音楽鑑賞履歴(2019年8月) No.1334~1340

月一恒例の音楽鑑賞履歴。
今回は6枚。その内、5枚は全てバウハウス
というわけで、8月はUKゴシックロックのパイオニアの一角、バウハウス特集でした。


5 Albums Box Set

5 Albums Box Set

  • アーティスト:Bauhaus
  • 発売日: 2013/11/26
  • メディア: CD


13年に出た、上記のCD-BOXを一枚ずつ聞いたのが今回のレヴューになります。まあ夏に聞く、ゴシックロックも乙なものでなかなか味わい深いものだったかと。バウハウス自体も短い活動期間の中で目まぐるしくサウンドの変遷があるグループなので、聞いていて退屈はしなかったですね。
今年の夏は昨年に比べると極端に暑くなく、「適度に」暑い夏でここ何年かの中では過ごしやすい夏だったかなあと。この位でいいんだけど、来年はそうも行かないんだろうなと思うと、早くも気が滅入ってきますね。
というわけで以下より感想です。おまけといっては何ですが、この記事の最後に今年の夏にSpotifyで聞いた音楽のプレイリストも張っておきますので、よろしければお聞きください。




In the Flat Field

In the Flat Field

  • アーティスト:Bauhaus
  • 発売日: 2007/05/21
  • メディア: CD
80年発表1st。ゴシックロックの先駆的バンドでもあるバウハウスの初作。パンクのノリでNWの耽美で退廃的なサウンドというか、ポストパンクの破壊衝動も重なってダークでグラムやそれ以前のショックロック的な悪趣味さを兼ね備えたホラー映画的な趣を感じる作風は、処女作ながら既に確立されている。
開幕から極めてロックンロールマナーに即した展開に始まり、そこから一気にバンド独特の作風に聞くものを引き込んでいく熱気は当時の音楽シーンの空気を伝えてくるものだろう。本作はその点で言うならば、非常に荒削りで、混ざりきっていない音楽要素のゴロっとした感覚が非常に興味深い。
パンク、ポストパンク、NWといったジャンルの隙間を縫うように、サイケとは異なる内的な陶酔感と焦燥感を伴った感情の渇きが怪奇的に響き渡る。そのラフな作風が次第に完成に近づいていく過程をドキュメントしたような内容にもなっていて、ラストナンバーの「Nerves」はアルバムの中でも一線を画す出来
作品そのものがバンドの荒削りな魅力と可能性を提示しており、その過程の中で音楽性が一段階上がる様子が克明に捉えられていて、それだけでも価値のある一作だし、ロック史の中に新たな楔を打った点でも意義あるアルバムのひとつだと思う。若々しくエネルギッシュな船出を切った一枚。



Mask

Mask

  • アーティスト:Bauhaus
  • 発売日: 2007/05/21
  • メディア: CD
81年発表2nd。一般に代表作。ゴスそのままにNW、ポストパンク色が色濃くなった一枚。新機軸のポストパンク的な痙攣ファンクビートの肉感が良くも悪くも当時らしい音で、前作に見られた彼ら特有の退廃美的なゴシックさとは水と油のようにも感じなくない。反面、そのおかげで本作はかなりポップな響き。
ただ前作のような暗黒ゴシックサウンドを期待すると、肩透かしかもしれない。パンク、NW、ポストパンクという時代の波を考えると本作で導入されているダンサブルな要素は後追い感も否めず、彼ららしい「色」も感じなくはないが、楽曲の独自性はそこまで感じられずといった所。悪くはないのだが。
やはり現代の耳で聞くとゴシック、怪奇色の強い楽曲の方が魅力的に聞こえる。形に嵌ることなく、新しいものを追求する姿勢はよく分かるが、流石に欲目を出しすぎたようにも感じられ、バンドアディテュードとして「ブレた」ようにも感じてしまう、悩ましい作品。聞きやすい良盤には違いないのだが。



Sky's Gone Out

Sky's Gone Out

  • アーティスト:Bauhaus
  • 発売日: 2001/01/01
  • メディア: CD
82年発表3rd。前作からポップ要素を廃し、サウンドの凶暴さを押し出した一枚。バンドメンバーの間に不協和音が鳴り響き始めている最中で製作されたためか、一触即発の緊張感とテンションの高い演奏によって、崩壊寸前スレスレの尖がったバランスの上で成り立った内容で切れ味で言えば、一番鋭い作品。
冒頭のブライアン・イーノのカバーソングからして、触ったら、真っ二つに一刀両断されそうな気迫に満ちていて、剥き身の危うさがかとなく漂っている印象すらある。その破滅的なサウンドは、ゴスで表されるような退廃美に肉薄している印象もある。ただ怪奇色には薄く、そこばかりは残念か。
反面、実験的な前衛要素があったり、アイディアがとっ散らかった楽曲もあったりで、大衆性が損なわれて、アルバムとしての纏まりの良さには欠けるが、バンドのコンディションが研ぎ澄まされた勢いを感じさせる。一点突破の攻撃性が強烈な一枚ではないかと。前作の迷いがないだけでも高く評価したい。



Burning From the Inside

Burning From the Inside

  • アーティスト:Bauhaus
  • 発売日: 1989/10/20
  • メディア: CD

83年発表4th。後の再結成を抜きすれば、バンド内不協和音が決定的になった最終作。Voのピーター・マーフィーとその他の三人の方向性の違いが盤に表れているような印象も持つ。しかし、出来が悪いわけではなく、前作の異様な緊張感から打って変わり、穏やかさも感じられるが有終の美を飾るものではない
というのも、ピーター・マーフィーが病気によるレコーディングの一時不参加が残りのメンバーの転機となり、ピーター抜きでレコーディングがスムーズに進んだ事がバンドの亀裂をさらに深めてしまう。この為、ピーター以外のメンバーがリードVoを取る楽曲も数曲収録されている。
そういった経緯があってか、内容は従来の漆黒なゴスサウンドよりも後にラブ&ロケッツを結成することとなるメンバーの萌芽が目立つため、アルバムとしてはやや散漫な出来かもしれない。楽曲単位だとタイトルトラックなど野心的なものもあるがラストナンバーが「Hope」なのはなんとも皮肉。
解散・空中分解の多いパンク・NWバンドのひとつとして、短命に終わってしまうことになるが提示した音楽スタイルの数々は後進へと大いに影響を与えているのも確かで、それらのオリジネイターのひとつとして刻まれることは間違いない。しかし、その可能性を完成することなく、終焉を迎えたのは惜しいか
どちらにせよ、ピーター・マーフィーと残りのメンバーが各々の「希望」を垣間見たことで、袂を分かったのは諧謔的ともいえる。ゴスというジャンルにとらわれず、多様な魅力のあるバンドでもあるだろう。本作は次に進む「落ち着き」が随所に感じられる一枚だった。



ONE MORE YMO

ONE MORE YMO

・00年発表編集盤。既発音源と未発表音源で構成されたYMOのライヴベストアルバム。既存で入手困難なライヴ編集盤からもいくつか抜粋されている一方で音源にリミックスをかけたものもいくつか収録されている。スタジオ盤での演奏よりもある種人らしい、ライヴならではの演奏のズレや遊びが面白い。
曰く付のスネークマンショー武道館ライヴ出演時の音源や、「BGM」「テクノデリック」期のウィンターライヴの未発表音源などが本盤の目玉といったところだろう。基本的に演奏力の高いユニットであるので、ライヴ演奏も不安定どころか、スタジオ録音のあまり変わらない演奏なのには驚かざるを得ないか。
しかし、その中でも所変われば演奏も変わるを地で行くように、その時々のブレやテンションの高さや、アドリヴアレンジが事も無げに入ってくるのがなにより楽曲の「ナマもの」感を滲み出させているように思う。ライヴ音源のほうが肉体感のある演奏だということがYMOのもうひとつの醍醐味だろう。
その点ではYMOはライヴバンドであり、生身のビートと機械的なシンセの音が混ざり合ってグルーヴする、不思議なバンドでもあったことが伺えるかと。同時それらは中毒性があり、今に至るまで多くの人を引き付けて話さない要因でもあるのかもしれない。YMOのもうひとつの側面を追ったベスト盤だろう。



Bauhaus / Singles


13年発表編集盤。13年に出たリマスターCDBOX5枚のうちの一枚で彼らのリリースしたシングル曲をコンパイルしたもの。彼らの代表曲でもあり、1stシングルである「Bela Lugosi's Dead」はオリジナルではなくTomb Rider Mixが収められているが、シングルA面曲、B面曲をほぼ網羅した内容で充実してる。
これを聞くと、彼らの魅力が乱反射していることがよくわかる。グラムロックフォロワーからのロックンロールリバイバルに始まり、時代に寄り添ったレゲエ、ダブ処理を感じさせるポストパンクらしさや、耽美的かつ怪奇的なゴシックロック、ソリッドなNWサウンドなど、アルバムだけで見えない側面が窺える。
やはりシングル集だけあって、バンドサウンドのキワを集めたものである以上、彼らの先鋭的な部分が抽出されており、試行錯誤の中でバンドサウンドを見極め、同時にその過程における熱気が感じられる内容といえるだろう。アルバム以上にバンドの実像に迫った作品集だろう。興味深く聞けた。



【おまけ・2019年夏のプレイリスト】


斉木久美子『かげきしょうじょ!!』~ポスト『少女革命ウテナ』・『トップをねらえ2!』の物語~

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なんというか。
急に話題になってしまったので、遅きに失してるかもしれないけど、自分で書きたいことは先んじて書いておく。


先日、一作の漫画がTwitterのTL上でにわかに話題になった。
その名を『かげきしょうじょ!!』(作:斉木久美子)
宝塚歌劇宝塚音楽学校をモチーフに、トップスターを目指して入学してきた「歌劇少女」たちの青春の日々を描いた長編作品。


筆者は4年前、ちょうど「!!」(※あとで後述)の1巻が出た際に思いがけず表紙買いをして、のめり込んで以来、どっぷりと掲載誌である月刊メロディを定期購読して、最新話まで追っかける&作者、斉木久美子先生の全作品を購入するまでに至ってるわけですが、まあそれはともかく。
個人的に言わせてもらえば、漫画の面白さとしてはここ5年間の中でも不動のトップを走り続けている作品なので、今頃話題になっているのが不思議なくらいですよ。まあ、あんまりにも面白すぎて、筆者としては「人には知られたくない」と思いましたし、むしろ周囲に振り回されずに作品を描き切って欲しいなとも感じてたので、今までわざわざ声高に言ってこなかったんですけど、話題になってしまったのだから仕方ない。


筆者が「かげきしょうじょ!!」で語りたいことは記事タイトルにも書いたとおりです。
ついに現れたとも過言ではない、ポスト「ウテナ」「トップ2」作品であることです。このポストウテナ、ポストトップ2の意味するところは、翻って幾原邦彦監督、脚本家の榎戸洋司さんを意識するところであるのですが、個人的には近年の両氏の手掛けた作品には満足がいってない、というか時代の役目を終えて、作風の熟成があってもいいはずなのにそこで足踏みしてるという悩ましい状況が続いているように感じていた矢先に、この「かげきしょうじょ!!」が両氏の描いたものの先を描いてくれていて、これがあったからこそ個人的には近年の創作を楽しめた、という感じの作品です。一昨年から現在もなお筆者が追いかけ続けている、アニメと舞台演劇のメディアミックス作品「少女☆歌劇レヴュースタァライトとは同工異曲といいますか、むしろ同作品を内包して物語の筆致的にはさらに上を行った作品でもあるのです。


というかですね、「かげきしょうじょ!!」読んでいると、



と、思ってしまう箇所があちこちに出てくるのですよ…!!
本当にそうかはわかりませんが、かなり端々にその影響があるように思うのですよ。そもそも「宝塚」だし? だから知っている人が読むと、幾原・榎戸成分をオマージュとしてふんだんに溶け込ませている上で、なおかつ「かげきしょうじょ!!」という作品へと昇華しているのが本当に凄まじい。なにが凄いかって、単行本でまとめて読んでも十二分に面白いんですが、最新話を読む度にこちらの期待をさらに上回る出来を繰り出してきてて、真面目にヤバい。例えると今のところ打席に立てば、必ずホームランを打っている状態、株価で言えば毎回最高値を更新してるストップ高、昇り調子が止まらない感じ、読んでいて圧倒的な感謝しか出てこない作品です。


もうここまで話題に上がってしまっている以上、注目されてしまうのは致し方ないので個人的にこの作品に感じていることをざっと書いてしまって、作品紹介とともにその面白さを感じていただければな、と。


ここから先、ネタバレに近い話をバシバシ飛ばすので、それが気になる人は原作を読んでからご閲覧ください。前述したように幾原・榎戸作品が好きな人には漏れなくぶっ刺さる作品なので、それらが好きな方には損をさせない作品だということは筆者が保証いたします。 


なお以下より、「かげきしょうじょ!!」の画像は全て、単行本及び雑誌掲載時の切り抜きより引用しています。

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音楽鑑賞履歴(2019年7月) No.1333

月一恒例の音楽鑑賞履歴。
また、というか色々あったせいもあって、1枚のみの履歴です。なるべく数は聞きたいんですけどね。夏に差し掛かるとイベントなども多いので、必然的に聞く機会も少なくなるのは悩ましいところです。今年も暑くなりそうですが、何とか対応していきたいですね。
というわけで以下より感想です。


Magic & Medicine

Magic & Medicine

・03年発表2nd。前作の狂騒的な響きは鳴りを潜めた反面、音楽性の奥行きを深めた印象のある一作。前回が幽霊船がやってきそうな霧の濃い港町の印象だったが、本作は一転して、鬱蒼とした森で繰り広げられる幻想といった趣を感じる。猥雑だった音もより整理されて、繊細さを増した枯れた味わい
内容はとてもフォーク&トラッドで渋く侘びたテイストだが、前作で見せたサイケさや神秘性が練り込まれており、一曲ごとに、妙に引っかかりのある音を聞こえてくる辺り、挑戦的、あるいは若さが滲み出ているのが興味深い。とてもレトロだが、演奏の勢いは血気盛んな印象も感じられる。
当時のメンバーの年齢を考えると、びっくりするぐらい若いので、その辺りの溌剌さがサウンドにも出ていて、洗練する一方で、その才気が充実していることも証明しているような名盤だと思う。改めて聞くと一つのピークに到達した感もある、アンファンテリブルな一枚だろう。

次の「永遠」を手に入れるために-『天気の子』にまつわるエッセイ-

それもまた、伝説に過ぎない──既に消えた街、かつてあった街のひとつに過ぎないのだ。
恩田陸『EPITAPH東京』より~


今、改めて「東京」が見つめ直されている。漠然とした印象ではあるが、ここ1、2年の創作業界のトレンドとして再び「東京」がフォーカスされるようになってきているように思う。今年のNHK大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺~」なども、現代に繋がっていく東京を「再定義」する要素を多分に含んだ物語として非常にクリティカルな作品だろう。

さて、そんな中で「天気の子」である。

大ヒットした前作「君の名は。」より三年──元号も「令和」に変わった2019年の日本。そういった現状にまだ実感は持てないままだが、時代の変わり目という過渡期の目まぐるしい変化の中で新海誠監督の新作はなにと向き合って、「東京」を見たのか。



新海監督の作品モチーフとして「東京」は重要なファクターのひとつだろう。こと直近の二作、「言の葉の庭」「君の名は。」と本作においては新宿周りを中心とした「都会」「都市」としての東京がつぶさに描かれている。描き方の違いはあれど、それぞれ公開当時の「東京」が提示されているし、「天気の子」も同様に2019年の東京が記憶される映画になっていくのだろうと思う。




「天気の子」は東京に転がり込んできた家出少年の帆高と天に祈る事で空を晴れにしてしまう少女、陽菜の物語だ。本来あるべき、親の支えを期待できない境遇に陥った少年と少女が「東京」という都市の中で喘ぎ、お互いに「生きる理由」や「自分の居場所」を見つける、一見ストレートな内容だとも言える。
だが「東京」と「ボーイ・ミーツ・ガール」、この日本の映画にありがちな二つのモチーフを取りながら、新海監督自身が語るように「物語のセオリーから外れた(かもしれない)物語」が展開されていく。個人的にはセオリーが外れているというよりかは、映画の三幕構成(設定 、対立 、解決) に極めて忠実な作品、という印象を持つ。マナーに忠実でありながらも、セオリーに外れているとすれば、それはキャラクターの行動やこの映画で見せる「東京」の表情にあてはまるのだろう。

都市というのは、無数の煩悩を呑み込んでくれ、ただの無名の胃袋になってしまえる、ありがたい場所なのだ。

ここはお菓子の街。お菓子の家。けれど、その中には爆弾が仕掛けられている。あるいはゆっくりと回る毒が仕込んである。誰もが東京の毒にあたることを望み、同時に望んでいない。
愛おしき毒。習慣性のある毒。それがこの街だ。

~以上、恩田陸『EPITAPH東京』より~


先ほどから引用している文章であるが、筆者はたまたま恩田陸『EPITAPH東京』を「天気の子」の鑑賞前に読み終わったのもあり、この小説に描かれる「東京」を「天気の子」とどことなく重ね合わせている。『EPITAPH東京』は2015年の刊行であるが、「天気の子」と通じているように感じる。
それは「東京」についての物語であるということに他ならないわけであるが、どちらにも根底としてるのは、「東京」へのペシミズムだろうと思われる。同時に愛憎相半ばするトーンも滲み出ているのも一緒だ。
『EPITAPH東京』は脚本家である筆者Kと彼が出会った、吉屋という自称吸血鬼の男の、二人のモノローグから浮き彫りになっていく「東京」という都市の姿が綴られる。
題名にもなっている「EPITAPH東京」はKが構想を練る新作舞台の脚本で、その舞台の場面なども作中に挿入されているが、筆者Kは自らの手がける「エピタフ東京」を以下のように形容する。

「エピタフ東京」は、小文字で語られる東京の物語なのだ。
たとえばそれはひと壜のお酢を探す話かもしれないし、ひと壜のお酢も手に入れられない話かもしれない。


この前段で「『エピタフ東京』は大上段にかまえて(歴史を)語るような大文字の物語ではない」(意訳)とも語る。大文字と小文字。砕いていってしまえば、マクロとミクロの物語であり、筆者Kは「エピタフ東京」をミクロの物語であると認識している。それはつまりどういうことのなのか。

確かに『エピタフ東京』に家族の物語は含まれているのだろうが、そこまで母と子というテーマに重いテーマを持たせるつもりはない。小文字で語られる物語であるが、陰の主人公は東京なのだ。


(中略)


大都市東京が何十年もの時間をかけて解体してきたのも、家族であったり、地域であったり、共同体だったりするのだから。


つまり筆者Kの作中においてイメージ(それは同時に作者、恩田陸のものでもあるのだが)する「東京」はこういうことである。あらゆる繋がりが解体され、しかし先の引用にあるように無数の煩悩を呑み込む都市として、爆弾や常習性が認められる毒が仕込まれた街でもある。
この「東京」にまつわるイメージは「天気の子」も適用されるものだ。というより、新海監督はこの目線で本作を仕立て上げたとも言っていい。




「天気の子」では何らかの理由で家出をした少年、帆高があらゆる煩悩を呑み込む都市に翻弄される中で、必死で繋がりを求める作品といっても過言ではないし、それは同様に本作のヒロインである陽菜にも当てはまるだろう。
「東京」という都市機能の中で、家族、地域、共同体からも分断された少年少女を語った「小文字の物語」であり、そこから写し取られる2019年現在の東京の姿がクローズアップもされている。少年少女の物語でありながら、これは「東京」の物語でもある。そしてその「東京」の上空を渦巻く「天気」を描いた作品でもあるのだ。
作品に描かれる「天気」の解釈はさまざまあるかと思う。そもそも「天気」というものが移ろいやすいものであり、気象予報士が天気予測をしても外れる場合も十分ある、抗えない自然の摂理なのだが、本作においては人々の「気分」に直結している。それは翻って、舞台となっている「東京」という都市と社会の「気分」でもあり、当然のように帆高と陽菜の「気分」にも密接に関係するものだ。「天気」という曖昧なものだからこそ、作品における意味はボカされているのも確かなのだが、人は雨が降って憂鬱になったり、空が晴れて文字通りの晴やかな心地になったりもする。天候によってその「気分」は操られ、鑑賞している我々も含めて、映像に映し出されるイメージに支配されてしまう。「天気」という題材をとることで、登場人物や観客の「曖昧」な気分を掴む事に成功しているのは新海監督の鋭い一手だろう。
先の引用画像の通り、「雨が降り止まない東京」が作品の舞台だ。この雨が降り止まない事が最も注目すべき点で、この雨はダイレクトに「少年少女」と「東京」に掛かっている。それはもちろん現代日本のメタファーとして機能してもいるし、帆高や陽菜の見えない心の奥底に流れるものとしても機能しているのだろうが、なによりこの作品では「雨」と「晴れ」の構図が反転している事に尽きる。環境の状況として、雨が通常の状態で、晴れが稀な状態であるという天候が逆位相の状態であることに、帆高と陽菜をはじめとして、作品世界の人々はその状況に慣れ切ってしまっている。それゆえに陽菜が「100%の晴れ女」として稀事を操る存在として機能しているのは、観客から見れば奇異な状態にも見えるのだ。





「雨降る日常」が正常で、「晴れる」事が異常のように描かれている(見える)この作品の特異さは、帆高と陽菜の関係性が作中の「東京」の状態にそのまま結びついているからだろう。「東京」という都市の異常な状況と、帆高と陽菜がその「街」で置かれている境遇はどちらも歪んだものだと言える。というよりこの少年少女たちは都市、あるいは社会の歪みに陥ったために出会うことの出来た二人であり、「ボーイ・ミーツ・ガール」の物語としても位相を逆にしている。彼らは出会う事によって何かを得て成長するのではなく、出会った事で自分の「在る意味」がようやく見出せる所に物語が着地しているので、それが間違いであるか正しいどうかかはあまり関係がない。

地震に台風、空襲に組織犯罪など、幾多の災厄に見舞われてきた東京は、常に破壊の予感があり、廃墟に対するデジャ・ビュがある。日本人にとって、スクリーンの中の破壊は、「いつか見た光景」であり「いつか見る光景」なのだ

東京は、消しゴムをかけるようにいつも表面をごしごし削られ、常に更新され続けている。今この時、この地に存在したと自分で思っていても、実は足元や肩あたりからもう消されているのではないか。既にもうここにはいないのではないか──
消せるボールペン。シールはがし。つまりは消してしまいたいのだ。前に貼ってあったラベルの黒ずんだ切れ端や、書き損じた文字はなかったことにしたい。いつもまっさらで、リセットされた──あるいは上書きされた──世界でいたい。


物語の終盤に主要人物の一人でもある中年男性、須賀圭介が変わり果てた東京を指して、「世界は最初から狂っているんだよ」と発するが、それは翻ってみると、この作品における彼らや東京の「異常さ」を正当化する言葉でもある。しかし一方で『EPITAPH東京』で言及されるように、「東京」は常に破壊の予感がある都市であり、フィクションにおけるその破壊描写は「いつか見たor見る光景」であり、そういった更新の上に成り立っている「街」であると評されている。
それを汲んで考えれば、帆高の「陽菜を取り戻したい」という終盤の行動と決断は「世界(東京)を救う」という行為から完全に逆らっているし、自らの中にある「正しさ(それが狂気であっても)」を押し通した結果であるのだけど、それが「東京」という街そのものには影響を及ぼせていない。

東京は、常に誰かがどこかを「掃除」している。ただの現状維持のみならず、存在していたものの痕跡を消し、平らに均そうとする力が働いているのだ。だから、再開発されたところなど、それまでの土地の記憶を根こそぎむしり取るような、暴力的といっていいほどの殺菌消毒された「クリーン」な気配が漂う。


(中略)


それは、日本画と同じだ。日本の絵は瞬間を切り取ったものではなく、移り変わっていく時間そのものを描いている。瞬間ならば、その時刻の光が描かれその光が作る影も写し取らなければならないが、流れ続けている時間全体を描くのであれば、影は意味がない。
日本画は、この景色を写し取っていたのだ。影も暗がりもなく、限りなく二次元のアニメに近づいていくこの世界を。


この東京の暴力的なまでの「クリーン」な気配、日本画の移り変わっていく時を写し取る特徴からも分かるように、「天気の子」というアニメ映画もまた描かれる「東京」という街の淡々と移り変わる様を活写したに過ぎない。アニメという媒体で美しく切り取られ、平らに均された「東京」を。帆高は自らの煩悩を都市から奪い取って呑み込むことで、陽菜を救ったのかもしれないが、依然として「東京」という街は抗い難く残り、変容し続けている。年端も行かない少年少女に「東京」という都市の存在を塗り替えることは出来ないのだ。

あの夏の日──あの空の上で僕たちは世界の形を決定的に変えてしまったんだ。


作中では帆高がモノローグでこのように語っているが、この「世界の形」というのは僕たちに掛かっているので、どちらかと言えば帆高や陽菜から見えている世界が「変わった」だけに過ぎない。須賀の「世界は最初から狂っているんだよ」という言葉や、あるいは『EPITAPH東京』が語る「更新され続けていく東京」というのを見ると、帆高たちが「世界を変えてしまった」のとは無関係に、「東京」が変化する岐路に立っていたという方が正しいように思えてくるのだ。

今経験している都市が(都市というのは、体験と言い換え可能な気がする)、過去となっていく瞬間を常に目撃していて、東京がやがて経験する未来から過去を回想しているところに居合わせているような、めまぐるしく時間が逆向きに流れていくような、奇妙な感覚だ。
東京では、いつも過去と未来が激しく戦っている、居残ろう、存在を主張しようと、土地に爪を立てて痕を残そうと踏ん張る過去に対し、未来は常に先へ先へと進もうと、過去の痕跡を完膚なきまでに消し去ろうとする。そのスピードは一定ではなく、時にゆるやかであり、時にエネルギッシュである。加速と減速、あるいは停滞の時期もある。今はまた「巻き」に入っている時期なのではないか


2020年の東京オリンピックを前にして、おそらく「東京」は変化の岐路に立っている。範囲を拡大すれば、日本全体や全世界がそうなのかもしれない。2010年代の終わりに「天気の子」で描かれた「都市の変化」は過去と未来がせめぎあった末の「巻き」の時期が誇張されて表現された結果なのだろう。その点においては新海監督にとっても「天気の子」は「過渡期」を上手に捉えた作品なのかもしれない。
かつてないスピード感で世界や日常が変わり行く中で「東京」はどのような過渡期を経るのか。またその先にある「東京」はどんな未来を経験させてくれるのか。何が待っていようとも、大都市東京は平然と存在し続け、人の織り成す無数の煩悩をこれからも呑み込んでいく街であり続けるのだろう。

街は生き物だ。栄枯盛衰があり、歴史がある。


つまり「東京」は生き物であるのだ。成長もすれば衰退もする、時代を経て変化もする。それは帆高たちが関わらなくても、訪れた変化なのかもしれない。しかし、「東京」に人がいる限り、歴史は連なり、街は息づいていく。

「絵本」や「童話」のしめくくりで、『いつまでも幸せに暮らしました』っていう文章がありますよね、あれがどうにも気持ち悪くて」
「なんで?」
「だって、矛盾しているでしょう。『いつまでも』は『永遠に』ということなのに、『暮らしました』は過去形。永遠が終わってる。矛盾してるじゃないですか」

街は永遠だが(たぶん)、そこに構成する個々の人々はそれぞれの人生をまっとうし、完結している。
「だけど『幸せ』かどうかは分からないんじゃない?」
筆者が異議を唱えると、吉屋はゆるゆると首を振った。
「概ね幸せなんじゃないですか。そもそも、人生に優劣なんかないんだから、まっとうできたってことは幸せですよ」


『いつまでも幸せに暮らしました』という決まり文句。しかし、人が息づいている以上、「街」に終わりなどは来ない。しかし『EPTAPH東京』でも語られるように、街の中では人がその生をまっとうする。もし永遠という言葉で「都市」が取り繕われるのであれば、「天気の子」で描かれた「2019年の東京」という過渡期はそれと強く結び付けられるはずだ。


『エピタフ東京』も、考えてみれば都市と女子の話でもあるのだ。


結局、「天気の子」は何を描いていたのか。『EPITAPH東京』で筆者Kは自身の手がける作品に対して、上のように語っている。とどのつまり「天気の子」も同じことなのだ。残念ながら作中では「エピタフ東京」という舞台の全容は明らかにされていないが、「天気の子」は「東京」と「陽菜」という不釣合いな天秤によって秤を掛け、帆高に選択させた物語だろう。それこそきわめてクラシカルな「大文字」の物語構造にもかかわらず、帆高は陽菜という「小文字」を選択した。その捩れた構図をもしかしたら新海監督は「物語のセオリーを外した(かもしれない)物語」と表現したのかもしれない。
その意味では本作は「東京」を描いているのにも拘らず、帆高と陽菜のパーソナルスペースに終始した物語でしかない。前々作の「言の葉の庭」におけるタカオとユキノの間に生まれたものよりもさらに範囲の拡大した、「都市」という広すぎるパーソナルスペースにおける「少年少女」の物語だったのではないか、とこの記事を書きつつ、認識し始めている。
しかし帆高が陽菜を選んだところで、東京という「大文字」はビクともしない。それどころか極端に「更新された」結果、次の永遠に向かったようにも見える。人智の及ばない生き物としての「東京」は、少なくとも「天気の子」の作内において未来に向けての歩みを加速している。

次の永遠を手に入れるため──我々と、その人々に。


では、現実はどうであるか。これから100年先に「東京」は存在し続けているのか。それは誰にも分からない。ただ新海監督はそういった時代の「過渡期」にある「東京」を舞台に描くことで、攻めの姿勢を見せた。だから「大丈夫」という言葉は帆高が自分と陽菜の行く末を込めた以上に、「東京」という都市に対する「保障」であるのかなとも感じた。

次の永遠を手に入れるために。

空が晴れて欲しいと、願うばかりである。


EPITAPH東京 (朝日文庫)

EPITAPH東京 (朝日文庫)

*1

*1:引用文はほぼ全て恩田陸「EPITAPH東京」より抜粋

音楽鑑賞履歴(2019年6月) No.1327~1332

月一恒例の音楽鑑賞履歴。
6枚。
今回はPhoenix特集ですね。一応、デビュー時から知ってるバンドですが、ある時期から離れてしまったのでじっくり聞くのは初めて。おととし出た新作もばっちり買ってあります。聞けるのはいつになるかわかりませんが。
それはそうと、世間は梅雨入りして、じめついた天気が続いています。聴く音楽もなにかしらアンニュイなものを聞いてしまいがちですね。夏の晴れやかな陽気が早く来るといいのですが、来たら来たで今度は暑さに滅入る日々が続きそうなのもあって、どっちがいいんだろうと思わなくも。季節の趣を感じられるのはいいことではありますが。
というわけで以下より感想です。


イッツ・ネヴァー・ビーン・ライク・ザット

イッツ・ネヴァー・ビーン・ライク・ザット

06年発表3rd。垢抜けた印象のあるアルバムで一皮剥けたサウンドを提示している。前作のシックな印象から一転して、ポップな華やかさが映える内容となっており、よりギターポップらしい感触に傾倒している。1stで見られたごった煮感も整理され、洗練されている印象が強く残る。
ギターが前面に出ていることからも、インディロックっぽさが強くなっているとも言えるし、ギターの重層的な重ね方はストロークス辺りを髣髴とさせるアートスクール系のギターポップといった趣。確実に違うのはリゾート的な優雅というかフランスのお国柄らしい、エレガントな感覚が漂っている事か。
楽曲にせよ淡くカラフルな印象もあり、柔らかさと儚く溶ける砂糖菓子のようなポップネスが特徴で、洒脱したサウンドが鳴り響いている。前作、前々作を踏まえて、バンドサウンドを洗練させた結果、音楽性が確立された大躍進の一枚ではないかと思う。37分というコンパクトな内容も聞きやすい一枚。


Architecture

Architecture

81年発表3rd。一般に「エノラ・ゲイの悲劇」のヒットで知られるエレポップユニットだが、その彼らがスターダムに上った後に送り出した作品。ポップさを抑えて、自身の音楽性を表出させており、アーティスティックな一面を覗かせている。クラフトワークフォロワーの彼らが一歩踏み出した音を繰り広げる
リリカルな退廃美を押し出しており、その辺は同時代のニューロマンティックスらしい耽美な趣を感じさせる内容となっている。長尺曲などにも挑戦しており、セールス的に成功したことに安住しない攻めの姿勢が窺えるのも頼もしい。そういう点では一番華がある時に躊躇うことなく、音楽志向を追求した作品だ
翳りのあるサウンドではあるが、シンセサウンドの煌びやかさが一種の神々しさを帯びてもおり、ゴシック的なサウンドである一方で、宗教的な清新さや爽やかさが残る。他のエレポップユニットも一線を画す、メロディアスな叙情が実験精神の高さとともに結実した傑作だろう。その陶酔美に浸っていたい。


Wolfgang Amadeus Phoenix

Wolfgang Amadeus Phoenix

09年発表4th。初の自主レーベルからのリリースにして2010年の第52回グラミー賞でベスト・オルタナティヴ・ミュージック・アルバムを受賞した作品。事実、今までの彼らの集大成的なアルバムといっても過言ではない内容で、最高傑作というに相応しいものとなっている。
1stのインディーロックらしいキッチュさ、2ndの緻密な構築性、3rdのエネルギッシュな勢いがすべて統合され、バンドサウンドとしてロックとエレクトロの融合が最良の形としてポップミュージックに昇華されている。前作から感じさせているストロークスっぽいアートスクール系ギターロックもうまく咀嚼。
盤を重ねるごとにバンドサウンドの洗練と拡張を積み上げていった結果、最良の形で送り出すことに成功しているだけでも凄いが、一見わかりやすくポップに仕立てられているメロディが非常に奥行きのあるものであることも見逃せない。ミルフィーユのように丹念に織り込まれたメロディがとてもキャッチーだ
日本盤には4曲ほどボーナストラックとしてホーム・デモが収録されているが、これが人の演奏かと思うほど、どう演奏しているのかが分からなくて驚いた。そういう点からもバンドマジックとバンドのピークタイムが合致した幸福な一枚という印象か。1stから追いかけている人間には感慨深い作品だろう。


Bankrupt!

Bankrupt!

13年発表5th。グラミー賞受賞後の一作。彼らにとっては新境地を押し出した内容となっており、これまでの綿密に構築させたポップミュージックを当時のEDMブームの隆盛に伴って、フロア仕様に仕立てた一枚だろうと思う。一曲目から音圧高めの高低音のメリハリがバリバリに利いた音と化している。
今までの編み込まれたソフトなメロディを主体としていたバンドサウンドが、シンセのどギツいヴィヴィットな色彩によって豹変しているため、従来のサウンドを期待しているとはっきりと好き嫌いが分かれる内容と言える。実際、メロディよりドラムを初めとしたビートの起伏が強調されているのが目を引く。
もともとエレクトロなサウンドとバンドサウンドの融合を特色としていたグループなのでバンドサウンドをエレクトロの鋭利な音色で装飾する方向性も意外となじんだものとなっていて興味深い。むしろフロア仕様となったことでディスコグラフの中でも特に「ノレる」作品になっていると感じる。
今までの経験を踏まえてもいるので彼らの魅力が損なわれたわけではなく、きちんとトレンドをバンドの音楽性に取り込めているのが頼もしいほど。またデラックスエディションの2枚目も興味深い。本作のドキュメント的な内容だが全71曲の断片ながらアイディアと可能性が詰め込まれていて聞き飽きない。
様々なアイディアと試行錯誤によって、本作が精製されているわけだが、その出し惜しみのなさが、アルバムの出来にもきっちり反映されているのが感じ取られるし、後のトレンドを髣髴とさせる音も潜んでいて、その取捨選択も面白い。そういった点では成果と過程を知ることの出来る良エディションだろう。
もちろん、作品としても大ヒットに安住せずに可能性を追求する姿勢を感じる、意欲的な好盤であることは疑いようもないし、更なる進化を感じさせる一枚だったかと。


All the Woo in the World

All the Woo in the World

78年発表1st。かのP-Funkサウンドの中核的人物、バーニー・ウォーレルのソロ初作。ほとんどの曲で、P-FUNK軍団のドン、ジョージ・クリントンとの共作となっており、アルバムプロデュースも共同となっているが、P-Funk色はあっさり気味で、ストレートなファンクサウンドという印象が強い。
むしろバーニーのボーカルとピアノがかなりフィーチャーされており、P-FUNKメンバーも多数参加しているのもあって、その高い演奏力が素のままで受け取れるというだけでもかなり興味深いのではないかと思う。アクの強さがないだけ、純度の高いファンクが聞けるというのもありがたい。
とにかくタイトでしなやかなビートに、ホーンやピアノを始め、バンドの演奏が絡み合うだけで極上というか。ハマるべき所でかっちりハマッていく演奏の心地よさが堪らない感じ。もしかするとP-Funkの諸作品よりも分かり易く、彼らの音楽性が伝わる一枚かもしれない。ピアノとホーンとベースがカッコいい


The Invisible Invasion

The Invisible Invasion

・05年発表3rd。2.5thという形のミニアルバムを経て、送り出されたアルバム。当時はクラウトロックの影響が感じられる、みたいな評があったように思うけど、今聞くと1stの猥雑さをより整えて、2ndで見せたトラッディーな歌ものを汲んだコクのあるサイケサウンドでまとめてきた印象を受ける作品。
港町であるリヴァプール出身というのもあるのか、レトロな海賊サウンドというか、侘びた味わいのフォーキーさや、あるいはそれこそラヴクラフトのような怪奇・幻想を喚起するサウンドが繰り広げられている。うらびれた木造の海賊酒場で朗々と歌いこまれる幽霊の歌のようなイメージが頭に浮かぶ。
垢抜けない民間伝承的なゴシックサウンドといった趣で、メンバーの年の割には枯れた味わいのトラッドな感触などは次作以降大きくクローズアップされていく。音響の処理の仕方など伝奇的な色合いもこの段階では強いが、この方向性がより洗練されていく形で発展していくことを考えれば過渡期的な一枚か。

音楽鑑賞履歴(2019年5月) No.1316~1326

月一恒例の音楽鑑賞履歴。
令和に元号が変わって、最初の月の音楽鑑賞履歴です。
11枚。
ちょっと復調したかなという感じですね。色々と趣味の兼ね合いがあって、なかなか聞けない時があったものですから。ジャンルもフィリー・ソウル、アニソン、ポストパンク、クラシックロック、テクノといった風に雑多に聞けた感じでしたね。もうちょっと数聞きたい感じもしますが、こんなもので。まあ、Spotifyを使い出してから合間に聞けるようになってますが、やっぱりちゃんと聞きたいですし。そんな感じでのらりくらりと行きたいですね。
というわけで以下より感想です。


72年発表5th。大ヒットした同年発表の前作からわずか10ヵ月後に発表されたアルバム。ブレイクした勢いそのままに、アル・グリーンから搾り出される儚げなファルセットボイスとそのHi-サウンドの甘美な響きが絡みつくスウィートな内容。極めて、「歌声」にフォーカスしている一方で演奏の下支えが心強い
どうしてもファルセットに目にいきがちだが、サザンソウルのマナーに忠実なグルーヴのディープさとキレのあるホーン・セクションがアル・グリーンのくぐもった様な篭りがちにうねる歌声を味わい深くさせる。歌と演奏の絡み付き方が堪らなく粘っこい。粘度の強い蜂蜜を味わっている濃厚さが印象的だ。
独特な歌声が高く伸び上がるのも、演奏の天上感があってこそで、Hiサウンドのタメと開放感は全て、歌唱へと貢献しているものだと感じられる。非常に甘美で濃密な愛の世界が展開されているが、演奏、歌唱ともに当時の飛ぶ鳥を落とす勢いを感じる好盤ではないかと。スウィートソウル入門としてもオススメ


72年発表4th。アル・グリーンというシンガーとHiサウンドを一躍世に知らしめた出世作。1曲目からして、ソウル・クラシックであるアルバムタイトルトラックが来て、アルバムの存在感を強めているのが目を引く。内容はスウィートさとは裏腹に、かなりタイトでアーシーなサウンドが続くが面白い。
Hiサウンドを育んだメンフィスがアメリカ南部の地であることからも、本作のサウンドは非常にサザンソウルらしいディープな泥臭さがあり、タイトでヘヴィなビートにホーンの金属音が切り込んでくる。アル・グリーンの歌も以降のファルセット多用というよりは、そのアーシーな演奏に寄り添ったものである
粘っこいだがしつこくない、時折ブルージーさを感じる演奏に、アル・グリーンは朴訥に朗々と歌い上げる。この段階ではファルセットもそこまで多用しておらず、男臭いが同時にナイーヴな印象も受ける、既に老成した味わい深いヴォーカライズがやはり魅力的だ。
後の作品に比べると、サウンドの濃密さには及ばないが、シンプルかつ粗野な引き締まった演奏と歌唱が返って、シンガーの魅力と実力を引き出している名実ともに名盤なのではないだろうか。実際、聞いてみると意外に奥の深いアルバムだ。ソウルを聞くなら一度は聞いておきたい歴史的な一枚かと。


Candy☆Boy(DVD付)

Candy☆Boy(DVD付)

07年発表3rdSG。韓国人歌手MEILINの楽曲、という以上に「アニメ2.0」と呼ばれたWebアニメ企画「Candy☆Boy」の最初の楽曲としての認知度が高いと思われる。DVD同根版には0話ともいえる短編アニメ(ニコニコ動画にもアップロードされているはず)とアニメ映像を使用したMVが収録されている。
そういった出自の楽曲ではあるが、肝心の内容といえば2step調のリズムが目立つK-POPという印象で、当時としても紋切り型のサウンドであることは否めないか。そういう点では00年代後半初頭の雰囲気が蘇ってくる楽曲でもある。アニメと合わせてのパッケージングという向きが強い。
カップリングに矢井田瞳「My Sweet Darlin’」がなぜかラップパートを挿入されたカバーで収録。こっちも、音圧高めの当時らしいアレンジ。いずれにせよ、そこまで目新しい感じではないが、アニメ「Candy☆Boy」のファンならDVDソフトに収録されていないエピソードが付いてくるので持っていて損はないかと


Bring up・・・LOVE(夏服仕様ジャケット)

Bring up・・・LOVE(夏服仕様ジャケット)

Bring up・・・LOVE(冬服仕様ジャケット)

Bring up・・・LOVE(冬服仕様ジャケット)

08年発表主題歌集。ニコニコ動画で配信されたWebショートアニメ「Candy☆Boy」の主題歌集。楽曲プロデュースが「少女革命ウテナ」のOP曲「輪廻-revolution-」の作編曲をしている矢吹俊郎によるものとなっている。四つ打ちハウステクノに煌びやかな楽器の装飾音が散りばめられ、劇的に盛り上げる。
コーラスのゴスペルっぽい響きなどもあって、祝祭めいた開放感もあるのも拍車を掛けており、90年代の小室サウンドをも彷彿とさせるが、底地に見え隠れするブラックミュージックの要素が時代に囚われないグルーヴを出しているように思う。この辺り、素地がしっかりしているから、普遍さがあるのだろう。
ちなみにジャケットが夏服と冬服でカップリングの収録楽曲が違う上、2バージョンともにDVD同根版(収録内容はほぼ同じ)が存在する。こちらもDVDには本編DVD未収録エピソードが収録されているため、作品のファンはぜひ揃えておきたい。どちらにしても作品に寄り添った良い楽曲集という印象だ。
以下がDVD同梱版のリンク。
Candyboy主題歌(DVD付)

Candyboy主題歌(DVD付)

Bring up・・・LOVE(冬服仕様ジャケット)(DVD付)

Bring up・・・LOVE(冬服仕様ジャケット)(DVD付)


80年発表2nd。度重なる延期と発売中止の末にようやく再発売されたポストパンクの代表格、ザ・ポップ・グループの二作目。なのだけど、版権問題の紆余曲折があって、元々収録されていたラストポエッツの参加した「One Out of Many」から当時のシングル曲「We Are All Prostitutes」に差し替えられている
この為、リリース当初の内容が完全収録とはなっていないのが惜しいところだが、アーティストの意向としては今回のリイシューこそが「アルバムの完全な形」ということだそうなので、これが決定盤ということなのだろうと思う。というわけで今回は16年再発盤のレヴューとしたい。
さて肝心の内容は前作に施されていたダブ処理が鳴りを潜め、演奏の肉体性と凶暴性が増大している。とにかく「怒り」に満ちたサウンドで、甘ったるい感傷や夢見がちなロマンティックさは一切皆無。録音当時、バンドはほぼ解体状態で、録音もメンバーの衝突が茶飯事であった事もあり緊張感がスゴい。
まさしく抜き身の怒りによって、奏でられる音楽はファンクを通り越して、アフリカンリズムにまで接近し、その躍動感によって肉体的な暴力性を剥きだしている。そこに当時の英国の社会事情も絡み、歌詞は社会・政治批判を多分に含んだ扇動的なもので、演奏・歌詞の両方から「怒り」が溢れ出す。
ファンク、アフリカンミュージックにケルトやNWサウンド、非ロックのありとあらゆるものが渾然一体となって、ポストパンクの塊となって繰り出されるサウンドは非常に濃度が濃いもので当時20歳前後の若者たちに満ちていた鬱屈した感情がぶち撒かれている点だけでも盤として輝く理由として申し分ない。
程なくしてバンドは3rdアルバムの完成を待たず解散。メンバーはそれぞれ活動を続けていくが、その後の活動で繰り広げられる要素が本作には目一杯詰め込まれている。未分化ゆえの可能性が詰まっていたといっても過言ではないが、もはや再現不可能な青春という感情の無軌道な爆発が記録された一枚だろう


ザ・ゲーム

ザ・ゲーム

・80年発表9th。彼らのアルバムでは英米の両方で1位を獲った作品として知られる。前作が70年代を総括したアルバムだと考えるなら、本作は80年代の幕開けを象徴するものだろう。既に導入しつつあったが本作でついに「ノー・シンセサイザー」の表記が消え、冒頭から鳴り響いている。
内容も当時のパンク/NWの波を受け、メジャー級のバンドがその文脈で自分たちの音楽を表現するとどうなるか、というのを地で行くものとなっている。大ヒットした3や5はそういったファンクを経由したポストパンク後のダンスミュージックやロックリヴァイバルとしてのプレスリーだったのではないかと。
70年代の全盛期のような大作主義は影形もないが、クイーンらしい華やかなポップスは席巻していた新しい息吹をまとって、刷新されていたと思うのだが、3がヒットした手応えでよりブラックミュージック、ダンスミュージックへと舵を切ってしまったのは勇み足だったのかもしれない。
もちろん手応えがあったからに他ならないのだが、やはり受けた理由は時代の波を上手く取り入れられたからであって、少なくともダンスミュージックだったからというわけではなさそうだ。無論次作も出来は悪くないのだが、その商業的失敗の遠因には本作が売れた事による認識の誤りがあったのは疑いない。
そういう点では罪作りなアルバムでもあるが、それでもこの作品の軽すぎず重すぎずのポップな質感と蛍光灯のような明快な雰囲気はやはり魅力であると思うし、彼らのポジティヴがよく表れた一枚だろう。彼らはこのアルバムの成功とともに前途多難な80年代の一歩を踏み出したのだった。


ライヴ・フロム・ザ・ショーボート

ライヴ・フロム・ザ・ショーボート

76年録音盤。フィル・ウッズアメリメリーランド州ライヴハウス、ショーボート・ラウンジにて76年11月に録音したライヴ盤。以前は収録曲を削っていたバージョンが出ていたが今回はライヴの内容を完全収録した二枚組アルバムとなっている。演奏の方は非常に熱気のあるもの。
ライヴパフォーマーとして定評のあるフィル・ウッズのサックスはエネルギッシュかつ伸びやかにブロウする。当時の充実振りが伝わってくる演奏で、ソロパートになると文字通りアルトサックスの野太いフレーズをこれでもかと、自由闊達に吹きまくるウッズの姿が目に見えてきそうなほどだ。
ウッズの脇を支えるメンバーも気を吐く。70年代後半というフュージョン全盛時代というのもあってか、全体にシャープで硬質なサウンドで聞き心地も非常にクリアなトーン。その分、音の粒立ちがよく、サックスなどの音とともにリズムの躍動感が素晴らしい。非常にタイトなビートによって演奏が際立つ。
圧巻はDisc2に収録の21分超の「ブラジリアン・アフェア」。縦横無尽に各楽器が雄弁に語り合う光景にはただただ圧巻というほかない。約二時間の内容があっという間に聞けてしまうベストパフォーマンスといっていい演奏が楽しい一枚。ジャズにおける名演の一つかと。
このライヴの翌年、フィル・ウッズビリー・ジョエルの大ヒット曲「素顔のまま」のサックスソロで客演することとなる。そういう点からも円熟味の増した芳醇な演奏とも言えるでしょう。


Drukqs [帯解説 / 2CD / 国内盤] (BRC557)

Drukqs [帯解説 / 2CD / 国内盤] (BRC557)

01年発表5th。テクノ界の奇才、リチャード・D・ジェームスのもっと有名な名義であるエイフェックス・ツインの00年代にリリースした唯一のアルバムにして二枚組の大作。元々アンビエントテクノをリリースする名義だったのもあり、それらをメインにごった煮な内容となっている。
エリック・サティジョン・ケージに影響受けた自動演奏ピアノ楽曲や、エイフェックス正調であるコーンウォールサウンド、奇妙な電子音が飛び交うリズムクレイジーな楽曲、アブストラクトテクノなどなど前衛スレスレの所で聞かせるテクノ=IDMを縦横無尽に鳴り響かせている。
そういったリチャードの音楽性がごった煮されている中で、全体のトーンは瞑想的でもあり、自然とアンビエントな陶酔感に満ちたものとなっていて、身を委ねて聞いていると何かか覚醒するような恍惚も感じられる。個人的にはその中でもアコースティックな静謐さを秘めたピアノ曲などが興味深く聴けた。
ドラッギーな感覚というよりは感情の澱が積もっていく中でなにかしらの意味が導き出されそうなインナーミュージック然としたアルバムだと思う。なんというか宗教音楽などにニュアンスが近いかもしれないが、それをクドさなく軽やかにかつ狂気的に聞かせる作品かと。奇才という相応しい内容だった。


Orbital 2

Orbital 2

93年発表2nd。80年代末~90年代初頭のアシッドハウスに代表されるハートノル兄弟によるテクノユニット。セカンド・サマー・オブ・ラブアシッドハウスムーブメントの流れを汲んだ、ドラッギーでトランシーなハウステクノが展開される、当時の王道的なサウンドが聞けるのが特色。
現在のテクノ・エレクトロシーンの音に比べると、モコモコとした音像と例えれば画素の荒い、アナログな肌触りが残るキックとメロディ、ミックス感がいかにも人間くさい印象を与える。しかしそれが悪いというよりも、隙間の多いシンプルな構成だからこそ、プリミティヴにノレる作りとなっているのが良い
この時期はまだまだドラッグ文化とも結びつきが強いためか、トラックもサイケな質感が多いの特徴だ。この時期のテクノに多用されるシタールの幻惑的な響きやジャミロクワイとも呼応するディジャリドゥの音など、キメた時にトリップを促すような音が盛り込まれているもの時代の雰囲気を感じさせる部分だ
音自体は今の耳には若干古臭くもあるが、現在に繋がるテクノシーンのベーシックな部分を形成したアルバムの一つでもあると思う。ここから日本のアーティスト、たとえば電気グルーヴなどに辿りつけるのであるから、テクノ好きなら一度は触れておいても損はない名盤だろう。シンプルゆえに響くものもある


ドラムジラ

ドラムジラ

96年発表日本独自編集盤。アシッド・テクノ・シーンでその名を馳せたDJ、ティム・テイラーとダン・ザマーニによるプロジェクトユニットの楽曲を編纂したアルバム。リミックス違いを含む全10曲、すべてがフロア仕様のキラーチューンばかりのアシッド・ハウス・アルバムとなっている。
メロディや鳴り物はほぼ最低限に、トライバルなアフリカンリズムと四つ打ちキックのビートを中心に据えた、極めて潔い、なおかつプリミティヴにリズムの快楽を伝えてくる楽曲がアルバム全編に渡って、暴力的に鳴り響く内容となっており、フロアではない場所で聞いていると、自然にリズムを取りたくなる
フロアでアガって踊り尽くすのにメロディなどいらない、心駆り立てるビートがあればよい、というとてもストイックにアシッドハウスに向き合いながらも、オーディエンスのことを常に意識した作りになっているのがなにより本作を惹きつける魅力なのではないかと思う。ビートだけでご飯三杯は美味しい良盤


以下はレヴューの該当盤ではないが、近しい収録内容の編集盤として参考までに掲載しておきます。

音楽鑑賞履歴(2019年4月) No.1309~1315

月一恒例の音楽鑑賞履歴。
平成から令和へ。
元号の変わり目なんていう、滅多にない出来事を経ての最初の定期記事更新です。
相も変わらず、7枚という体たらくですが去年に比べたら聞いてますね。
今回は割りと雑多に。ブラックミュージック系が多い感じでしょうか。
一番最初のJAGATARA「裸の王様」のレビューが長々と書いてます。
令和年間が良い時代になることを祈りつつ。
というわけで以下より感想です。


裸の王様(紙ジャケット仕様)

裸の王様(紙ジャケット仕様)

87年発表3rdでオリジナルアナログMixを使用した07年リマスター盤。これより一つ前のリイシューである99年盤は初CD化の際に、レゲエ畑のエンジニアであるゴドウィン・ロギーがミックスを施したものとなっている。今回レビューをする、07年盤は20年の時を経て、当時のアナログ盤のミックスが初CD化された
聞き比べるとボトムラインの重低音を中心に据えて、アルバム全体の統一感を出しているゴドウィン・ミックスに比べると、オリジナルミックスは収録曲の個性がそれぞれ際立つミックスになっていて、曲ごとの印象がより鮮烈なものになっているのが大きな違いだ。故にアルバムの印象がまったく異なる。
重低音を全体に高めることでアルバムのトーンと演奏のグルーヴが強く意識され、「裸の王様」というアルバムの像が浮かび上がってくる、ゴドウィン・ミックスは同じ場で演奏されているような錯覚もあり、各曲のトーンが均質化されているのが分かる。グルーヴの整理整頓がされているのは一つの判断だろう
対して、オリジナルミックスドンシャリ感の強いミックスで「一曲完全燃焼」という印象が強く、一曲ごとのプレイヤーたちのエネルギッシュな熱量が迸っている。曲ごとの様相がころころ変わるので、全4曲ながらリスナーが心地よく「疲れる」一枚であることは間違いない。
事実、ゴドウィン・ミックスを先に聞いていると、オリジナルミックスの楽曲たちの鮮やかな表情に驚く。アフロ・ファンクな「裸の王様」で幾度となく繰り返されるリズムのキメにブチ上がり、「岬で待つわ」ではラテン・ファンクの細分化されたホットなパーカッションリズムに温度は上がるばかり。
「ジャンキー・ティーチャー」はここまでNW・ポストパンク色を帯びた演奏だったのかと驚かされ、ラストの「もうがまんできない」ではレゲエのクールネスな響きとサヴタージな悲哀と皮肉が押し迫り、アウトロでの残響の余韻がたまらなく印象的だ。と、このように濃度の高さが肌で感じられる。
個人的にはゴドウィンミックスの纏まりの良さも嫌いではないが、オリジナルミックスの際の美味しい部分だけを集めたような、メリハリのついたサウンドを先に聞いていると見劣りしてしまうのも頷けてしまう。また99年盤はミックスの際に江戸アケミの要望で一部楽曲のボーカルが録り直されている。
その辺もネックとなって、ファンの不興を買っているのは事実ではあるが、全体に音がオリジナルよりも分厚くなっているゴドウィンミックスは今聞くと現代的な音のようにも聞こえなくないから、良し悪しといった所。内容的に名盤である事実は変わらない。入手困難ではあるがファンは一度聞いてみてほしい
※99年盤のレヴューは以下のリンクにあります。
terry-rice88injazz.hatenablog.jp


じゃがたら/JA・BOM・BE (UKI UKI)

90年発表ライヴ編集盤。インディーズで出していた2枚のライヴ音源EP「UKI UKI」と「JA・BOM・BE」を2in1した編集盤。それぞれ前者が86年9月、後者が87年12月に行われたライヴを収録している。時期的にインディーズ時代末期で、中間に挟まれたリミックス曲を境に様相が変わる。
収録曲は基本1st「南蛮渡来」のものとイアン・デューリーのカバーが1曲。しかし、演奏の雰囲気は全く趣を異にする。「UKI UKI」収録の3曲(リミックス曲もこちら)はバンドのホットで猥雑な部分が展開される扇情的な演奏。時代的な音(圧)の弱さが災いしてガツっとした重量感はないがグルーヴ感は強い
印象深いのは後半「JA・BOM・BE」収録の「クニナマシェ」と「タンゴ」。どちらもバンドの代表曲であるが前半に比べて、こちらはクールかつ醒めた印象の演奏で土着的なリズムが響く中、死の淵や社会への諦念を感じさせる、凄みのある演奏。印象には弱いが「タンゴ」にはミュートビートの小玉和文が参加
1st収録曲のライヴテイクという貴重さもあるが、内容的にはバンドの生々しい演奏が聞けることが主眼となった内容といえるかと。しかしこれだけ磁場が強いバンドだとやはり生でライヴを体感することが一番なのだろうけど、それが叶わない事だけが悔やまれる。一度体感してみたかったと思わせる一枚だ。

Esso Trinidad Steel Band

Esso Trinidad Steel Band

71年発表1st。石油会社で有名なエッソがトリニダード・トバゴに投棄していった質のいい鉄製ドラム缶を使って、現地人がスティールパンを作り、楽団を結成したところ、評判になってエッソがスポンサードして出したアルバム。そしてバンドのプロデュースにかのヴァン・ダイク・パークスが関わっている。
彼のプロデュースによって、スタンダードポップスなどしか演奏していなかった彼らがキンクスサイモン&ガーファンクル、ジャクソン5、当時のミュージカル「ヘアー」の劇中歌などを本作でカバー。スティールパンの響きが十全に伝わるポップな味付けとなっていて、内容の出来に一役買っている。
スティールパンの独特かつ柔らかな金属音によるメロディの響きと、そこにドラムやパーカッションのリズムが加わり、カリプソなどのカリビアンミュージックがアルバム全体の眩しいくらいの陽気さを生み出していて、とても楽しそうな演奏が聞こえてくる。71年という時代を考えても底抜けに明るい。
そういった世情や時流を抜きにしても、伝わってくるのはスティールパンのあの響き。このきらびやかな音を聞いてるだけで桃源郷にいるような感覚に浸れる、甘露のような音楽であることが何よりも耐え難く、音楽そのものの魅力が伝わってくる。当のヴァン・ダイク・パークスが惹かれたのも頷ける良盤だ

Roy Buchanan

Roy Buchanan

72年発表1st。ローリングストーンズにメンバーとして誘われたこともある実力派にして、世界一無名なギタリスト(手違いでそう呼ばれたそうだが)の異名をとる、ロイ・ブキャナンのソロ初作。ジャケットからも分かる、無骨な印象そのままのテレキャスターが鳴り響く。
内容はロックというよりは、出身地であるアメリカ南部アーカンソーに根ざした、ブルースやカントリーウェスタン調の楽曲がメインだが、彼のテレキャスターから奏でられる硬質なギターフレーズがシャープに響き渡るのが印象的だ。最低限のバンド構成だけのきわめてシンプルな演奏がそれに拍車をかける。
余計な装飾がない分、ギターの金属質な音がエモーショナルに鳴り、心を揺さぶる。曲よって、その表情は豊かに変わるが、やはりテレキャスターの音がなんと言っても滋味深く、そして時に素っ気無く、付かず離れずな味わいが良い塩梅だ。その奥行きの深さに浸る一枚だろう。32分ほどの短さだが味は深い。

Electric Ladyland

Electric Ladyland

・68年発表3rd。ダブルアルバム(当時)の大作で、初期三作の中では一番ブルース色が濃いアルバム。スティーヴ・ウィンウッド率いるTrafficのメンバーなどゲストが多数参加している。サイケデリック色が後退している分、ブルージーで骨太いサウンドが特徴的。特にギターの熱気と音の分厚さがすごい。
ディランカバーの「見張り塔からずっと」や代表曲「ヴードゥーチャイル」などが目立つが、中盤(レコードside2~3)のポップな楽曲の粒立ちの良さもアルバムの充実度に貢献してるように思う。75分超と今も当時も量的にはかなりの大作ではあるが不思議と長さは感じさせないのど越しの良さには驚くばかり
それもジミによる練り込まれた楽曲と天性の即興能力が絡み合って結実したものであることには間違いなく、今なおリズム・メロディ・アレンジに新たな驚きと発見があることがそれを物語っているように思う。センス・オブ・ワンダーが時代性を超越しているという証拠のような驚異的な一枚ではないかと。

A(エース)

A(エース)

・97年発表7th。彼ら最大のヒット作にして、一般にまで知名度を広めたことでも知られるアルバム。ロングヒットした「Shangri-La」が収録されている事でも知られている。続く次作に比べると、音楽然とした楽曲が立ち並ぶが、同時に電気グルーヴらしいアシッドなテクノが全面に押し出されている。
持ち味でもあるユーモラスかつ毒気を感じるコミカルさとクールなトラックが絡み合い、奇妙な酩酊感があるのは彼らの真骨頂といったところ。アルバムとしての完成度が高い反面、「Shangri-La」もそうだが、全体に即効性に乏しいトラックで占められているので、ジワジワと利いてくるサウンドという印象。
ユニット名よろしく、グルーヴが渦巻く一枚となっており最大のヒット作にも拘らず、かなり玄人好みな内容にも聞こえなくないか。意外とスルメ系の良盤なので、魅力を実感するには何度か聞き返してた方が吉か。本作を最後にまりん(砂原義徳)が脱退。以降、卓球&ピエールの二人体制に。

The Gold Experience

The Gold Experience

・95年発表15th(本人単独名義で)。前作で「プリンス」という名義を葬り、3年前のアルバム「Love Symbol」で登場した記号をアーティスト名にした、最初の一枚。所属のレコード会社との確執による結果なのではあるがこの後、しばらくこのややこしい名義での活動が続く。
とはいえ、内容は気を吐く勢いで漲った、エネルギッシュな作品だろう。プリンスらしいクセの強さを物語る、ロックともファンクともつかない鋭い演奏がHI-FIな印象で密度高く聞こえてくる。しかしそうはいっても80年代のポップな作風と比べると、濃密なブラックミュージック然としたサウンドだろう
だからなのだろうか、ロックミュージック的な勢いのある曲よりはミッドテンポでうねりのある曲の方が味わい深く、魅力的でもあるか。めくるめく官能の世界というか、プリンスサウンドのねっとりとした、濃い世界が繰り広げられる点では90年代の作品の中でも最良の形で提示している。
一口目が非常に飲み下しづらいが、それを乗り越えてしまえば、あら不思議。タイトルの通りの「黄金体験」が堪能できるアルバムではないかと。苦闘が続く、雌伏の時期であることを感じさせない、プリンスがプリンスたりうる音楽が所狭しと押し寄せてくる。ギラギラしてるけど美しさのある一枚だ。