次の「永遠」を手に入れるために-『天気の子』にまつわるエッセイ-

それもまた、伝説に過ぎない──既に消えた街、かつてあった街のひとつに過ぎないのだ。
恩田陸『EPITAPH東京』より~


今、改めて「東京」が見つめ直されている。漠然とした印象ではあるが、ここ1、2年の創作業界のトレンドとして再び「東京」がフォーカスされるようになってきているように思う。今年のNHK大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺~」なども、現代に繋がっていく東京を「再定義」する要素を多分に含んだ物語として非常にクリティカルな作品だろう。

さて、そんな中で「天気の子」である。

大ヒットした前作「君の名は。」より三年──元号も「令和」に変わった2019年の日本。そういった現状にまだ実感は持てないままだが、時代の変わり目という過渡期の目まぐるしい変化の中で新海誠監督の新作はなにと向き合って、「東京」を見たのか。



新海監督の作品モチーフとして「東京」は重要なファクターのひとつだろう。こと直近の二作、「言の葉の庭」「君の名は。」と本作においては新宿周りを中心とした「都会」「都市」としての東京がつぶさに描かれている。描き方の違いはあれど、それぞれ公開当時の「東京」が提示されているし、「天気の子」も同様に2019年の東京が記憶される映画になっていくのだろうと思う。




「天気の子」は東京に転がり込んできた家出少年の帆高と天に祈る事で空を晴れにしてしまう少女、陽菜の物語だ。本来あるべき、親の支えを期待できない境遇に陥った少年と少女が「東京」という都市の中で喘ぎ、お互いに「生きる理由」や「自分の居場所」を見つける、一見ストレートな内容だとも言える。
だが「東京」と「ボーイ・ミーツ・ガール」、この日本の映画にありがちな二つのモチーフを取りながら、新海監督自身が語るように「物語のセオリーから外れた(かもしれない)物語」が展開されていく。個人的にはセオリーが外れているというよりかは、映画の三幕構成(設定 、対立 、解決) に極めて忠実な作品、という印象を持つ。マナーに忠実でありながらも、セオリーに外れているとすれば、それはキャラクターの行動やこの映画で見せる「東京」の表情にあてはまるのだろう。

都市というのは、無数の煩悩を呑み込んでくれ、ただの無名の胃袋になってしまえる、ありがたい場所なのだ。

ここはお菓子の街。お菓子の家。けれど、その中には爆弾が仕掛けられている。あるいはゆっくりと回る毒が仕込んである。誰もが東京の毒にあたることを望み、同時に望んでいない。
愛おしき毒。習慣性のある毒。それがこの街だ。

~以上、恩田陸『EPITAPH東京』より~


先ほどから引用している文章であるが、筆者はたまたま恩田陸『EPITAPH東京』を「天気の子」の鑑賞前に読み終わったのもあり、この小説に描かれる「東京」を「天気の子」とどことなく重ね合わせている。『EPITAPH東京』は2015年の刊行であるが、「天気の子」と通じているように感じる。
それは「東京」についての物語であるということに他ならないわけであるが、どちらにも根底としてるのは、「東京」へのペシミズムだろうと思われる。同時に愛憎相半ばするトーンも滲み出ているのも一緒だ。
『EPITAPH東京』は脚本家である筆者Kと彼が出会った、吉屋という自称吸血鬼の男の、二人のモノローグから浮き彫りになっていく「東京」という都市の姿が綴られる。
題名にもなっている「EPITAPH東京」はKが構想を練る新作舞台の脚本で、その舞台の場面なども作中に挿入されているが、筆者Kは自らの手がける「エピタフ東京」を以下のように形容する。

「エピタフ東京」は、小文字で語られる東京の物語なのだ。
たとえばそれはひと壜のお酢を探す話かもしれないし、ひと壜のお酢も手に入れられない話かもしれない。


この前段で「『エピタフ東京』は大上段にかまえて(歴史を)語るような大文字の物語ではない」(意訳)とも語る。大文字と小文字。砕いていってしまえば、マクロとミクロの物語であり、筆者Kは「エピタフ東京」をミクロの物語であると認識している。それはつまりどういうことのなのか。

確かに『エピタフ東京』に家族の物語は含まれているのだろうが、そこまで母と子というテーマに重いテーマを持たせるつもりはない。小文字で語られる物語であるが、陰の主人公は東京なのだ。


(中略)


大都市東京が何十年もの時間をかけて解体してきたのも、家族であったり、地域であったり、共同体だったりするのだから。


つまり筆者Kの作中においてイメージ(それは同時に作者、恩田陸のものでもあるのだが)する「東京」はこういうことである。あらゆる繋がりが解体され、しかし先の引用にあるように無数の煩悩を呑み込む都市として、爆弾や常習性が認められる毒が仕込まれた街でもある。
この「東京」にまつわるイメージは「天気の子」も適用されるものだ。というより、新海監督はこの目線で本作を仕立て上げたとも言っていい。




「天気の子」では何らかの理由で家出をした少年、帆高があらゆる煩悩を呑み込む都市に翻弄される中で、必死で繋がりを求める作品といっても過言ではないし、それは同様に本作のヒロインである陽菜にも当てはまるだろう。
「東京」という都市機能の中で、家族、地域、共同体からも分断された少年少女を語った「小文字の物語」であり、そこから写し取られる2019年現在の東京の姿がクローズアップもされている。少年少女の物語でありながら、これは「東京」の物語でもある。そしてその「東京」の上空を渦巻く「天気」を描いた作品でもあるのだ。
作品に描かれる「天気」の解釈はさまざまあるかと思う。そもそも「天気」というものが移ろいやすいものであり、気象予報士が天気予測をしても外れる場合も十分ある、抗えない自然の摂理なのだが、本作においては人々の「気分」に直結している。それは翻って、舞台となっている「東京」という都市と社会の「気分」でもあり、当然のように帆高と陽菜の「気分」にも密接に関係するものだ。「天気」という曖昧なものだからこそ、作品における意味はボカされているのも確かなのだが、人は雨が降って憂鬱になったり、空が晴れて文字通りの晴やかな心地になったりもする。天候によってその「気分」は操られ、鑑賞している我々も含めて、映像に映し出されるイメージに支配されてしまう。「天気」という題材をとることで、登場人物や観客の「曖昧」な気分を掴む事に成功しているのは新海監督の鋭い一手だろう。
先の引用画像の通り、「雨が降り止まない東京」が作品の舞台だ。この雨が降り止まない事が最も注目すべき点で、この雨はダイレクトに「少年少女」と「東京」に掛かっている。それはもちろん現代日本のメタファーとして機能してもいるし、帆高や陽菜の見えない心の奥底に流れるものとしても機能しているのだろうが、なによりこの作品では「雨」と「晴れ」の構図が反転している事に尽きる。環境の状況として、雨が通常の状態で、晴れが稀な状態であるという天候が逆位相の状態であることに、帆高と陽菜をはじめとして、作品世界の人々はその状況に慣れ切ってしまっている。それゆえに陽菜が「100%の晴れ女」として稀事を操る存在として機能しているのは、観客から見れば奇異な状態にも見えるのだ。





「雨降る日常」が正常で、「晴れる」事が異常のように描かれている(見える)この作品の特異さは、帆高と陽菜の関係性が作中の「東京」の状態にそのまま結びついているからだろう。「東京」という都市の異常な状況と、帆高と陽菜がその「街」で置かれている境遇はどちらも歪んだものだと言える。というよりこの少年少女たちは都市、あるいは社会の歪みに陥ったために出会うことの出来た二人であり、「ボーイ・ミーツ・ガール」の物語としても位相を逆にしている。彼らは出会う事によって何かを得て成長するのではなく、出会った事で自分の「在る意味」がようやく見出せる所に物語が着地しているので、それが間違いであるか正しいどうかかはあまり関係がない。

地震に台風、空襲に組織犯罪など、幾多の災厄に見舞われてきた東京は、常に破壊の予感があり、廃墟に対するデジャ・ビュがある。日本人にとって、スクリーンの中の破壊は、「いつか見た光景」であり「いつか見る光景」なのだ

東京は、消しゴムをかけるようにいつも表面をごしごし削られ、常に更新され続けている。今この時、この地に存在したと自分で思っていても、実は足元や肩あたりからもう消されているのではないか。既にもうここにはいないのではないか──
消せるボールペン。シールはがし。つまりは消してしまいたいのだ。前に貼ってあったラベルの黒ずんだ切れ端や、書き損じた文字はなかったことにしたい。いつもまっさらで、リセットされた──あるいは上書きされた──世界でいたい。


物語の終盤に主要人物の一人でもある中年男性、須賀圭介が変わり果てた東京を指して、「世界は最初から狂っているんだよ」と発するが、それは翻ってみると、この作品における彼らや東京の「異常さ」を正当化する言葉でもある。しかし一方で『EPITAPH東京』で言及されるように、「東京」は常に破壊の予感がある都市であり、フィクションにおけるその破壊描写は「いつか見たor見る光景」であり、そういった更新の上に成り立っている「街」であると評されている。
それを汲んで考えれば、帆高の「陽菜を取り戻したい」という終盤の行動と決断は「世界(東京)を救う」という行為から完全に逆らっているし、自らの中にある「正しさ(それが狂気であっても)」を押し通した結果であるのだけど、それが「東京」という街そのものには影響を及ぼせていない。

東京は、常に誰かがどこかを「掃除」している。ただの現状維持のみならず、存在していたものの痕跡を消し、平らに均そうとする力が働いているのだ。だから、再開発されたところなど、それまでの土地の記憶を根こそぎむしり取るような、暴力的といっていいほどの殺菌消毒された「クリーン」な気配が漂う。


(中略)


それは、日本画と同じだ。日本の絵は瞬間を切り取ったものではなく、移り変わっていく時間そのものを描いている。瞬間ならば、その時刻の光が描かれその光が作る影も写し取らなければならないが、流れ続けている時間全体を描くのであれば、影は意味がない。
日本画は、この景色を写し取っていたのだ。影も暗がりもなく、限りなく二次元のアニメに近づいていくこの世界を。


この東京の暴力的なまでの「クリーン」な気配、日本画の移り変わっていく時を写し取る特徴からも分かるように、「天気の子」というアニメ映画もまた描かれる「東京」という街の淡々と移り変わる様を活写したに過ぎない。アニメという媒体で美しく切り取られ、平らに均された「東京」を。帆高は自らの煩悩を都市から奪い取って呑み込むことで、陽菜を救ったのかもしれないが、依然として「東京」という街は抗い難く残り、変容し続けている。年端も行かない少年少女に「東京」という都市の存在を塗り替えることは出来ないのだ。

あの夏の日──あの空の上で僕たちは世界の形を決定的に変えてしまったんだ。


作中では帆高がモノローグでこのように語っているが、この「世界の形」というのは僕たちに掛かっているので、どちらかと言えば帆高や陽菜から見えている世界が「変わった」だけに過ぎない。須賀の「世界は最初から狂っているんだよ」という言葉や、あるいは『EPITAPH東京』が語る「更新され続けていく東京」というのを見ると、帆高たちが「世界を変えてしまった」のとは無関係に、「東京」が変化する岐路に立っていたという方が正しいように思えてくるのだ。

今経験している都市が(都市というのは、体験と言い換え可能な気がする)、過去となっていく瞬間を常に目撃していて、東京がやがて経験する未来から過去を回想しているところに居合わせているような、めまぐるしく時間が逆向きに流れていくような、奇妙な感覚だ。
東京では、いつも過去と未来が激しく戦っている、居残ろう、存在を主張しようと、土地に爪を立てて痕を残そうと踏ん張る過去に対し、未来は常に先へ先へと進もうと、過去の痕跡を完膚なきまでに消し去ろうとする。そのスピードは一定ではなく、時にゆるやかであり、時にエネルギッシュである。加速と減速、あるいは停滞の時期もある。今はまた「巻き」に入っている時期なのではないか


2020年の東京オリンピックを前にして、おそらく「東京」は変化の岐路に立っている。範囲を拡大すれば、日本全体や全世界がそうなのかもしれない。2010年代の終わりに「天気の子」で描かれた「都市の変化」は過去と未来がせめぎあった末の「巻き」の時期が誇張されて表現された結果なのだろう。その点においては新海監督にとっても「天気の子」は「過渡期」を上手に捉えた作品なのかもしれない。
かつてないスピード感で世界や日常が変わり行く中で「東京」はどのような過渡期を経るのか。またその先にある「東京」はどんな未来を経験させてくれるのか。何が待っていようとも、大都市東京は平然と存在し続け、人の織り成す無数の煩悩をこれからも呑み込んでいく街であり続けるのだろう。

街は生き物だ。栄枯盛衰があり、歴史がある。


つまり「東京」は生き物であるのだ。成長もすれば衰退もする、時代を経て変化もする。それは帆高たちが関わらなくても、訪れた変化なのかもしれない。しかし、「東京」に人がいる限り、歴史は連なり、街は息づいていく。

「絵本」や「童話」のしめくくりで、『いつまでも幸せに暮らしました』っていう文章がありますよね、あれがどうにも気持ち悪くて」
「なんで?」
「だって、矛盾しているでしょう。『いつまでも』は『永遠に』ということなのに、『暮らしました』は過去形。永遠が終わってる。矛盾してるじゃないですか」

街は永遠だが(たぶん)、そこに構成する個々の人々はそれぞれの人生をまっとうし、完結している。
「だけど『幸せ』かどうかは分からないんじゃない?」
筆者が異議を唱えると、吉屋はゆるゆると首を振った。
「概ね幸せなんじゃないですか。そもそも、人生に優劣なんかないんだから、まっとうできたってことは幸せですよ」


『いつまでも幸せに暮らしました』という決まり文句。しかし、人が息づいている以上、「街」に終わりなどは来ない。しかし『EPTAPH東京』でも語られるように、街の中では人がその生をまっとうする。もし永遠という言葉で「都市」が取り繕われるのであれば、「天気の子」で描かれた「2019年の東京」という過渡期はそれと強く結び付けられるはずだ。


『エピタフ東京』も、考えてみれば都市と女子の話でもあるのだ。


結局、「天気の子」は何を描いていたのか。『EPITAPH東京』で筆者Kは自身の手がける作品に対して、上のように語っている。とどのつまり「天気の子」も同じことなのだ。残念ながら作中では「エピタフ東京」という舞台の全容は明らかにされていないが、「天気の子」は「東京」と「陽菜」という不釣合いな天秤によって秤を掛け、帆高に選択させた物語だろう。それこそきわめてクラシカルな「大文字」の物語構造にもかかわらず、帆高は陽菜という「小文字」を選択した。その捩れた構図をもしかしたら新海監督は「物語のセオリーを外した(かもしれない)物語」と表現したのかもしれない。
その意味では本作は「東京」を描いているのにも拘らず、帆高と陽菜のパーソナルスペースに終始した物語でしかない。前々作の「言の葉の庭」におけるタカオとユキノの間に生まれたものよりもさらに範囲の拡大した、「都市」という広すぎるパーソナルスペースにおける「少年少女」の物語だったのではないか、とこの記事を書きつつ、認識し始めている。
しかし帆高が陽菜を選んだところで、東京という「大文字」はビクともしない。それどころか極端に「更新された」結果、次の永遠に向かったようにも見える。人智の及ばない生き物としての「東京」は、少なくとも「天気の子」の作内において未来に向けての歩みを加速している。

次の永遠を手に入れるため──我々と、その人々に。


では、現実はどうであるか。これから100年先に「東京」は存在し続けているのか。それは誰にも分からない。ただ新海監督はそういった時代の「過渡期」にある「東京」を舞台に描くことで、攻めの姿勢を見せた。だから「大丈夫」という言葉は帆高が自分と陽菜の行く末を込めた以上に、「東京」という都市に対する「保障」であるのかなとも感じた。

次の永遠を手に入れるために。

空が晴れて欲しいと、願うばかりである。


EPITAPH東京 (朝日文庫)

EPITAPH東京 (朝日文庫)

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*1:引用文はほぼ全て恩田陸「EPITAPH東京」より抜粋