて」
「なんで?」
「だって、矛盾しているでしょう。『いつまでも』は『永遠に』ということなのに、『暮らしました』は過去形。永遠が終わってる。矛盾してるじゃないですか」

街は永遠だが(たぶん)、そこに構成する個々の人々はそれぞれの人生をまっとうし、完結している。
「だけど『幸せ』かどうかは分からないんじゃない?」
筆者が異議を唱えると、吉屋はゆるゆると首を振った。
「概ね幸せなんじゃないですか。そもそも、人生に優劣なんかないんだから、まっとうできたってことは幸せですよ」


『いつまでも幸せに暮らしました』という決まり文句。しかし、人が息づいている以上、「街」に終わりなどは来ない。しかし『EPTAPH東京』でも語られるように、街の中では人がその生をまっとうする。もし永遠という言葉で「都市」が取り繕われるのであれば、「天気の子」で描かれた「2019年の東京」という過渡期はそれと強く結び付けられるはずだ。


『エピタフ東京』も、考えてみれば都市と女子の話でもあるのだ。


結局、「天気の子」は何を描いていたのか。『EPITAPH東京』で筆者Kは自身の手がける作品に対して、上のように語っている。とどのつまり「天気の子」も同じことなのだ。残念ながら作中では「エピタフ東京」という舞台の全容は明らかにされていないが、「天気の子」は「東京」と「陽菜」という不釣合いな天秤によって秤を掛け、帆高に選択させた物語だろう。それこそきわめてクラシカルな「大文字」の物語構造にもかかわらず、帆高は陽菜という「小文字」を選択した。その捩れた構図をもしかしたら新海監督は「物語のセオリーを外した(かもしれない)物語」と表現したのかもしれない。
その意味では本作は「東京」を描いているのにも拘らず、帆高と陽菜のパーソナルスペースに終始した物語でしかない。前々作の「言の葉の庭」におけるタカオとユキノの間に生まれたものよりもさらに範囲の拡大した、「都市」という広すぎるパーソナルスペースにおける「少年少女」の物語だったのではないか、とこの記事を書きつつ、認識し始めている。
しかし帆高が陽菜を選んだところで、東京という「大文字」はビクともしない。それどころか極端に「更新された」結果、次の永遠に向かったようにも見える。人智の及ばない生き物としての「東京」は、少なくとも「天気の子」の作内において未来に向けての歩みを加速している。

次の永遠を手に入れるため──我々と、その人々に。


では、現実はどうであるか。これから100年先に「東京」は存在し続けているのか。それは誰にも分からない。ただ新海監督はそういった時代の「過渡期」にある「東京」を舞台に描くことで、攻めの姿勢を見せた。だから「大丈夫」という言葉は帆高が自分と陽菜の行く末を込めた以上に、「東京」という都市に対する「保障」であるのかなとも感じた。

次の永遠を手に入れるために。

空が晴れて欲しいと、願うばかりである。


EPITAPH東京 (朝日文庫)

EPITAPH東京 (朝日文庫)

*1

*1:引用文はほぼ全て恩田陸「EPITAPH東京」より抜粋

音楽鑑賞履歴(2019年6月) No.1327~1332

月一恒例の音楽鑑賞履歴。
6枚。
今回はPhoenix特集ですね。一応、デビュー時から知ってるバンドですが、ある時期から離れてしまったのでじっくり聞くのは初めて。おととし出た新作もばっちり買ってあります。聞けるのはいつになるかわかりませんが。
それはそうと、世間は梅雨入りして、じめついた天気が続いています。聴く音楽もなにかしらアンニュイなものを聞いてしまいがちですね。夏の晴れやかな陽気が早く来るといいのですが、来たら来たで今度は暑さに滅入る日々が続きそうなのもあって、どっちがいいんだろうと思わなくも。季節の趣を感じられるのはいいことではありますが。
というわけで以下より感想です。


イッツ・ネヴァー・ビーン・ライク・ザット

イッツ・ネヴァー・ビーン・ライク・ザット

06年発表3rd。垢抜けた印象のあるアルバムで一皮剥けたサウンドを提示している。前作のシックな印象から一転して、ポップな華やかさが映える内容となっており、よりギターポップらしい感触に傾倒している。1stで見られたごった煮感も整理され、洗練されている印象が強く残る。
ギターが前面に出ていることからも、インディロックっぽさが強くなっているとも言えるし、ギターの重層的な重ね方はストロークス辺りを髣髴とさせるアートスクール系のギターポップといった趣。確実に違うのはリゾート的な優雅というかフランスのお国柄らしい、エレガントな感覚が漂っている事か。
楽曲にせよ淡くカラフルな印象もあり、柔らかさと儚く溶ける砂糖菓子のようなポップネスが特徴で、洒脱したサウンドが鳴り響いている。前作、前々作を踏まえて、バンドサウンドを洗練させた結果、音楽性が確立された大躍進の一枚ではないかと思う。37分というコンパクトな内容も聞きやすい一枚。


Architecture

Architecture

81年発表3rd。一般に「エノラ・ゲイの悲劇」のヒットで知られるエレポップユニットだが、その彼らがスターダムに上った後に送り出した作品。ポップさを抑えて、自身の音楽性を表出させており、アーティスティックな一面を覗かせている。クラフトワークフォロワーの彼らが一歩踏み出した音を繰り広げる
リリカルな退廃美を押し出しており、その辺は同時代のニューロマンティックスらしい耽美な趣を感じさせる内容となっている。長尺曲などにも挑戦しており、セールス的に成功したことに安住しない攻めの姿勢が窺えるのも頼もしい。そういう点では一番華がある時に躊躇うことなく、音楽志向を追求した作品だ
翳りのあるサウンドではあるが、シンセサウンドの煌びやかさが一種の神々しさを帯びてもおり、ゴシック的なサウンドである一方で、宗教的な清新さや爽やかさが残る。他のエレポップユニットも一線を画す、メロディアスな叙情が実験精神の高さとともに結実した傑作だろう。その陶酔美に浸っていたい。


Wolfgang Amadeus Phoenix

Wolfgang Amadeus Phoenix

09年発表4th。初の自主レーベルからのリリースにして2010年の第52回グラミー賞でベスト・オルタナティヴ・ミュージック・アルバムを受賞した作品。事実、今までの彼らの集大成的なアルバムといっても過言ではない内容で、最高傑作というに相応しいものとなっている。
1stのインディーロックらしいキッチュさ、2ndの緻密な構築性、3rdのエネルギッシュな勢いがすべて統合され、バンドサウンドとしてロックとエレクトロの融合が最良の形としてポップミュージックに昇華されている。前作から感じさせているストロークスっぽいアートスクール系ギターロックもうまく咀嚼。
盤を重ねるごとにバンドサウンドの洗練と拡張を積み上げていった結果、最良の形で送り出すことに成功しているだけでも凄いが、一見わかりやすくポップに仕立てられているメロディが非常に奥行きのあるものであることも見逃せない。ミルフィーユのように丹念に織り込まれたメロディがとてもキャッチーだ
日本盤には4曲ほどボーナストラックとしてホーム・デモが収録されているが、これが人の演奏かと思うほど、どう演奏しているのかが分からなくて驚いた。そういう点からもバンドマジックとバンドのピークタイムが合致した幸福な一枚という印象か。1stから追いかけている人間には感慨深い作品だろう。


Bankrupt!

Bankrupt!

13年発表5th。グラミー賞受賞後の一作。彼らにとっては新境地を押し出した内容となっており、これまでの綿密に構築させたポップミュージックを当時のEDMブームの隆盛に伴って、フロア仕様に仕立てた一枚だろうと思う。一曲目から音圧高めの高低音のメリハリがバリバリに利いた音と化している。
今までの編み込まれたソフトなメロディを主体としていたバンドサウンドが、シンセのどギツいヴィヴィットな色彩によって豹変しているため、従来のサウンドを期待しているとはっきりと好き嫌いが分かれる内容と言える。実際、メロディよりドラムを初めとしたビートの起伏が強調されているのが目を引く。
もともとエレクトロなサウンドとバンドサウンドの融合を特色としていたグループなのでバンドサウンドをエレクトロの鋭利な音色で装飾する方向性も意外となじんだものとなっていて興味深い。むしろフロア仕様となったことでディスコグラフの中でも特に「ノレる」作品になっていると感じる。
今までの経験を踏まえてもいるので彼らの魅力が損なわれたわけではなく、きちんとトレンドをバンドの音楽性に取り込めているのが頼もしいほど。またデラックスエディションの2枚目も興味深い。本作のドキュメント的な内容だが全71曲の断片ながらアイディアと可能性が詰め込まれていて聞き飽きない。
様々なアイディアと試行錯誤によって、本作が精製されているわけだが、その出し惜しみのなさが、アルバムの出来にもきっちり反映されているのが感じ取られるし、後のトレンドを髣髴とさせる音も潜んでいて、その取捨選択も面白い。そういった点では成果と過程を知ることの出来る良エディションだろう。
もちろん、作品としても大ヒットに安住せずに可能性を追求する姿勢を感じる、意欲的な好盤であることは疑いようもないし、更なる進化を感じさせる一枚だったかと。


All the Woo in the World

All the Woo in the World

78年発表1st。かのP-Funkサウンドの中核的人物、バーニー・ウォーレルのソロ初作。ほとんどの曲で、P-FUNK軍団のドン、ジョージ・クリントンとの共作となっており、アルバムプロデュースも共同となっているが、P-Funk色はあっさり気味で、ストレートなファンクサウンドという印象が強い。
むしろバーニーのボーカルとピアノがかなりフィーチャーされており、P-FUNKメンバーも多数参加しているのもあって、その高い演奏力が素のままで受け取れるというだけでもかなり興味深いのではないかと思う。アクの強さがないだけ、純度の高いファンクが聞けるというのもありがたい。
とにかくタイトでしなやかなビートに、ホーンやピアノを始め、バンドの演奏が絡み合うだけで極上というか。ハマるべき所でかっちりハマッていく演奏の心地よさが堪らない感じ。もしかするとP-Funkの諸作品よりも分かり易く、彼らの音楽性が伝わる一枚かもしれない。ピアノとホーンとベースがカッコいい


The Invisible Invasion

The Invisible Invasion

・05年発表3rd。2.5thという形のミニアルバムを経て、送り出されたアルバム。当時はクラウトロックの影響が感じられる、みたいな評があったように思うけど、今聞くと1stの猥雑さをより整えて、2ndで見せたトラッディーな歌ものを汲んだコクのあるサイケサウンドでまとめてきた印象を受ける作品。
港町であるリヴァプール出身というのもあるのか、レトロな海賊サウンドというか、侘びた味わいのフォーキーさや、あるいはそれこそラヴクラフトのような怪奇・幻想を喚起するサウンドが繰り広げられている。うらびれた木造の海賊酒場で朗々と歌いこまれる幽霊の歌のようなイメージが頭に浮かぶ。
垢抜けない民間伝承的なゴシックサウンドといった趣で、メンバーの年の割には枯れた味わいのトラッドな感触などは次作以降大きくクローズアップされていく。音響の処理の仕方など伝奇的な色合いもこの段階では強いが、この方向性がより洗練されていく形で発展していくことを考えれば過渡期的な一枚か。

「少女☆歌劇レヴュースタァライト」アニメ#9 先行公開版

※注意

本記事は「少女☆歌劇レヴュースタァライト」9話感想の先行公開版となります。完成版が書き上がり次第、この記事は削除いたします。

~説明~
えー。ご無沙汰してます。旧ブログから続けております、「少女☆歌劇レヴュースタァライト」の感想。TVアニメ終了から9ヶ月あまり、TVアニメ開始からいよいよ1年が経とうとしているこの頃ですが、依然として執筆中です。お待たせしている方々には大変申し訳ない。本文にも書いてありますけどもこちらのモチベーションの問題などによる執筆の遅れ等々で想定している結びが未だ見えてこない状況です。
ここままでは埒が明かないので、書いているという証明も含めて一旦、先行公開として書けている分の1/3程度を公開することに決めました。自分が小難しく考えているのかもわかりませんが、9話の内容が非常に歯応えがあって、四苦八苦しているという事を感じていただければと思います。思い切り途中で尻切れトンボになっていますがご了承ください。
当ブログで書いた過去の感想の振り返りも含めた文章なので今までのおさらい的に眺めていただければなと。全体の進捗がまだ想定している3割くらいで、そこからさらに1/3の内容なので心苦しい所ですが、まだはてなブログに移ってから感想を投稿できていない現状を考えると、ひとまずの置き場所として投げておくのも悪くはないのかな、という次第です。もちろん完成版が書き上がりあかつきには、こちらの記事は削除いたします。
本文はずっと大場なな(ばなな)を追っています。7話以降繰り広げられてきた、ばななのエピソードの総決算的な内容だからこそ、あれやこれや盛り込もうとしているので、完成にはまだ時間がかかりそうですがいましばらくお待ちいただけばと思います。
長々と言い訳がましく書いてしまいましたが、以下より本文です。大事なことを何度も繰り返しているので、回りくどいかもしれませんがご一読いただければ幸いです。



第9話『星祭りの夜に』
今回からBD-BOX最終3巻収録内容です。7話から続いていたばななのエピソードと戯曲『スタァライト』の全体像がおぼろげに見えてきた回でした。最終巻のトップバッター回として、今まで伏せられていた情報が開示されていくのに、こちらの処理が追い付かない程には密度のあるものだったかと思います。
さて、更新の日付を見ても分かる通り、この9話の感想はすでにアニメ版最終話が放映された以降に書かれているものになります。筆者も既に最終回まで視聴済みではありますが、延長戦という体で感想を続けさせていただく事をご了承ください。理由は簡単で、いろいろ考え込んでいたら書くペースがどんどん低下していったという、よくありがちなものです。ここまで続けたのならやはり完走はしたいし、一方でリアルタイムで更新できなかったのが心苦しくもありますが、どちらにせよ最終話まで書いていけたらなと考えています。更新のペースはさらに落ちてしまうかもしれませんが、最後までお付き合いいただければと思います。物語の結末は知っていますけど、なるべくそこを意識せずに残りの話数を書いていくつもりです(説明の必要性があって先回りして語るかもしれませんが)。それにまだ作品展開が完全に終わったわけではないですし、こちらとしてはじっくり納得の行く形で書き上げて行きたいですね。なので、気長にお待ちください。

www.nicovideo.jp

今回も舞台版の筋も含むネタバレですので読み進める場合は以下をクリック(スマホなどで読まれている方はそのままお進みください)

続きを読む