【ネタバレ】劇場版「少女☆歌劇 レヴュースタァライト 」インプレッション~さらば青春のひかり~第一幕【『物語』を始めたのは誰か】

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【はじめに】


劇場版 『少女☆歌劇 レヴュースタァライト


公開初日*1に見てまいりました。


以上の呟きからも分かるように長い間ファンを続けてきた身としては感無量の出来でした。みっちりと詰め込まれた120分の映画作品は、追っかけてきた年月が長ければ長いほど見ている者の心を打つ映像だったと思います。古川監督を始め、制作に携わってきたスタッフの皆さんには最大限の賛辞と感謝を伝えたい、伝えたくなる映画でした。



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とはいえ見終わった後、感想をどう書けばいいか困ったのも事実です。公開前に上記リンク記事以外にもいくつか書いたせいもあって、「なにか話すことはあるのか?」と途方に暮れていましたし、先の呟きがもう感想でもいいんじゃないかなくらいには、満足度が高かったので、感想を書こうにもどこから切り出していくのかを考えあぐねていました。

先のリンク記事にも取り上げた通り、今回の劇場版は端的に「愛城華恋の物語」だと思います。もちろん他の8人の舞台少女たちの進路とそこに対しての葛藤や別離や決意、も詰め込まれていますが、映画全体を眺めた上でこの作品の物語として一番比重が置かれているのは、「愛城華恋」であるのは間違いないでしょう。個人的には他の舞台少女たちの繰り広げるレヴューや覚悟も非常に楽しませてもらいましたが、それでもなお映画の物語は「愛城華恋」に集約されているのです。「華恋の物語」が主菜であるなら、劇場版に描かれる舞台少女たちのエピソードは副菜であると言ってしまっても構いません。そういった枝葉の部分に惑わされがちだけど、メインに活けられている華の部分は今までになく明快だと思っています。当然ながら、その紐解きは必要だと考えていますし、TwitterのTLに流れてくる感想を見ているとこちらが紐解きをせずとも、それを感じ取っている人も多くいます。筆者も筆者なりに感想を書いて、ひとまずの締めとしたいと思います。

記事タイトルにもつけていますが、ここから先は映画を鑑賞している前提で容赦なくネタバレをしていきますので、どうか映画をご覧になってからお読みください。また書かれている文章においては個人の印象・主観・見解に基づくものである事を踏まえてご覧いただけると幸いです。


【『物語』を始めたのは誰か~「私たちはもう舞台の上」】



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特別公開の冒頭映像動画リンクを出しましたが、ご覧になってもならなくて問題はありません。*2 
映画は再生産総集編ラストから地続きで、ひかりが「再演者」となってTVアニメ版の「ふたりでひとつの物語」を明確に否定する(あるいは『完成美』の花言葉を持つトマトを粉砕する)事によって、「ひかりに執着し続けていた華恋」という閉じかけていた可能性に綻びを生ませ、塔から線路へとモチーフが変容する事で、華恋の新たな道筋が生まれたことを示すシーンだと思います。


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劇場版の物語はここを起点として始まっています。筆者の見解としては、再生産総集編を含めた劇場版二部作はひかりを基軸として編み直された「再演」によって、TVアニメ版最終回から分岐したパラレルワールドという認識ですね。論拠としては、再生産総集編の新規パートで描かれる地下劇場を照らす舞台照明の色が基本終始だという点、ななの再演が途切れてより眩しいの光に取り込まれている点、またTVアニメ版4話がほぼカットされて、かわりに8話のロンドンの回想が差し挟まれた事でよりひかりが主体として描かれている点などでしょうか。


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そしてこれらの論拠は全て再生産総集編のタイトルである「ロンド・ロンド・ロンド」に結びついていきます。


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ロンド・ロンド・ロンドのロゴや劇場版二部作からの作品のロゴには、列車の車輪を模したデザインがあしらわれていますが、車輪の意味合い以外にも「〇」が一つの「ロンド(輪舞)」を表していて、それが三つ並んで「ロンド・ロンド・ロンド」になっているのが分かりますね。三つの「ロンド(輪舞)」を貫いているものは劇場版のコピーにもなっている、華恋のキラめきだと見る事も出来ますし……、


        


劇中で出てきた、ロンドン地下鉄のマークのように華恋の「ロンド(輪舞)」をひかりのキラめきが貫いているようにも考えられます。どちらにしても上に挙げた劇場版のロゴマークには「ロンド(輪舞)」に対してキラめきが貫かれている、という意味合いも重ねられているのです。

ではここでいう「ロンド(輪舞)」とは一体何か。三つあるうちの一つは皆さん分かりやすいと思います。大場なながTVアニメ版で繰り返してきた「再演」ですね。


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ななは第99回聖翔祭の戯曲『スタァライト』を聖翔音楽学園第99期生全員で作り上げた「舞台」が忘れられず、そしてそれが眩しすぎて、何度も何度も「再演」を繰り返した。前に進むことを恐れ、ひたすらに自分が眩しく感じた「舞台」を演じ続ける事で「絶望の輪廻」を繰り返してきたと言えます。前に進まず同じところをグルグルと回り続けていたわけですね。


ja.wikipedia.org
kotobank.jp


ところで「ロンド」そのものがどういうものかという所を見ていくと、上に挙げたリンクでも確認できますがその始まりは13~15世紀のフランスで生まれた定型詩かつ楽式の一つである「ロンドー」と確認できます。音楽でいう所の「ロンド」17世紀に入って、器楽曲として作られるようになった形式の一つで、主題が異なった楽想の挿入部を挟んで何度か繰り返される形式の楽曲の事を指します。以下、リンク先の説明をざっくり引用してまとめてるとこうなります。

ロンドー(詩):特定の様式化されたパターンにしたがって繰り返されるリフレインを用いる押韻形式のもの
ロンド(音楽):少なくとも三つの主題が異なった楽想の挿入部を挟んで何度か繰り返される形式の楽曲


kotobank.jp


なお日本語で「輪舞」がロンドと読まれるのも英語で言う所の「Round Dance」の「Round」が「ロンド」と同じ語源に当たる事からの発展だと考えられる(はず)。これも以下に、リンク先の説明を引用しつつ、ざっくりと纏めます。

輪舞:舞曲形式の一つ。大勢が円く輪になって歌いながら踊る。民族舞踊において中心を設定し輪をなす場合,踊り手が自転するものと,単に循環するものに大別され,また宗教学的には生と死が循環する形式,輪によって包囲される中心部で犠牲が捧げられ輪をつくっている人々が贖罪される形式,神力を中心部から得る形式などに分類される。


とまあ、物語に関わりそうな部分はこの辺りでしょうか。細かく見ていくとキリがないですが、「輪舞」の生と死が循環する宗教学的形式や中心部で犠牲が捧げられ、輪を作る人々が贖罪される形式というのは、分かりやすい所で言うと、お盆の縁日で行う盆踊りなんかが代表格のようです。日本民俗学の開拓者、柳田國男の指摘するいわゆる「ハレとケ」の概念にも結び付いてくるのですが、もっとざっくりと見れば「輪舞」というのも「日常/非日常」の境を循環するものであるという見方も可能ですね。

これらを踏まえて、再生産総集編のタイトルに冠せられた「ロンド・ロンド・ロンド」という「三つのロンド(輪舞)」を「少なくとも三つの異なった主題が、特定のパターンに従ってリフレインを繰り返し、生と死(あるいは日常と非日常)が循環している」ものだと考えると、おのずとレヴュースタァライトの作品主題に当てはまって来るのではないでしょうか。


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TVアニメ版の当初より提示されている「三つの執着」。当ブログでも本当に何度も繰り返して出してきました。「舞台」「約束」「少女」へのそれぞれの「執着の物語」が作品を駆動させて、物語を突き動かしてきたことは「少女☆歌劇 レヴュースタァライト 」をここまで見てきた人間にとっては周知の事実である事でしょう。TVアニメ版全12話では9人の舞台少女たちそれぞれの「執着の物語」が大小描かれてきました。そして掲げられた「三つの執着」それぞれにひと際、強い執着を見せていたのが大場なな神楽ひかり愛城華恋の三人です。

先に説明したななはもちろん「舞台」に、ひかりと華恋はそれぞれ「約束」「少女」に強い執着を見せていました。とはいえ、ひかりと華恋については二人の関係の中に「三つの執着」すべてが詰まっているというのは以前の感想でも何度か語っています。「舞台」に対してはお互いの共通項であるので、強い志向を見せている要素が異なっているのがそのまま二人の違いにもなっているのですね。そして、ひかりと華恋でそれぞれ強調されている執着は、舞台少女として歩んできた二人のこれまでに何度もリフレインしているのです。

劇場版では華恋の舞台少女としての歩みが幼い頃から順に描写されていきますが、彼女の歩みに何度も「少女(ひかり)」の姿が事あるごとに顔を出してきてますね。その度、「見ない、聞かない、調べない」と自分の設定したルールを課して、華恋は「ひかり(少女)」から目を逸らしていた。ひかり(少女)が自分との約束を覚えているかどうかを知りたくなくて。知らなければひかりへ一方通行の手紙を出すことで「約束」は継続されていて、自分も「舞台」を頑張っていける。いつか来る「運命の舞台」に向かって。

華恋の心理を想像すると、このような思考回路が思い浮かびます。しかし一度だけ自分ルールの禁を破って、スマホでひかりの名前を検索し彼女がイギリスの王立演劇学院に入学している事を知り、同じ道を進んでいるのを確認できたことで安堵してしまうんですよね。むしろ本人に確認しないまでも「約束」を覚えていてくれた「ひかり(少女)」が華恋の中で決定的に「舞台に立つ理由」になってしまったのは、12年ぶりに再会した「振り」をしたあの瞬間だと思われます。


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対して、ひかり。当ブログのTVアニメ版8話の感想ではどちらかというと「先を行く者としての無自覚な傲慢さ」という観点で初めて「挫折」を味わったひかりが「舞台」への執着を失い、「約束」と「少女(華恋)」への執着で再生産したと読みました。しかし再生産総集編を経た今回の劇場版で、ひかりは幼少期に華恋を誘って一緒に見に行った戯曲『スタァライト』の公演で役者とその演技の凄さに気後れしてしまい、舞台少女になる事を諦めようとしていたのを華恋が繋ぎとめてくれた、という描写が新たに付け加えられていました。この描写も劇場版においてかなり重要な意味を持つものだと考えられます。

編み直された再生産総集編を通じて考えると、ひかりは華恋が繋ぎとめてくれた「約束」を胸に、舞台少女としての高みを目指して王立演劇学院に入学して、研鑽を積んでいきます。全ては「同じ舞台に立つ」という「約束」がひかりを舞台少女として奮い立たせる原動力になっていて、どんなに厳しいレッスンやカリキュラムなども乗り越えられてきた。「舞台」も「少女(華恋)」も大事だけど、ひかりにとっては「少女(華恋)」との「約束」が「舞台少女」となるきっかけであり、トリガーそのものだったというのが再生産総集編以降の舞台少女・神楽ひかりのスタンスなのだと思います。推測するに、厳しいレッスンなどで心身挫けそうな瞬間もあったろうと思うのですがその都度、ひかりは「約束」をリフレインする(思い返す)事で、心折れずに向き合えたのではないでしょうか。

このように考えていくと、大場なな神楽ひかり愛城華恋の「舞台少女である理由」はそれぞれが強く執着する対象を中心にして輪舞(ロンド)していた、というのが「ロンド・ロンド・ロンド」たる由縁なのではないかと。さらに飛躍すれば「少なくとも三つの異なった主題が、特定のパターンに従ってリフレインを繰り返し、生と死(あるいは日常と非日常)が循環する『ロンド(輪舞)』」とは聖翔音楽学園という高校生活の3年間でもあり、モラトリアムの「輪舞(ロンド)」でもありそうです。というのも、聖翔音楽学園の伝統として「一学年が一つの演目を三年間作り上げる」事も大きな括りとしての「ロンド」であり、高校生活と舞台という「日常と非日常」が三年間循環していく点からも「輪舞」なんですよね。三年間を通じて特定のパターン(戯曲『スタァライト』)を異なった主題で繰り返し、「一つの舞台」を作り上げる。聖翔音楽学園第99期生、ひいては9人の舞台少女たち、もっと言えばななとひかりと華恋が一つの大きな輪舞(ロンド)を巡っているとも言えるでしょう。

しかし大きな輪舞=モラトリアムの「輪舞(ロンド)」だと見れば、その「輪舞(ロンド)」からいずれ出ていかなければならないのもまた事実です。そこに加えて、劇場版二部作に出てくる「私たちはもう舞台の上」「私だけの舞台」といったキーワードはその事実を象徴する言葉であるとも考えられます。特に「私たちはもう舞台の上」は(強い)執着から解き放たれた者から順に口にしているのにお気付きでしょうか?


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ななは第99回聖翔祭の「みんな」で作り上げた戯曲『スタァライト』、つまり「舞台」に執着しすぎて、過去を顧みることが出来ず、未来を見ることが出来なくなった人間として描かれていますね。この後で説明するひかりや華恋とはベクトルが異なっていて、なな自身が執着している事は「舞台少女である」事とは実は強く結びついていないのが大きなポイントです。ななが執着した理由というのは、聖翔に入学するまでずっと「独り」で活動するしかなかった舞台少女が思いを同じくする「みんな」と出会って作った初めての「舞台」であるからで、大場ななという「舞台少女」がそこで生まれたからではないのです。そこを誤認して繰り返してしまっていたのがななの「再演」であり「ロンド」だった。ですから、TVアニメ版8、9話相当部分でひかりと華恋それぞれにその執着を断たれた事により日々進化する「舞台少女」に戻ることが出来たのが、大場ななという「舞台少女」が抱えていた捻じれだったのですよね。「舞台少女である理由」を錯覚していた事が原因であるからこそ、そこに気付きさえすれば容易に「ロンド」から抜け出すことが出来る人物と言えるでしょう。

しかしひかりはそうも行きません。彼女の場合は執着(ロンド)しているものが自身のパーソナリティへと結びついているからです。先に説明した通り、劇場版では華恋との「約束」がひかりの「舞台少女である理由」へと結びついていますので、その因果関係はより強固と言えるでしょう。それはTVアニメ版でも同様に描かれていますが、「レヴューオーディションに負けた者は一番大切なものを失う」というルールに基づいて、舞台に立つために必要な「キラめき」を失ったという恰好だったのに対して、劇場版二部作を通じて見ると「諦めかけていた舞台への道を華恋が繋ぎ止めてくれた」というニュアンスで「約束」が描かれているので、「約束」は「ひかりのキラめき」であり「舞台少女である理由」という風に肉付けされているのですね。


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その為に劇場版を見た後に再生産総集編を見返すと、TVアニメ8話相当のロンドン回想とレヴューシーンはひかりの執着の喪失から「私だけの舞台」を見出すまでのプロセスだと見る事も可能です。ひかりのレヴュー第二幕「華、ひらくとき」で彼女の武器であるCaliculus BrightBlossom Brightへと変化するのも、ひかりが「約束」という執着を超えて、新たに「舞台少女としての自分」を花開かせた、と見ると劇場版以降の立ち回りは頷ける所ではありますね。ひかりのパーソナリティは愚直に「舞台」へ向き合い研鑽を重ねる姿が「約束」への執着と結びついていて、「舞台少女である理由」と一致している。TVアニメ版では「死せる舞台少女」という面が強調されていましたが、再生総集編ではその辺りのくだりが全てカットされているのもあって、「舞台少女としてのひかりの物語」はより華恋の関係性に絞られていますね。再生産総集編で描かれている事だけを見て取るならば、ひかりは華恋のキラめきを守るためには、他者のキラめきを奪って運命の舞台に立つ事を厭わないのです。そうでなかったとしても、他の舞台少女のキラめきまでを守ろうという事は少なくとも考えていない。11話相当部分の真矢の言葉を借りれば「舞台少女は何度でも甦る事ができる」わけですから、誰かに守られる必要はないんですよね。

もっとも再生産総集編の12話相当部分では4話相当部分の幼少期の回想よろしく、約束タワーブリッジで舞台を貫いた華恋の押しの強さが戯曲『スタァライト』の新章を始め、押しの弱いひかりがそのまま押し切られる格好で華恋の勝利で終わる結びになっています。


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「ふたりでひとつの物語」を標榜してきたTVアニメ版においてはこの結び方で問題ないのですが、一方で華恋の執着(ロンド)である「少女」が解消されていないというのがTVアニメ版の問題点でもあるのですよね。というより、執着を解き放つ事の出来たひかりが物語を支配する華恋の強い執着(ロンド)に引きずられて、呑み込まれてしまった、と言った方が正しいかもしれません。華恋の執着(ロンド)も彼女自身の人格形成に密接に関係しているのは言うに及ばずですが、ひかり以上に愛城華恋という人物そのものを形作る、アイデンティティの領域に根付いてしまっている事が華恋の人間像を考える上での、最大の難点だと言えます。華恋にとって「舞台少女である事」は「少女(ひかり)」の存在によって担保されていて、さらには華恋が自分自身であるために必要不可欠な要素として位置付けてしまっているのです。劇中でも語られていますが、「少女(ひかり)」という華恋の構成要素を抜き取ってしまうと、華恋自身が華恋であると示すものは何もなくなってしまう。それはTVアニメ版11話相当部分での演技を続けられなくなってしまった華恋を見ても明らかでしょう。


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華恋の強い執着(ロンド)が彼女自身のアイデンティティの領域に関わっていると考えるのは、この後の行動でそれでもひかりの事を探し続けた点にあります。キラめき(執着)を奪われたのにも関わらず、それを認めずに挙句、戯曲『スタァライト』の戯曲本から真の結末を見出して、ひかりの選んだ「運命の舞台」にまで追いかけてきてしまった。華恋が「舞台少女である事」を「少女(ひかり)」の存在ありきで求めてしまっている故に、執着という強烈な磁場が発生しているのがよく分かると思います。それはもちろん、愛城華恋がこの物語の主人公にして「主演」であることも大きく起因している点でもあり、古川監督を始めとしてスタッフや華恋を演じた小山百代さん本人にも共通の問題点として浮かび上がっていた事は劇場版パンフレットのインタビューなどからも確認できます。華恋が「スパダリ(スーパーダーリン)」と評されるのもそうですが、物語の立ち回り方が「デウス・エクス・マキナ」的である事からも、華恋自体に物語の機能以上の存在感を見出すことが出来ず、その人物像においては極めて没個性だと言えます。しかしそう言い切ってしまうのも気が引けるので、愛城華恋特有の個性が見出しづらいとしておきましょうか。

「少女(ひかり)」への執着以外の華恋の特徴というのは、言ってしまえば「典型的な主人公像」であるのは否定できないでしょう。元気いっぱいで少しおっちょこちょいで好きなことに対しては一直線、成績は中の下、など枚挙にいとまがない程度には華恋を表す「典型的」なキャラクター要素が掘り出せますね。これらの要素はいわゆるテンプレートとして汎用性高く扱われている「記号」的要素だと言えます。このように人物の外見から想像されるような特徴、つまりパーソナリティにおいて華恋の人物的な独自性を見出すのはなかなか難しいと言わざるを得ません。

外面は没個性、内面は難物。愛城華恋というこの物語の主人公は、登場人物つまりキャラクターとしての立脚点がかなり複雑である事が確認できます。言葉にして語り出すと、いとも簡単に手からすり抜けていくような難しさは言うに及ばず。主役であるにもかかわらず、もとい主役であるからこそ真っ向から考えていくと五里霧中に陥っていく。「少女☆歌劇 レヴュースタァライト 」はこの論ずるのが極めて困難な人物像を主人公に据えた作品、という他ないでしょう。それゆえに劇場版で描かれるべきなのは「愛城華恋」その人であるという事も明白なのです。

スタァライト」――それは遠い星の、ずっと昔の、遙か未来のお話。
この戯曲で舞台のキラめきを浴びた二人の少女は、運命を交換しました。
「二人でスタァに」「舞台で待ってる」

普通の楽しみ、喜びを焼き尽くして、運命を果たすために。
わずか5歳で運命を溶鉱炉に。

――危険、ですねぇ。

やがて二人は再会します。
一人は悲劇の舞台に立ち続け、もう一人は飛び入り、引き離され、飛び入り、
二人の運命を書き換えて……キラめきに満ちた新章を生みだしたのでした。

もう目を焼かれて塔から落ちた少女も、幽閉されていた少女もいません。
ならば……その新章の結末は?

スタァライト」は作者不詳の物語
キラめきはどこから来て、どこに向かうのか。
そして、この物語の『主演』は誰か。

私は、それが観たいのです。

ねぇ――聖翔音楽学園三年生、愛城華恋さん?


                    ~劇場版公式サイトよりイントロダクションを抜粋~


ここで引用したいのが劇場版公式サイトに載っているイントロダクションの文章。キリンの口調で綴られるこの文章はTVアニメ版(を経た再生産総集編)の総括を行いつつも、劇場版で繰り広げられる新たな物語を仄めかしている内容となっています。その点についてはなんら疑いの余地はないでしょう。ここで注目したいのは『(戯曲)スタァライトは作者不詳の物語』という点と『新章を生みだした』という点です。察しの良い方はこれでお気付きになるかもしれませんが、元からある戯曲『スタァライト』は作者不詳の物語である一方で新たに生み出された新章には明確に作者が存在しているのですね。

──────ですが、戯曲『スタァライト』は作者不詳。
あなたたちが終わりの続きを始めた。ならば……分かります。


(中略)


始まります、観客の望んだ『新章』の続き、舞台が求める新たな『最終章』───
ワイルドスクリーン・バロックを。


  ~再生産総集編「少女☆歌劇 レヴュースタァライト ロンド・ロンド・ロンド」より台詞抜粋~


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作者不詳の戯曲『スタァライト』に続章であるところの『新章』、つまり新たな『最終章』、ワイルドスクリーン・バロックを付け加えたのはTVアニメ最終話(また再生産総集編クライマックス)における愛城華恋その人なのです。厳密にいえば、戯曲『スタァライト』の筋を演じ切ろうとしたひかりに対して、戯曲に提示された結末を否定し、その結末に秘められている可能性に言及してしまったのが華恋、という事になります。

(華恋)
スタァライト』は必ず別れる悲劇───

でも、そうじゃなかった結末もあるはず
塔から落ちたけど、立ち上がったフローラもいるはず。
クレールに会うために! もう一度塔に登ったフローラが!


(キリン)
───終わりのない運命の舞台。
結末の続きが始まる?
運命の舞台の、再生産……!


  ~再生産総集編「少女☆歌劇 レヴュースタァライト ロンド・ロンド・ロンド」より台詞抜粋~


赤字で示した華恋の台詞こそが、TVアニメ版最終回を経て、再生産総集編が描かれ、さらに劇場版という新たな『最終章』のスタートラインであり、同時に物語の綻びを生んだ一言だったのです。戯曲『スタァライト』は作者不詳、しかし『新章』ワイルドスクリーン・バロックはまさしく華恋の生み出した物語であるとはっきりと断言できます。そして新たな『物語』を始めたことにより新たな結末に向かって、その幕を下ろす原作者としての責任を愛城華恋は図らずも背負ってしまったのです。

しかし、『新章』を生み出してしまった事によって華恋は新たな、もとい以前より持っていた問題点が顕在化する事になります。以下にブログの過去の感想を引用します。


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(なな)B組が裏方として支えて、私たちA組が歌って演じる。
99期生全員で作った私たちだけの舞台。まったく同じ舞台はもうできないのかな…。
(華恋)その舞台には私は立てないかな (略) だって舞台は生き物。同じスタァライトでもまったく同じ舞台なんてあり得ないもん (略) ここは舞台、私の舞台

~7話より台詞抜粋~


先に挙げた真矢とばななの会話と同じやりとりを華恋に投げかけると、こう返ってきます。真矢と同じ答えを言っているのも興味深い所ですが、注目したいところは「舞台は生き物」と「私の舞台」という2点。
華恋が真矢と微妙に違う点は、舞台に対する捉え方でしょう。真矢は「主役の座をかけて争い、勝ち抜くことで立てる場所」というニュアンスが強く、相手(ばなな)にもそれが強く求められていますが、華恋は「生き物」と表すことで自らが立つ「舞台」と舞台に立つ「自分」をイコールで結んでいるわけです。

だからこそ、「私の舞台」というのは華恋にとっては、今立っている場所こそが「自分の舞台」であり、なによりその舞台を演じているのは愛城華恋という一人の人間(生き物)であるという事。「舞台が生き物」であるという事は翻って、「生き物(人間=舞台少女)の生き様」こそが「舞台(演劇)」である事に他なりません。
舞台少女が立つ場所こそが「舞台」であり、その生き様こそが「演劇」である。どんな演目を舞台で演じようとも、舞台少女という「生き物」は日々進化中であるからこそ、同じ演目を演じても以前とはまったく同じにならないしあり得ない、という事なのです。


                                   ~9話感想より抜粋~


この華恋が「舞台」そのものをどう捉えているか、というTVアニメ版7話のくだりは再生産総集編では丸々省かれています。しかしここの場面で語られている事は劇場版を考えるうえで極めて重要な部分だと考えています。むしろ劇場版のテーマを見ていく上で、ここを残しておくと重複表現になってしまい、映画のテーマ軸がブレかねないほどに、真意に迫っている箇所でしょう。

ご覧いただいているように、この時点ですでに華恋が「私の舞台」に言及しているというのが、まず一点。次に自らが立つ「舞台」と舞台に立つ「自分」をイコールで結んでいる点。最後に「舞台が生き物」である事から飛躍して「生き物(人間=舞台少女)の生き様」こそが「舞台(演劇)」だと認識しているという三点です。

華恋がこの場面で語っている論法では「私の舞台」イコール「舞台少女の生き様」であり、つまりそれは「舞台(演劇)で繰り広げられる物語」こそが「私の生き様」というロジックが成立しているのがとてつもなく重要なのです。改めて、劇場版のイントロダクションなどで語られている『新章』ワイルドスクリーン・バロックに振り返ってみれば、この『新章』の作者は戯曲『スタァライト』の結末に無数の可能性を開いてしまった愛城華恋であり、同時に「ワイルドスクリーン・バロック」という新章の『主演』も愛城華恋であり、その物語が繰り広げられる「舞台(演劇)」そのものも、愛城華恋の生き様に結びついた「私だけの舞台」である事が見えてくるはずです。『新章』ワイルドスクリーン・バロック=愛城華恋の生き様=「私だけの舞台」と考える事で、初めて劇場版は「愛城華恋が自らの生き様を演じる物語」、つまりは「愛城華恋の物語」であると確認できるのですね。

ただし「愛城華恋の物語」である点においては一つ問題点があって、そこをつまびらかに指摘している作品も存在しています。昨年2020年7月にネット配信されたオンライン公演(通称:舞台#2.5)です。現在は青嵐総合芸術院シングル「Blue Anthem」の初回限定盤を購入すれば、見ることが可能ですね。ここで描かれる物語は舞台版#3の前日譚でありますが、劇場版を見る上でも示唆的な内容となっている事が窺えます。


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当ブログの再生産総集編インプレッション記事でオンライン公演の内容に触れていますので、以下に抜粋・引用します。

最上級生になる99期生たちが新入生の歓迎レクリエーションで実技演習と物語解釈を披露することとなり、物語解釈に華恋が指名された。が、ひかり以外の7人は1年時の忌まわしい記憶を思い出すこととなり……


ほとんどオンライン公演の内容になっちゃいますが、非常に重要なのは1年時の時も、次の3年時の演習も物語解釈を華恋が担当しているのです。ここでの物語解釈とは、「みんなのよく知る物語(※ここでは昔話の「桃太郎」)を独自に解釈して舞台を構築する」事。つまり華恋が脚本と舞台演出を一手に担うわけです。で、先の呟きでは案の定、華恋の物語解釈、つまりは彼女の解釈する「舞台」が神楽ひかりそのものであったために、あらぬ方向へ話が飛んでしまい、訳の分からない周囲が右往左往して、めちゃくちゃになってしまったという顛末。


ここで重要なのは赤字でも示したように実技演習であるにせよ華恋が脚本と舞台演出を行っているという点です。劇場版の内容を踏まえて考えると、このオンライン公演において描かれているのは華恋自身に「舞台」を演出する能力が皆無である事に尽きます。というより「舞台」への思い入れが強すぎて、物語を解釈する視点があまりにも主観的に過ぎる、と言った方が良いかもしれません。主観的過ぎるがゆえに「舞台」を客観視したり、俯瞰して捉えることが出来ず、「物語解釈」として扱う事となった「桃太郎」の物語がめちゃくちゃになってしまった。翻ってみれば、「定番の筋立てに対して独自の観点で舞台を展開する」事は出来ているのですが、それを演出でまとめ上げる事が出来ていないので結果、空中分解しているのですよね。「ひとりだけでは舞台を作り上げることは出来ない」を地で行っているわけです。

このオンライン公演の内容を踏まえると先に述べた通り、劇場版の物語構造は強烈に「愛城華恋の物語」である一方、劇場版で描かれる物語の舞台(演劇)かつ主演で原作者の華恋には「舞台」を演出する能力が乏しいのがすでに提示されているのですよね。もっと言えば、華恋自身の「私だけの舞台」を作り上げる為には華恋ひとりの力だけでは不可能であるという事もオンライン公演によって明らかになっているわけです。


華恋の演出能力の欠如についてはもう一つ具体例を提示しておきましょう。スマホゲーム「少女☆歌劇 レヴュースタァライト -Re LIVE-」で19年9月に開催されたイベントストーリー「広がれ宇宙!?遥かなるルネサンス。今年21年5月にもリバイバルという形で復刻されていましたが、ここで描かれる内容を見ていくとオンライン公演と同様の問題が出ている事が確認できます。


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内容をざっくり説明すると、聖翔OGたちが過去に書き上げた脚本を使って短編舞台を実技演習する「基礎演劇概論Ⅱ」。その講義を華恋・ひかり・まひるの組み合わせで行う事となり、「遥かなるルネサンス」という作品の脚本が振り分けられた。しかし、その脚本は聖翔に残された数ある脚本の中でも一、二を争うほど難物な脚本である事が分かり、途方に暮れる三人はまず「ルネサンスとは何か」という所から調べてることになった、という筋立て。


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真矢が上記画像で説明しているように「基礎演劇概論Ⅱ」は「昔の脚本を元に、内容を解釈し、演者がどのようなアプローチを取って役を演じるのかを見る講義」であるのが分かりますが、華恋たちの演じる「遥かなるルネサンス」は3世紀近くに渡るルネサンスの歴史を短い脚本の中に凝縮した難解な内容で、情報が過剰に詰め込まれている反面、ルネサンスの本質やそこに解釈すべきテーマや物語が描かれていないという厄介なホンなんですよね。三人も当然、どう演じたらいいのかと頭を抱えてしまいます。脚本に描かれているレオナルド・ダ・ヴィンチモナリザのエピソードを試しに演じても、どこが「ルネサンス」なのかが分からずじまいで、演劇としてもなにも面白くない。さあ、困った。


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そんな中、糸口を掴んだのはまひる。他のグループが脚本に対しての創意工夫を凝らす中で「ダ・ヴィンチの今までの常識に囚われない意識」に気付き、それが「ルネサンスの本質」だという事に辿り着けた。辿り着いた先がコロッケなのはこの際、色々仔細を省きますが。そこに華恋もいたく共鳴して、これこそがルネサンスと言わんばかりの勢い。そこにひかりも同意して、「今までの常識に囚われず、新しい発想を模索する事=ルネサンス」と位置付けて、短編舞台を演じる方向性が定まったのでした。

以上の事からも分かるように、この「基礎演劇概論Ⅱ」のエピソードで課題となった難解な脚本の物語解釈をしているのは華恋ではなくまひるなんですよね。脚本に描かれている内容を汲んで、そこから演じられる物語と演技の取っ掛かりをまひるは掴んでいるのです。オンライン公演での華恋と比べるべくもなく、課題脚本の物語解釈にしっかりと客観を持って、その中で自分をどう演じるのかまでを確認できているように思えます。まひるの気付きを得て、はじめて華恋も「ルネサンス」がどういうものであるかを実感できたのですね。ひかりと一緒に戯曲『スタァライト』の舞台に立つ事以外に舞台少女としての生きがいを感じられない華恋にとっては、それ以外の舞台のインプットを自分で行えないのだと思います。誰かの手助けがあって、作品や脚本にあるテーマや物語意図を掴めるようになる。恐らく華恋って演技指導がしっかりしていると、その通りに演じる事の出来る技量はある一方で自分の内からそれを見出すことには長けていないんじゃないかと。それは同時に自分を客観視できていないという事を意味してて、オンライン公演の物語解釈がひどく主観的なものとなっている原因なのでしょう。

しかし一方で、華恋にはこんな評価も出ている事にも着目しておきたいです。以下も、上記の引用と同じく出典は「少女☆歌劇 レヴュースタァライト -Re LIVE-」からです。


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本番の実技演習では全グループ中最下位の成績ではあったものの、舞台創造科であるB組からは華恋たちの短編舞台は高く評価されているのですね。しかも「脚本を再構築して、テーマを浮き彫りにする」というポイントで評価されている。このB組の高評価はTVアニメ版最終回で戯曲『スタァライト』の結末を覆した、華恋の演技への評価にも見て取れます。もちろん舞台創造科の生徒たちがあのレヴューオーディションを見ているわけもないのですが、少なくとも華恋の演技力にはそういう力があるというのがこの評価からも分かります。オンライン公演での「定番の筋立てに対して独自の観点で舞台を展開する」事が「遥かなるルネサンス*3」においては、ある程度成功しているわけですね。恐らくそれは物語(脚本)を解釈する人間(まひる)が別にいたから、その物語解釈を導線にさらに華恋の演技力によって、難解な脚本からテーマを浮かび上がらせることが出来た結果なのだと思います。ゆえに華恋は合点がいっている作品や物語に対しては、その演技力を持って、即興的に自分の思い描いている筋書きへと手繰り寄せる事が可能な舞台少女だと言えます。お膳立てがしっかりしていると、そこからプラスアルファして、作品の込められたテーマやメッセージを発展させてしまう事に長けているのは、TVアニメ版最終回を見ての通りでしょう。またTVアニメ版3話相当部分の真矢とのレヴューで全く歯が立たなかったのも、真矢と華恋の役者特性が対極だったから、だと言えそうです*4

ここまで語ってきた中で、愛城華恋という舞台少女の特性を美点欠点、その両方をつまびらかにしてきました。分かった事といえば華恋はどこまでも役者・演者であって、舞台の演出家ではない、というただそれだけの事なのです。しかし、そんな舞台少女が戯曲『スタァライト』の結末の「その先」を生み出してしまった。『新章』の扉が開いてしまったからには、物語を閉じなくてはならない。しかし、先に語ったように愛城華恋には物語を演出する能力はないに等しい。華恋の作り出した、そして主演する『新章』、つまりワイルドスクリーンバロックを完成させるには演出家が必要不可欠なのです。そんな役割を担うことが出来る者はレヴューオーディションに参加した舞台少女の中にただ一人です。


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大場なな

彼女を置いて他にいません。再生産総集編の新規パートは全てこれから始まる劇場版の舞台裏であり、その演出家であるななが劇場版のお膳立てとして、TVアニメ版の再生産をロンドし続けていたというのが事の顛末なのでしょう。恐らくTVアニメ版でのロンドとは違う、「愛城華恋の物語」を結ぶためのロンドを繰り返していたと考えられてます。そのロンドの先に見えたのが「舞台少女(=華恋)の死」であり、同時に「舞台(=ワイルドスクリーンバロック=愛城華恋の生き様=「私だけの舞台」)の死」でもあるのですね。演出家であるななはさっそく方策を講じます。


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「華恋(舞台少女)の死」を防ぐために、TVアニメ版最終回での「そうじゃなかった結末もあるはず」という華恋の即興的な飛躍を逆手にとって、「星摘みの塔に閉じ込められたままのクレール」ではなく「星摘みの塔を自ら下り、フローラに会いに行ったクレール」をひかりに演じさせることで、華恋の「少女」への執着を断ち切ろうとしたのです。同時に「必ず別れる悲劇」である戯曲『スタァライト』本来の筋立てへと軌道修正した上で、華恋によって舞台が引っ張られてしまう事に歯止めをかけている。これはTVアニメ版最終回や舞台#2へのルートに向かう事を意図して回避させる為に仕掛けた、演出ではないでしょうか。

つまり「愛城華恋の物語」を全うするためにはすでに結論の見えている、TVアニメ版最終話ではいけないわけです。「少女」への執着を断たれない限り、舞台少女「愛城華恋」自身の物語は始まらないのですから。その為に、ひかりに「星摘みの塔を下りたクレール」の演技をななは要求した。……というのは筆者の想像でしかありませんが、再生産総集編での一連の新規パートを眺める限りでは、新規作画部分のラストパートでなながひかりを待っていた事とエピローグのヒキでひかりが「私たちはもう舞台の上」と言い放つ間に、ななとなにかしらのやり取りがあったと推察するのは難しくないでしょう。さらに「私たちはもう舞台の上」と最初に言い出したのは、再生産総集編でのななである事からも、彼女が劇場版、というより『新章』ワイルドスクリーンバロックのカギを握る存在であるのも明らかです。これは「舞台である」事にいち早く気付いた、ななだからこそ「愛城華恋の物語」を俯瞰できているし、「舞台」の中にその身を置いた時に演じる「役割」も自覚できている。劇場版における「ななの役目」は舞台の外と内にそれぞれあって、彼女は進んでその役目を果たそうとしているのです。

ななの役目については次項以降に説明を譲りますが、(作中においてはななが仕掛けただろう)劇場版アバンタイトルの演出によって、華恋に今までにない「変化」が訪れる事となります。それこそが劇場版における最初のクライマックスポイントだと筆者は認識しています。


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101期生(新一年生)に実技演習のお手本として、純那と一緒に「遥かなるエルドラド」の演技を披露してみせるシーンですね。純那演じる主人公サルヴァトーレに対して、華恋はその友人役であるアレハンドロを演じています。祖国イスパニアを離れ、大海原へと旅立とうとするサルヴァトーレを、アレハンドロは引き止めるよう説得するが彼は意に介さず、まだ見ぬ冒険の旅に胸躍らせる場面を二人で演じています。ここのシークエンスはTVアニメ版第1話、ひいては第2話での華恋と純那のレヴューオーディションのリフレインであるのと同時に、劇場版のアバンタイトル以降に繰り広げられる99期生の進路面談がオーバーラップされていて、華恋のみ進路希望用紙を白紙のまま提出している事が分かる場面ですが、アレハンドロのセリフ自体が華恋の心情表現と結びついていて、白紙提出した理由となって表現されている所でもありますね。

ワイルドスクリーンバロックの前段階として、アバンタイトルで描かれた「ひかりとの別離」を経た華恋が「(サルヴァトーレとひかりを重ねて)置いていかれる私はどうなってしまうのか」*5と嘆き「友よ」と哀しみに暮れるその一連の演技は真に迫っていたのか、見ていた101期生の涙を誘い、華恋に拍手喝采を浴びせます。当の本人はそれに気付くと戸惑いながらも苦笑い、という描写。

この喝采を浴びる華恋、というのが極めて重要なのです。ここだけ明確にTVアニメ版、ひいては再生産総集編とは一線を画す描写だという事はお分かりでしょうか。


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「ひかりとの別離」を経験した華恋がTVアニメ版、再生産総集編ではどうなったか。先の説明でも触れましたが、結果としてひかりにキラめきを奪われて、舞台を、演技を続ける事への情熱を失ってしまった様子が描かれていましたね。しかし劇場版は「ひかりとの別離」に左右されずに、実技演習での「遥かなるエルドラド」のアレハンドロを見事に演じ切って*6101期生たちを魅了しているんですよ……! これは極めてドラスティックな変化だと言えます。アバンタイトルで仕掛けた『演出』は、華恋から「少女」に対する強い執着を切り離す事に成功している。ひかりへの執着以上に、華恋自身が舞台少女として積み上げてきた研鑽によって、自らを輝かせている姿をここに見ることが出来ますね。このワンシーンは作中最重要描写だと筆者は断言します。

問題があるとすれば、この時点で華恋自身がその事に全くの無自覚であるという事です。舞台少女として積み上げてきたものに対して、それを生かす場所がどこなのか。つまり「私だけの舞台」はどこにあるのか。舞台少女・愛城華恋は劇場版を通じて問われていく事となります。

しかし、ここまで説明してきた通り、華恋は自分を客観視する事ができない、ひいては自分の内面にある本心を引き出す事に長けていないという難点を抱えています。つまり自己演出が上手くないわけです。さらには劇場版は「舞台(=ワイルドスクリーンバロック=愛城華恋の生き様=「私だけの舞台」)」である事から華恋には舞台を終わらせる責任がありますが、舞台を演出する能力は皆無な以上、ひとりだけでは舞台を作り上げることは出来ないのは間違いないでしょう。そう考えていくと、この劇場版の描こうとしている「愛城華恋(舞台少女)の物語」はどのように描かれていくのかが見えてくるでしょう。

次項はそこに触れながら、さらに物語を掘り下げていこうと思います。


以下、第二幕へ……!

*1:当然ながら21年6月4日朝イチの回を鑑賞。そこから2か月と20日か……。その後初日と合わせて計5回ほど鑑賞してます

*2:書いている間に動画が非公開に。書くのが遅いからだ

*3:ちなみにルネサンス「再生」や「復活」を意味するフランス語

*4:真矢の方は見ている感じ、『ガラスの仮面』よろしく「千の仮面」を持って役者同士が演技を高めあい、筋立て通り舞台を演じ切る事に重きを置いてそう

*5:意訳です

*6:しかも主役のサルヴァトーレを演じていたはずの純那を食って

音楽鑑賞履歴(2021年7月) No.1430~1431


月一恒例の音楽鑑賞履歴。
また2枚です。とりあえず8月更新分からまた方針を考えるにして、定期更新を続けていきたいと思います。履歴なので、特に何も話さなくても良いのですがとりあえずは義務にならないような運営をしていきたい所。
では以下より履歴です。



音楽鑑賞履歴(2021年6月) No.1428~1429

月一恒例の音楽鑑賞履歴。

2枚。
また月末に更新する感じになってしまってますが、一応定期更新の体を保ちたいので更新しておきます。
ちょっとまた方針を考えることにして、以下より履歴です。




音楽鑑賞履歴(2021年5月) No.1425~1427

月一恒例の音楽鑑賞履歴。

3枚。少しだけ聞けました。
Spotifyで色々聞いているのは変わらず、フィジカルで聞くという事がやや億劫になってるのかなとも思いますが、聞きたくて買ってるCDなのでぼちぼち聞いていきたいですね。
けどまあ、聞いたのは所持盤だったりするのですが。


というわけで以下より履歴です。

LOVELESS

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劇場版「少女☆歌劇 レヴュースタァライト 」への希望的観測 ~愛城華恋の舞台へ辿り着くために~

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今回は希望的観測と銘打っている通り、「こうであったらいいな」という願望と予測を込めた記事となります。一筆お付き合いいただければ幸いです。


《はじめに》


現状、2021年の5/21公開予定である*1劇場版「少女☆歌劇 レヴュースタァライト
本ブログでは以下の関連記事で、どういった内容になるのかを考えてきました。

terry-rice88injazz.hatenablog.jp
terry-rice88injazz.hatenablog.jp
terry-rice88injazz.hatenablog.jp


舞台#2の感想記事を入れているのにはあとで触れるとして、どんな事を書いているのかは一番上の再生産総集編「ロンド・ロンド・ロンド」の感想記事を参照いただければ、ざっと把握することが可能です。というか、記事の中に同じ記事リンクを張り付けていますので、今書いているこの記事から飛ばなくても大丈夫です。

一口に言ってしまえば「愛城華恋という舞台少女の行く末とは?」という話題をずっと考えているわけなのですが、その困難さについてもこれらの記事で問題にしてきました。


revuestarlight.com


そしてここに来て、公開直前企画としてキャストインタビューが公開され、愛城華恋を演じる小山百代さんから以下のような発言が。

小山 これまでのテレビアニメで華恋は、他の子たちの物語の触媒のようなポジションだったんですけど、新作劇場版ではついに、ひとりの女の子として深掘りされる展開が描かれます。


ついにです。
ついにこの作品、物語の本丸である「愛城華恋の物語」が描かれようとしている。思えば5年前の9月に渋谷のAIIAシアターで舞台#1を見に行って以来、ずっと心待ちにしていた展開がようやく届くのだという思いで胸がいっぱいになります。おそらくあの頃から追っているファンは多かれ少なかれ、感じているものでしょう。ここまで本当に色々ありましたが、いよいよその幕が開かれる時がやってきます。

で、今回の記事は何を書くのかと言いますと。その愛城華恋が「私だけの舞台」にたどり着くために進む道、そうではない道を見ていきたいと思うのです。これから語ることが映画で語られるかどうかは分かりません。が、実は作品内でそれらはすでに提示されていると筆者は考えています。それは無論「ここを拾ってくれたら感無量だなあ」という個人的な願望に過ぎません。また都合の良い希望的観測であることも否定しません。しかし人の考える事である以上、当たらずとも遠からずになっていればいいなという気持ちで書き連ねてみようと思います。

なおこれから語ることは基本的にここまで展開されてきたTVアニメ及び舞台の全てを見ている前提で語りますので、当然のことながらネタバレとなります。それを考慮した上で読み進め下さい。


《『ふたりでひとつ』の舞台ではなく『ひとりだけ』の舞台》



www.youtube.com

愛城華恋は次の舞台へ……!


劇場版の本予告最後に聞こえてくる華恋の印象的なフレーズ。これは舞台版で「私たちは次の舞台へ……!」と締める華恋の台詞を言い換えたものであるわけですが、今回語る事の前提としてまずここから切り出してきましょう。



www.youtube.com


劇場版の特報においても、また再生産総集編でもピックアップされている「私だけの舞台」。それは劇場版で描かれるだろう「愛城華恋の舞台」である事が示唆されていますが、アニメ版の「少女☆歌劇 レヴュースタァライト 」においてこの「私だけの舞台」というのは作品的に大きなシフトチェンジを起こしているのが分かると思います。 

TVアニメ版では「ふたりでひとつの物語」と語られていたように、戯曲『スタァライト』の主演を巡って、レヴューオーディションが行われ、トップスタァの座が争われていたのは言うに及ばずでしょう。それはもちろん戯曲『スタァライト』の主役、フローラとクレールの二人の織り成す悲劇を指して「ふたりでひとつの物語」であり、華恋とひかりを始めTVアニメ全12話で描かれた、聖翔音楽学園俳優育成科、スタァライト九九組の9人の中で分かれる各コンビが繰り広げるドラマを指しての「ふたりでひとつの物語」でもあるのです。対比に次ぐ対比を重ねていくこの作品の特徴らしく、劇中劇と作中人物の関係、ひいてはTVアニメ版全体に掛かっているテーマの一つだと言えるでしょう。

この大枠のテーマが映画「少女☆歌劇 レヴュースタァライト 」二部作(と敢えて言います)では「私だけの舞台」へと推移しています。これはどういうことなのか。再生産総集編においても「ふたりでひとつ」というフレーズは出てきていますが、TVアニメ版に比べ強調されておらず、どちらかといえば華恋とひかりの関係性の強さを表す言葉として浮かび上がってきています。それが戯曲『スタァライト』の筋書きとも重なっていくという風に編み直されたのが再生産総集編であるのだと筆者は見ています。

実は、というのもアレですがこの「ふたりでひとつの物語」というのはアニメ版独自の肉付けであり、舞台版においてはことさら強調されている要素でもないのです。もちろん舞台版も舞台版で、華恋たち舞台少女の主役を賭けたキラめきの奪い合いが描かれていくわけですが、そこに付随する形でそれぞれの因縁が絡んでいくという演目なので、「ふたりでひとつ」という印象はかなり薄いんですよね。あくまで物語やレヴューオーディションを盛り上げる一要素であって、そこが主軸ではない。ですから、華恋とひかりの関係性もお互いに影響しあっているけど、絶対不可欠な存在ではない、と筆者は考えています。舞台版、特に#1は華恋とひかりの出会いによって物語が大きく動いていきますが、華恋もひかりも既にそれぞれ独立した舞台少女であり、かつての幼馴染として再会することによって発生する化学反応が主体の物語でしたね。「ふたりでひとつ」のような切っても切り離せない関係性というよりは「ひかりとの再会ときっかけが重なって、華恋が一方的に本領を発揮しだした」という色合いの方が強く出ているように見えます。ひかりという要素が加味されることで、華恋が物語において存在感を放ち始めるのは舞台版・TVアニメ版ともに共通はしていますが、異なっている点があるとすればそれは華恋のひかりに対する依存度の差ではないかと。


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つまり神楽ひかりへの「執着」です。
TVアニメ版のテーマとして大きく取り上げられ、本ブログでも幾度となく取り上げてきた「三つの執着」。TVアニメ版ではこの三つの執着を巡って、舞台少女たちがそれぞれの執着を巡って、物語が紡がれてきました。しかし「華恋の執着の物語」において「舞台」「約束」「少女」はすべて神楽ひかりに集約されているのです。しかし同時にひかりも「華恋への執着の物語」で持って回っており、TVアニメは「ひかりの執着の物語」に付随する形で「華恋の執着の物語」は消化され、幕を閉じました。「ふたりでひとつの物語」を掲げていたTVアニメ版ゆえに、彼女たち二人の関係は表裏一体であり、一方を語れば、それはもう一方を語っているのと同義なのです。華恋のあらゆる物事の中心にはひかりが立っていて、ひかりの目的と行動意識の中心には華恋が立っている。互いが互いへの「執着」で依存しあっており、それが幼い頃の「運命の交換」によって成立している、というのがTVアニメ版の大まかな顛末と言えるでしょう。

舞台#2-Transition-ではTVアニメ最終回の内容を受け、華恋が「聖翔祭ロス」に陥っている所から始まっていますが、これは華恋・ひかりの両者がその「執着」を認め合った上で、「一緒に同じ舞台に立つ」目標も達成されてしまったからですね。言ってしまえば、華恋とひかりの間に存在していた「執着」は第100回聖翔祭の公演で戯曲『スタァライト』の主演を演じた時点で清算されている状態なので、舞台に立つ事への飢餓感、ハングリー精神が満たされてしまった、というのは劇中でも指摘されている通りです。ただしそれは華恋に限った話で、ひかりの方はTVアニメ版で「華恋への執着」を解消できている(キラめきが再生産できたことも含めて、舞台と自分の役割・関係を捉える事が出来る)のでよりスムーズに対応できているのに対して、TVアニメ版を通じて「ひかりと同じ舞台に立つ」事が最優先事項だった華恋は、舞台少女としての最大の目標を失っているため、そのキラめきを再び輝かせるには新たな目標が必要となってきます。しかし舞台#2では、青嵐メンバーを含む舞台少女全体の「現在進行形の『青春』」を肯定することに終始していたため、華恋の問題点はいったん保留され、「愛城華恋の物語」はまた振出しに戻った、というのが舞台版本編に描かれた内容でした。TVアニメ版最終回以後の物語として「ふたりでひとつの物語」が引き起こした問題点に対して、華恋個人「私(たち)はまだ夢の途中」であるという事をしっかり示したことに重きがあったのではないのかと考えています。筆者が舞台#2の感想記事で華恋周りの話を「不完全燃焼」だと言ったのもこの辺の伸び悩みを感じ取っていったからに他なりません。

これらの事を踏まえると、劇場版は「ふたりでひとつの物語」を解体し、なおかつ「執着の物語」ではない「運命の物語」が展開されるのではないか? と、見ています。というのも、舞台版はともかく、TVアニメ版は「ふたりでひとつの物語」であり「執着の物語」だと見定めた事によって、結果的に愛城華恋というキャラクターの可能性を狭めてしまったとも言えるんですよね。舞台#1で、ひかりと再会したことが化学反応となって強くキラめき始めた華恋の可能性を見た人々は筆者を含めて、みんなスタァライトされたものだと思っています。反面、ひかりとの関係性が強固になり、いつか一緒の舞台に立つ「約束」に執着を見せるTVアニメ版での華恋は最終回でそれが成就してしまった。舞台#1で見せた華恋の余白(可能性)がTVアニメ版で全て回収されてしまったせいで、それを引き継いだ舞台#2が「愛城華恋の物語」をリセットするしかなかったという流れなのだと思います。この辺は「二層式展開少女歌劇」と銘打った作品にしか発生しえない齟齬だと見て間違いないでしょう。

ですから、劇場版の予告や先行公開されたキャストインタビュー(ひいては劇場版が発表になった際に、古川監督がTwitterで呟いた)で「私だけの舞台」「華恋が深堀りされる物語」「舞台少女の物語」という風に喧伝されているのはそういう事なのだろうと思われます。「あの舞台」や「あの約束」ましてや「あの少女」にも「執着」しない、舞台少女・愛城華恋の目指す「私だけの舞台」を彼女は見つけなければならないのです。その「私だけの舞台」に至る「運命の物語」こそが劇場版「少女☆歌劇 レヴュースタァライトなのです。

鍵のない車はうごけないまま錆びていく。
鍵はどこだ?カギ、カギ、鍵は一体、どこなんだあ!!

                 ~鳳 暁生 『少女革命ウテナ アドゥレセンス黙示録』より~


この台詞が出てくる『少女革命ウテナ アドゥレセンス黙示録』も天上ウテナの内面を掘り下げる話でありましたが、劇場版「少女☆歌劇 レヴュースタァライト 」も同じように愛城華恋の内面を掘り下げていく、なおかつ彼女の行く末を見届ける物語だろうと筆者は考えています。

「ふたりでひとつの舞台」から「ひとり(私)だけの舞台」へ。
これが劇場版二部作の大前提です。
TVアニメ版とは様相が異なる物語が展開されようとしているわけです。再生産総集編を経て、予告のセリフの通り「愛城華恋は次の舞台へ」向かわなければなりません。では、華恋が向かうべき「次の舞台」とはいったいどこにあるのでしょうか。その回答はフタを開けてみなければ分かりませんが、先んじて舞台版やTVアニメ版で提示されている、と思われる道筋が存在しているのでそれを見ていきたいと思います。

冒頭にも書いた通り「私だけの舞台」にたどり着くための、進むべき道進むべきではない道
まずは舞台#2の話から進めていきたいと思います。



《バッドエンドとしての八雲響子》


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なぜ舞台#2-Transition-の話から始めるのかというと。華恋が「私だけの舞台」へと進むべきではない道の先には、青嵐総合芸術院八雲響子先生がいるからと言って過言ではないからです。舞台#2では華恋が自身の物語を仕切り直すという構図が組み込まれているのは先に説明しましたが、仕切り直すために対峙しなければならない人物が2名ほど登場してきているのです。一人は柳小春、そしてもう一人が八雲響子です。


terry-rice88injazz.hatenablog.jp
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柳小春と華恋の対比については、こちらの再生産総集編の記事にも引用した武器解説の記事で語っています。何度も同じ箇所を参照して大変申し訳ないですが、大切なので引用します。

また舞台#2でも語られているように、「仲間に気を使って、自分がやりたいと言い出せない」ために役を演じたいという飢餓感に欠ける気質であることが指摘されています。ここまで書くと、なんとなく見えてきますが小春と対比になっているのは実は華恋なんですよね。それも物語が始まる以前の華恋です。舞台においてもアニメにおいても華恋は当初「主役を手にする興味もない」と揶揄される人物であるのが明示されていますが、小春はその天性と気質ゆえに自ら前に立つことはなく、他者が選び出した結果に乗っかっていたのみに過ぎない、という描写が舞台#2のコミカライズで脚色されていて作品への上手な肉付けとなっているのですが、当初の華恋が「主役を手にする興味」もなかったのに対して、小春は「望まなくても主役を手にしてしまえた」のが大きな違いなのです。両者とも役を演じたいと言う飢餓感に欠ける点では共通している。もっとも華恋はひかりとスタァライトを演じることに対して強い想いがありますが、アニメでそれも達成してしまい、スタァライトロスになり、舞台少女としての「先」が見えなくなっている状態である事が舞台#2のテーマして浮かび上がってきています。そういう点で、小春はかつての華恋の影を背負っている人物でもあるわけですね。強い想いに欠け、舞台少女としての「先」が見えない、その共通項を別角度から眺めている印象です。


リンク先の記事で詳細に説明してますので仔細は省きますが一口に言ってしまうと、小春は「華恋の過去」を背負っているキャラとして配置されていて、舞台#2での華恋との対比が組み込まれている、というのが上記引用の説明です。『与えられた』舞台(と役)を何でもこなすことが出来るが、自発的に舞台や役を渇望するという欲がない小春とやりたい舞台と役柄があるにもかかわらず(恐らく戯曲『スタァライト』以外の演目には)主役を手にする興味がなかった華恋。小春とひかりと再会する以前の華恋、正反対の立場ではありますが舞台に対する飢餓感に欠ける点では二人の像は重なっています。舞台#2の華恋は「聖翔祭ロス」となって、舞台少女としての「情熱」を見失っている点から以前に逆戻りしている状態である事からも、小春の中にある問題点は実は華恋にも跳ね返ってきているのです(ベクトルはもちろん異なりますが)。

華恋の立場からは「(舞台#2時点の)現在」と「過去(小春)」が交差して、彼女に「舞台少女とは?」を問いかけられているというのが舞台#2-Transition-の物語であると思うのですよね。華恋はその問いに対して、「まだ夢の途中」であると結論を先延ばししてしまっているわけなのですが反面、舞台#2においては「舞台少女」としての華恋がリスタートを切ったという見方も可能なんですよね。というのはTVアニメ版の展開を「聖翔祭ロス」として処理しているので、一旦持てる全てを出し切ってしまっているから、華恋は「舞台少女」として燃え尽きてしまっているんですよ。これを再生産総集編っぽく言えば、「舞台少女の死」という風にも受け取ることは可能なんですが、なんにせよ舞台#2では華恋はTVアニメや舞台#1の地点から後退してしまった、と筆者は見ています。それ故に前の項でも語ったように、マイナス地点からスタートラインに戻る話が舞台#2の物語だった一方で、舞台への飢餓感に欠ける小春から「過去の影」を見出して、「現在の自分」との違いに気付く事で「私(舞台少女)はまだ夢の途中(日々進化中)」というひとまずの解を得たというのが、物語の水面下で起こっていたプロセスではないかと。

しかし、このプロセスは別の方向からのアプローチもあった上での「まだ夢の途中」でもあると思うんですよね。そう思うのは以下の引用からも明らかです。


春夏秋冬 時を超えて
学び舎に集められし乙女!

現在過去未来 すれ違い
出会った今奇跡の乙女!乙女!

群青 群青

                  ~舞台#2-Transition-挿入歌『群青』より歌詞抜粋~


舞台#2のハイライトトラックと言ってもいい劇中挿入歌『群青』。文字通り「青の群れ」=「青春の真っ只中」にいる舞台少女たちの、嵐のように荒れ狂う生き様が表現された強力な一曲であります。ここで注目したいのは赤字で示した部分です。示したのは「時を超えて」「現在過去未来」の二か所ですが、この二つが舞台#2における華恋を基軸とした物語の重要なカギであると見ています。またそれは舞台#2に付けられたサブタイトル「Transition(移行、変遷、変化、遷移の意)」にも密接に結びつくものでもあります。

見方を少し変えてみましょう。まずは「時を超えて」。『群青』で歌われている「春夏秋冬」とは華恋を抜きにした聖翔vs青嵐のレヴューオーディションのタイトル(夏空・春雷・初雪・陽炎)に絡めてたフレーズなんですが、ここで気にしてほしいのは「春夏秋冬」と歌い込んでいるにも拘らず「秋」を表すフレーズがない点。当然のことながら、春雷は春、夏空・陽炎は夏、初雪は冬である事が分かります。また初雪は冬の言葉である以上に、俳句の季語の意味合いとして「雪」は豊年の吉祥と捉えられていて、「初」の一文字には「喜びの心」が込められており、本格的な冬が始まるという覚悟を示しているとされています。ここは面白い所で、ななと純那、氷雨のレヴューは冬の厳しさよりも恐らくは「初雪」に込められた吉祥と喜びの心の方の意味合いが強いからこそ、舞台をみんなで作り上げる喜びを知ったななが氷雨の手を取るという恰好になっている、というわけなんですね。と、やや話がそれましたが。

「秋」を表すフレーズがないという所に話を戻すと、「秋」には「盛りを過ぎる」「終わりに近づいている」というニュアンスが滲むために『群青』の内容とはそぐわない、というのもあります。「青春」を生きている舞台少女たちにとってはネガティヴな意味合いを持つ「秋」はなかなか取り扱いづらい言葉なのですが、しかしこれを体現している人物が舞台#2には二名ほど存在しているのです。それが八雲響子と愛城華恋です。


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www.youtube.com


引用した画像はYouTubeにアップされている舞台#2のゲネプロ動画からになります。『群青』を歌うのは華恋「以外」の舞台少女たち全員で画像からも分かるように、華恋はアニメで言う所の「アタシ再生産」が出来ずに、青の群れ成す嵐に入り込めず、立ち尽くしてしまっているのが分かります。その原因は明らかですね。そう、「聖翔祭ロス」です。彼女の目指すべき舞台少女の姿は「ひかりと同じ舞台に立てた」事によって完結しているために「ピークを過ぎた舞台少女」として『群青』を歌う舞台少女には入れなかったわけです。「満たされてしまった」と劇中でも表されている事からも、舞台少女としては死も同然と言えるでしょう。これはひかりがTVアニメ版で評された「死せる舞台少女」ともニュアンスが異なります。ひかりは舞台少女としての情熱をわずかに残したまま、「死にゆく舞台少女」であったからこそ8話でキラめきを再生産できたのですが、「聖翔祭ロス」に囚われる華恋はダイレクトに「舞台少女の死(=充足or達成)」と結びついているのがよくわかります。

そしてこの「舞台少女の死」というのと『群青』の歌詞にある「時を超えて」が重なった像として存在しているのが、引用画像で華恋の背後で不敵に佇む八雲響子その人なのです。舞台#2における八雲先生の劇中での立ち位置は「教師」ではなく「元舞台少女」のニュアンスの方が強いと言えます。青嵐総合芸術院の教師と紹介されながらも、本人は走駝先生を「走駝『先輩』」と昔と変わらぬ対抗意識を燃やし、あげく小春たちを利用して戯曲『スタァライト』とそれを演じた生徒を聖翔音楽学院から奪い取ろうとします。舞台#2で登場したキャラクターの中でもひときわ敵役然とした立ち振る舞いを見せるキャストとして印象に残りますね。

『群青』の歌詞においての「時を超えて」というのはおそらく八雲先生の事も含めての「学び舎に集められし乙女」なのではないでしょうか。つまり舞台#2時点の八雲先生にはまだ「舞台少女としての青春」が燻ぶり続けているのですね。ただ彼女の年齢を想像するにしても、もはや「舞台少女」ではないのは明らかです。にもかかわらず、クライマックスでは華恋や小春たちと共に同じ舞台に立ててしまう。この歪みが八雲響子という人物の複雑さを物語っているわけですね。「時を超えて」も舞台少女として立ててしまうのは、八雲響子が「(舞台少女としての)執着の物語」を教師(社会人)となっても引き摺っているからなのでしょう。

八雲先生が執着しているものについてはTVアニメ版で掲げられた「三つの執着」に当てはめてみれば、「あの少女(走駝先輩)」と「あの舞台(戯曲『スタァライト』)」だと言えると思います。八雲先生の「舞台少女」時代の顛末は、舞台版のスピンオフ「-The LIVE 青嵐- BLUE GLITTER」で描かれていますが、そこでのニュアンスをくみ取れば「心残り」だったり「口惜しさ」が滲むものであった事からも、華恋の「聖翔祭ロス」とはプロセスが全く違うのは言うまでもないですが、ここも対比のように思えますね。

片や「舞台に満たされた者」、片や「舞台に満たされなかった者」
舞台少女の「最後」としては明暗が分かれた形になっていますが、彼女たちが「群青」の歌詞にある「春夏秋冬」の「秋」の部分を担っていると考えれば、この対比には頷けるものがあります。それは翻って華恋の話に視点を移して見れば、彼女が「選択の岐路」に立たされているのが分かります。舞台#2が愛城華恋自身の物語を仕切り直す作品であるならば、より顕著に舞台少女としての「未来の姿」である八雲響子との対比が浮かび上がってきます。

それは同様にTVアニメ版に描かれてきた「執着の物語」へのカウンターでもあると考えられます。八雲先生が「舞台少女」を引き摺り続けたのは、舞台に満たされなかった「未練」も当然あると思うのですが、それ以上に走駝『先輩』と戯曲『スタァライト』に執着しすぎた結果だとも言えます。舞台#2の終盤で八雲先生が舞台少女全員と対決する展開は「青い春は二度と来ない」以上、舞台少女たちは今しかない強さを見せる事で自分を乗り越える(更新する)しかないのを示すためでもあるのですよね。八雲先生もそこにようやく思い至り「舞台少女への執着」を断ち切る事が出来た。レヴューの勝敗が決まった直後、走駝先生が負けた八雲先生の手を取り、「八雲先生」と実感を込めて言うのも「(元)舞台少女八雲響子」ではなく「教師八雲響子」に再生産できたゆえ、なのでしょう。

このように考えていくと、やはり「愛城華恋の物語」としては「八雲響子の物語」を否定せざるを得ないのです。「自分を乗り越える(更新する)」事が示された以上、華恋もまた自分自身を乗り越えなければならないのは物語の上では必然なプロセスだと考えられますね。TV版で描かれた「執着の物語」の先にいるのが八雲響子であり、それが舞台少女の辿るひとつの「可能性」だとすれば、「舞台少女」愛城華恋の未来を「執着の物語」で描いてはいけないんですよね。八雲先生が執着によって「舞台少女」を引き摺り続けてしまったのとは反対に、聖翔祭ロスによって「満たされてしまった」華恋は「舞台少女」としての目的を達成してしまっているので、下手すれば二度と舞台に立てないかもしれない。かといって「執着」を拗らせてしまうと八雲先生の二の舞になってしまう事も明らかなのです。結果、可視化された「未来」の姿に対し、華恋は「そうならない」とはっきりと拒絶を示した。「まだ夢の途中」というセリフには「八雲響子」に背負わされた「華恋の(半ば確定された)未来」を否定するニュアンスも含んでいると考えていいでしょう。「華恋の過去」を背負っている柳小春とは逆のアプローチで照射されているわけですね。

と、ここまで書いたうえで『群青』の歌詞で示したもう一つの重要なカギ、「現在過去未来」に注目してみましょう。「華恋の物語」という観点からすれば、舞台#2は愛城華恋の「現在」「過去」「未来」が同時に存在している物語だと言えます。愛城華恋という「現在」が柳小春という「過去」と八雲響子という「未来」の間で揺らぐ物語と見てもいいでしょう。TVアニメの9話で純那がななにせがまれて出したニーチェの名言、「過去が現在に影響を与えるように、未来も現在に影響を与える」を地で行くストーリーであり、それはまさしく「Transition(移行、変遷、変化、遷移の意)」というサブタイトルの通りでもあります。「現在」という「夢の途中」であるからこそ、目まぐるしく変化変遷を繰り返す。それこそ「一度きりの青春」、「舞台少女」たちは嵐のように忙しい日々を過ごすわけです。トップスタァ、ポジションゼロを目指して。華恋もまた自らを他の舞台少女と同じように「まだ夢の途中」と位置付け、変化していく事を受け入れる物語が舞台#2-Transition-だったのです。それゆえに21年7月に上演予定の舞台♯3のサブタイトルがGrowth(成長)」なのも必然と言えるのではないでしょうか。

「愛城華恋の物語」において「八雲響子の物語」がバッドエンドであるというのはこういった理由からです。では華恋が劇場版で目指す「私だけの舞台」に向かうためには何が必要なのか。そのヒントを持つ人物、つまり華恋が進むべき道を示す道標は意外と近くにいたりします。次はその人物を見ていきましょう。


《西條クロディーヌの示す道》



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(双葉)「ふっ……弱気じゃねえか、天才子役!」
(クロディーヌ)「成長したら、ただの人ってねっ……!」

                       ~TVアニメ版3話「トップスタァ」より抜粋~


出来ればここから先は話半分に読んでもらえたら嬉しいのですが(笑)

華恋が「私だけの舞台」を探し出すに当たって、そのカギとなる人物こそ西條クロディーヌであると筆者は考えています。もちろんこれは根も葉もない憶測、というわけではなくて今までの情報を繋ぎ合わせて考えると、わりと確度の高い予想だと思っているのですが実際問題、劇場版での扱いがどうなるかは蓋を開けてみるまで分かりませんので、もし外れていたら申し訳ないです。ですが、ここから先はクロディーヌが物語のカギを握っているという前提で話を進めていきますのでご容赦のほどを。

さて、先の二項で語ってきたように劇場版は「執着に囚われない、(私だけの)運命の舞台」なのではないかという事を違う角度で見てきました。TVアニメ版のような「ふたりでひとつの物語」ではなく、舞台#2で華恋が否定した「八雲響子の物語」にもならない物語。「私だけの舞台」イコール「愛城華恋の物語」とは具体的にどういうものなのか。それは古川監督が以前呟いた「舞台少女の物語」という所にヒントがありそうです。

舞台少女とは何か。シンプルな問いかけであればあるほど、その真理は深淵を覗く事となります。完璧な答えがないからこそ、問いを投げかけられた人間の生き様が大きく作用してくるはずです。そして「舞台少女」という観点において、華恋とクロディーヌは恐らく対比関係にあるというのが筆者の見立てです。上に引用したアニメ版のセリフはまさにクロディーヌの「舞台少女」としてのスタンスが表れた一言であるように思われます。ここで当ブログのTVアニメ版3話の感想を書いた時に触れたクロディーヌの人物評を以下に引用しておきましょう。


terry-rice88injazz.hatenablog.jp

真矢を語ったときにも触れたように、クロディーヌは彼女に対抗心を燃やす少女です。俳優としては子役のキャリアもあり、次のステップに立つために聖翔音楽学園に入学してきたものと思われます。しかし、そこで初めての壁にぶち当たるわけです。もちろん天堂真矢という名の。初めて出会った「自分の上を行く存在」。天堂真矢に勝たなければ、自分はトップになれない。舞台版においても、アニメ版においても彼女は常に真矢の事を意識し、対抗しようとします。このままでは勝てないどころか、相手はさらに先に進んでしまうという意識も働いているのか、追いつくための努力も欠かさないのは、2話や今回でも描かれている通り。
行動だけ見ていると、かなり泥臭く練習を重ねている子なのですが、おそらくは真矢という存在には自分の持つ才覚だけでは勝てないということをこの学園に入学してから思い知らされた結果なのでしょう。そもそもこの聖翔音楽学校、芸事の専門校でもあるためか、生徒たちはやはり何らかの才能(とそれに準ずる原石)があると認められて入学してるはずなので、才能がない子はいないのではないかとも思うわけです。もちろんその大小は明白にあるでしょうけども。


引用はここまで。
クロディーヌについては皆さんも知っているように、俳優育成科A組9人の中で最も早い段階からプロの舞台に立っている舞台少女です(再生産総集編のパンフレットを参照すれば、3才からフランスでモデル活動、5才から子役として日本の舞台などで活動を始めている)。また前日譚コミックスの「オーバーチュア」でも確認できるように日本のCMにも多数出演して、その存在を広く認知されている事からも子役としての実績が大きく、プロとしての経験値も同世代の人々よりも多くあるというアドバンテージが彼女の強みでしょう。反面、クロディーヌは常に危機感を持っている事も確認できます。それが先に引用した「成長したら、ただの人」という意識ですね。

子役というのは与えられた役を「自覚的に」演じられる子供として重宝されるものだと思いますが、子役のアドバンテージ、特殊性というのもまた「子供であるから」の一点に尽きます。もちろん演技力も求められるでしょうが、現実世界においても子役時代から一貫して第一線で活躍し続ける人間はごくわずかと言っていいでしょう。成長してゆくにつれて、子役の方も相応に研鑽と努力を続けない限り、持っているアドバンテージはあっという間に失われるか、むしろ足枷になっていく。そんな危機感は当然ながらクロディーヌの中にずっとあるものなのでしょう。

そういった人間像は引用した感想でも触れているように、クロディーヌ自身はかなり泥臭くなおかつ貪欲に練習を重ねている人物である事からも明らかです。これも再生産総集編のパンフレットに記載されていますし、先の引用でもちゃんと指摘していますが、彼女が聖翔音楽学園に入学した理由も、子役で培った経験を土台に次のステップに進むためなんですよね。つまり聖翔での三年間を糧としてさらにその先、つまり将来の自分を見据えて入る高校を選択しているわけです。もっとも入学したら、天堂真矢という「自分の上を行く存在」に出くわしてしまい、彼女を強く意識していく事になるのですが。


負けられない誰にも
美しさならばみんなが持っている
でも私だけの何かで輝きたい


terry-rice88injazz.hatenablog.jp


舞台#1挿入歌「私たちの居る理由」*2を振り返ってみると、クロディーヌのソロパートも彼女の焦燥がよく分かる格好になっていますね。「誰にも負けられない」としながらも「美しさ」なんて言うのは「誰もが持っている」と自嘲し、それでも「私だけの何かで輝きたい」と歌い込まれる歌詞は子役の経験を積み重ねてきたクロディーヌであればこそでしょう。ここもアニメ版3話の「成長したら、ただの人」という意識と強く結びつくもので、舞台や芸能活動に従事する中では「美しさ」はごくありふれていて、アドバンテージと成り得ないからこそ、「私だけの何か」を求めるのはクロディーヌの問題意識として強くあるのだろうと考えられますね。この歌詞自体は、リンク先の記事でも語っていますが双葉との対にもなっていて、お互いに否定している部分は同時に彼女たちの「個性」にも見え隠れしているもので、双方向に作用しあっているのが確認できます。それゆえに「私だけの輝く何か」はそれぞれの内に秘められているものであるという証でもあるわけですね。また、TVアニメ版の3話や6話でのクロディーヌと双葉の関係性はここに端を発している事がうかがえる箇所でもあります。

こういった所から考えていくと、西條クロディーヌの積み重ねている研鑽や努力というのは何よりも第一に「将来」の事を見据えて行われている、という事が見えてきますね。それは子役を長くやってきた経験も相俟ってか、今ある自分の限界を理解しているというのも当然あるでしょうし、「私だけの何かで輝く」ために立ち止まってはいられないのですよね。子役経験というアドバンテージを抜きにしても、同世代でトップクラスに台頭してきた天堂真矢という自分以上の実力者を目の当たりにして、負けていられないというライバル意識も強くなおかつ克己心の持ち主であるのは端々のセリフを聞いていても分かる所かと思います。なんと言いますか、意識レベルにおいてはスポーツアスリートと同じモチベーションで舞台に向き合っている一面が大いにある「舞台少女」であるのは疑いのない所ではないでしょうか。

あなたの腑抜けた顔 ホント笑えるわ
                     ~舞台#2-Transition-挿入歌『TOP』より歌詞抜粋~


それゆえに舞台#2での「満たされてしまった」華恋を見て、挿入歌のソロパートでこのように歌っているのは、皮肉でもなんでもなくクロディーヌの率直な反応なのでしょう。華恋との対比が良く表れている言葉だと思いますね。華恋とクロディーヌは一見結びつきそうにない二人なのですが、TVアニメ版を経て舞台#2の内容を踏まえると重なり合う所が出てくると言いますか。TVアニメ版10話において「ふたりでひとつの物語」であるところのひかりと華恋の対比として真矢とクロディーヌが存在し、それはそのまま戯曲『スタァライト』のクレールとフローラの対比にも結び付いているのですがそこはさておき。華恋とクロディーヌの対比を考えていくと、舞台少女として二人を区別する際の違いは名前の由来にまで遡ることが出来ると思います。以下に引用します。


華恋:カレン(Karen)はキャサリン(Katherine)のスカンジナビア語形。キャサリンの語源はギリシャ語で「純粋」を表すカタロス(Καταλόνος)に由来するという説がある


クロディーヌ:クロディーヌはクロード(Claude)のフランス語指小辞形女性名。語源はローマの氏族名「Claudius」 に由来。ラテン語「claudus」には「跛行 (はこう。つりあいがとれない(まま進む)ことの意)」の他に「欠けた,不完全な」「動揺している,不完全な」という意味がある


※語源の説明についてはさらに怪しい人名辞典より引用・補足。


「純粋」と「不完全」
この名前にまつわるキーワードは彼女たちの「舞台少女」観そのものと言っていいでしょう。華恋は舞台版、TVアニメ版と一貫して「ひかりと同じ舞台に立つ」約束を夢見て、舞台少女を続けてきたのだと思います。クロディーヌのように将来を見据えている、というよりは純粋に「舞台が大好き」で舞台少女を続けてきた節があって、その大前提にひかりとの約束があるというのが華恋にとっての原動力だと言えます。一方、「不完全」なクロディーヌは自分の思う「完全」を目指して研鑽を重ねていくのは先に語った通りです。



この画像でもクロディーヌと真矢がシンメトリーにならないように、その名に込められた意味によって「完全」へと届くことは決してないでしょう。しかし「不完全」であるからこそ、「完全」に限りなく近い所までたどり着くことが出来るはずです。ここでいう「完全」は「理想」と置き換えてもいいでしょうし、「将来」を見据えているという風に考えても、クロディーヌは届かない「完全」へと出来る限り近づくための努力は惜しまないだろうし、そう思えるライバル*3に悔しがって、対抗心を燃やし「私だけの何か」で輝こうとする姿勢を変える事はないでしょう。不完全だという事は同時に未完成でもあるという事です。「未完成」である以上、「完成」を目指して、日々進化を重ねていく姿は作品に提示されている「舞台少女の在り方」を体現していると言えるでしょう。「舞台少女はなにか」という問いに対して、クロディーヌがその名前から体現している事はまさに「完璧な答えがないからこそ、問いを投げかけられた人間の生き様が大きく作用してくる」のです。「完璧」ではないから「完璧」に近づくためにあらゆる努力を行使するのは舞台少女でなくても、目指すものがある人々にとっては共通の思いではないでしょうか。

さらに「純粋」という所を取って見れば、華恋は「過去のクロディーヌ」であるとも考えられますね。前項で語った舞台#2における対比が華恋とクロディーヌにも発生している。恐らくですが、クロディーヌが最も「純粋」だった頃って、子役時代にまで遡ると思うんですよ。何をやっても楽しくて、舞台に立つのが楽しくて仕方ないという時期があったろうというのは想像に難くありません。ただ人は年齢を重ね、色々な事を知る中で、物事の裏表を知り「純粋さ」を失っていく、というのもよくある話で。華恋の持つ真っ直ぐな純粋さって、ともすれば狂気になりかねないのはTVアニメ版はもちろん舞台版でも描かれてきたことでもあります。この華恋の「舞台が大好き」だという純粋さは当然のことながら「ひかりへの執着」に基づくものであり、そこが断ち切られてしまうと糸の切れた凧のようになってしまうのは、TVアニメ版の11話でも触れられた通りです。またその執着を固執しすぎると行き着く先は舞台#2の八雲先生であることも先の項で語っています。これらの事を鑑みていくと、華恋とクロディーヌの対比というのは純粋さを失う岐路に立たされて、選択をしたか否かの違いであるように思うのですよね。

調べると子役というのは0~15歳(中学3年生)までの子供を指し、一般にそのピークは7歳ごろで、卒業するタイミングは小学校卒業前後だと言われているようです。再生産総集編のパンフレットや10話に差し込まれる描写などを見る限りではクロディーヌの経歴は12歳、つまり2013年頃に何らかの岐路に立たされた事が確認できます。そこを境に役者としての道を歩み始めている事からも彼女が「純粋」ではいられなくなり、「不完全」を身にまとい「舞台少女」として目覚めたのだろうと思われます。それが挫折であるかどうかは分かりません。しかしクロディーヌ自身が自覚的に岐路に立って選択をしたことが聖翔に入った理由でもあり、将来の自分をも見据えるステップを踏んだことは間違いないでしょう。なので、筆者の勝手な見立てでは、俳優育成科の9人の中で一番精神年齢が高いのはクロディーヌだと考えてますね。それは子役時代の経験ももちろん影響してるかとは思いますが、彼女がどのような気付きを得て、今に至ったのかは作品の余白部分でもあり言わぬが花、ご想像にお任せしますという部分なのかとも感じます。

翻って華恋ですが、先の項でも話したように舞台#2では岐路に立たされたにも拘らず、彼女の選択は「まだ夢の途中」だという現状維持に留まっているわけです。TVアニメ版全12話で目的も長年の約束も達成されてしまった以上、彼女が純粋に舞台を思い求められる執着はもはや消え去っているのですね。「私だけの舞台」を見つけ出すためには華恋自身の持つ「純粋」と向き合わなければなりません。それはつまり彼女が「舞台少女である理由」を見つけ出さなければならないのです。その為には「岐路に立たされた者」として先を行くクロディーヌと対峙する必要があると見ています。


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そして実はこの二人はTVアニメ版8話でひかりのレヴューシーンの裏側で戦っていて、この時は華恋がひかりとの約束(執着)を持って、クロディーヌに打ち勝ってしまうわけなのですが。要はここまで説明してきたことの逆転現象が発生しているのがこの華恋とクロディーヌの対決なわけです。言ってみれば、華恋の「執着」という思いの強さだけで、自己研鑽を積み重ねてきた実力者であるクロディーヌに勝ってしまった。もちろん華恋に実力がないと言っているわけではなくて、勝敗が技量や実力ではなく、巨大感情の大きさで決まってしまったのが大きなネックですね。TVアニメ版は「ふたりでひとつの物語」である以上、この結果も間違いではないのですが、個人対個人の対決においてはジャイアントキリング(番狂わせ)が発生していて、華恋が実力以上の勝利を収めてしまっているのです。再演をつづけていたななの台詞を見れば、「毎回最下位で(ひかりの転入で)オーディションから外された」ともありますし、なにより3話でトップを走る真矢に散々な大敗を喫しているわけなので、レヴューオーディション2位のクロディーヌに勝ててしまう要因はひかりへの思いの強さくらいしか見当たらないんですよね。それがなければどうなっていたかは容易に想像できてしまいますね。

ちなみにこの華恋vsクロディーヌは再生産劇場版ではものの見事にカットされているのも気になる所で、クロディーヌ単独のレヴュー曲がTVアニメ版には存在していない点からも今度の劇場版で何らかのフォローや展開に期待している箇所ではありますね。


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実際、劇場版で華恋vsクロディーヌのレヴューがあるかどうかはこれを書いている時点では分かりません。しかしこの1話と10話の対比であったり、華恋とクロディーヌの出席番号がそれぞれ1番11番である事からも二人の間に仕込まれた布石があるように思えてならないのですよね。

この1話の華恋・まひると10話のクロディーヌ・真矢のストレッチシーンも意味深と言えば意味深で、この時点でルームメイトの友人以上の踏み込みをしない華恋とまひるに対して、クロディーヌが真矢と出会った時のことを振り返りながら、面と向き合って自分以上の実力者に出会えた悔しさを滲ませながら、トップを奪ってみせると息巻く辺りにコミュニケーションを超えたライバル関係を見せているのが二人の対人関係を表しているように思えるんですよね。


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ちなみに1話と10話の間にある5話で華恋・ひかりのストレッチシーンもあるんですが、こちらは二人が幼馴染という間柄もあって、距離感はまひるに比べて近く、阿吽の呼吸というか長年の親友らしさが表れているのにも注目しておきたい所ですね。

私たちは同じ舞台を作る仲間
そして同じスターを目指すライバルなのです

                         ~TVアニメ版1話「舞台少女」より抜粋~

もっと! 高み目指したい!
次の! ステップに上がりたい!
仲間!? いいえ、私たちはライバル!

                   ~舞台#1挿入歌『ポジションゼロへ!』より歌詞抜粋~


このように人付き合いという所からも華恋とクロディーヌの「舞台少女」観が見て取れるわけですが、そのニュアンスの差は上に引用したTVアニメ1話の華恋のモノローグ舞台#1挿入歌『ポジションゼロへ!』の歌詞でもあると思うのですよね。友人でありライバルと見る華恋と友人関係とライバル関係をきっちり区別するクロディーヌ。この人間関係の捉え方の違いも華恋が「私だけの舞台」を見つけるためのカギなのだと思います。

「友人でありなおかつライバル」ということからも分かるように、華恋は他の舞台少女と向き合う際に友達(クラスメート)であるという感覚が抜け切れていないのだと思いますね。TVアニメ版を見てると10話のひかりともそうでしたが、話すことのあるクラスメートとのレヴューオーディションにはまず「どうして戦わなきゃいけないの」という気持ちが先に立っているように見えます。それが華恋の人の良い所ではありますが、少なくとも勝敗を決める場面ではその人の良さは双方に禍根を残しかねないものではないかと。華恋自身、4話で「トップスタァになれるのは一人だけ」とひかりが説明するのに対して、「ふたりでトップスタァになろうよ」という返すのはひかりにとって救済の福音だったとしても、華恋にとっては「ひかりちゃんとは争いたくない」という意識が無自覚に働いているようにも今にしてみれば見えてしまいますね。

この人間的な甘さに踏ん切りをつける点でも、クロディーヌとの対戦は避けて通れないようにも感じます。要は「友達」である事が邪魔をして、トップスタァを争う舞台少女として真に「ライバル関係」になりきれていないわけですから、その線引きをどこかでしないといけない。もちろん友人であっても、ライバル関係というのは成立できるわけなので「それはそれ、これはこれ」と割り切れた方が楽ではあるのは至極当然なのですが、華恋はそこが割り切れていない分、一人の舞台少女として自ら勝利を掴み取る選択と覚悟が足りていないのではないかと。劇場版が「執着の物語」ではないとしたらより一層、華恋の「舞台少女の覚悟」が問われてきそうです。

ここまで華恋とクロディーヌの対比を考えてきて、劇場版の内容を想像するに、やはり華恋は岐路に立たされて「選択」を促される場面が来る事が必然のように思えてきますし、「私だけの舞台」に辿り着くためには華恋は自分の将来の事やこれからの進路を考えて、どうするのかということを導き出さなくてはならないのでしょう。さきほども書いたよう西條クロディーヌの示す道は目指すものがある人々にとっては共通の思いである事は間違いないです。ある理想に向かって、絶え間ない研鑽を続けていく事こそが「私だけの舞台」に通じる唯一の道筋でしょうし、まずはひかりとは「親友」というだけではなく「ライバル関係」でもあることを自覚する必要もあるでしょう。ひかりだけではなく、華恋には他の舞台少女たちにもライバルとして立ち向かって、時には負けて、悔しがって欲しいし、もっと喜怒哀楽を見せても良いように思うのですね。対等、というよりはなんでしょうか。道は分かれていくのだろうけど、交差しあった時に特定の関係である事に物怖じすることなく競い合ってほしいなんて思いますね。クロディーヌと対決して、勝ったとしても負けたとしても華恋には何か得るものが絶対にあるし、それは「私だけの舞台」に辿り着く糧になるものであると筆者は見ています。


revuestarlight.com


最後に決定打、というわけではないですが公式サイトに上がっている公開直前記念のインタビューですが、最終回の第三弾が主役の小山さんと三森さんに加えて、クロディーヌ役の相羽さんが同席してのインタビューである事からも劇場版で何らかの大きな役割が課せられているような気がしてならないんですよね。まあ、これについては各人のスケジュールとかの兼ね合いもあるとは思いますがこの割り振り方も結構意味深な気がしてます。この辺りも本編を見たら「こういうことだったか」となっていればいいんですけども、どうなることでしょうか。


《かくして『私』は形作られる》


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最後の項は手短にまとめたいと思います。再生産総集編では色々と新規パートが注目でしたが個人的に目を惹かれたのは主題歌の「再生讃美曲」がエンドロールとともに流れた後に出てきた、色とりどりのスポットライトに当たる華恋の姿です(上記画像)。

8人の舞台少女のパーソナルカラー(まひる純那真矢クロディーヌ双葉香子ひかりななの順)に照らさられて、ポジションゼロに立つ華恋。これは多分、8人それぞれの印象があり、それらが全て重ねられて「愛城華恋」という人物像が生まれているという比喩表現だと思われます。たぶん8人の舞台少女たちがそれぞれに感じる「愛城華恋」の像というのは異なるでしょうし、重なる共通項もあることでしょう。しかし、それら全部ひっくるめて、華恋自身の中にある「私」であり、他人に照らされて気付くことがあるという表現でもあるんですよね。劇場版で華恋は「私だけの舞台」を見つけなければいけないわけですが、それがどういうものであるかという問いに対して、自分では気付けない自分があるという事に尽きるような気がしています。それを考えるなかで触れた作品に的を射た会話があったので以下に引用します。

「私らしさってなんなんでしょうね……私、今まであまり自分がどういうイメージで見られているかなんて意識して、考えたことなかったんです」
「それでいいんじゃない。わたくしは時々考えるけど」
「わがまま、高慢、ヒステリー。わたくしって意外と自分のイメージを的確に捉えているんじゃないかと思うわ」
祐巳は『らしさ』なんて考えないで、思った通りに動きなさい。その結果が祐巳らしさ』なのよ。祐巳の場合、それでいいとわたくしは思うわ」

 ~福沢祐巳小笠原祥子マリア様がみてる」3rdシーズンOVA第3話「涼風さつさつ」より~


この「マリア様がみている」での祐巳と祥子の会話は華恋の「私だけの舞台」に対する回答のようにも聞こえます。自分で頭を捻らせて考えあぐねても答えは出なくて、行動することでそれが軌跡になり結果、それを見た他人によって「私」が形作られて、認識される。再生産総集編のエンドロール終わりに出てきた華恋の姿はまさにそれを地で行くもののように感じられました。他人によって気付かされる「知らない私」。それを知ることで、見えていなかった自分の可能性が見えてくることもあるのでしょう。華恋が「私だけの舞台」に辿り着くためには、自分ではない他者の存在が不可欠であり、それは仲間でありライバルなのです。愛城華恋は次の舞台に、何を魅せてくれるのか。

ああ 私たちは今何処へだって
夢を宿し 行ける

                   ~再生産総集編主題歌『再生讃美曲』より歌詞抜粋~


────「愛城華恋の舞台」に幸あらんことを。



《終わりに》


書くだけ書きました。
なんとか公開前に書けて良かったと安堵する以外ありませんがまあ何はともあれ。
途中緊急事態宣言やらなんやら延期もありましたがいよいよ新作劇場版が公開となります。

初めにも書きましたが、本記事は作者の願望も込めている箇所も多々ありますので映画の内容がどうであったとしてもちゃんと受け止めるつもりではあります。映画の公開前に詰め込める情報は出来るだけ詰めたはずです。ここで書いたことが当たらずともかすっていたら嬉しいなと思いますが、個人の憶測含みの話ですのでそうでなかったとしても許してください。あくまで筆者が今まで見て来たことから考えたことを記しただけですので。

ついに新作映画です。
一昨年末の3rdスタァライブの現地で発表を見て以来、やきもきさせられていましたがようやくその日がやってきます。もう作品を追いかけ始めてから5年が経とうしていますがここまで長く付き合う事になるとも思ってもみませんでしたね。上映時間が120分の作品とのことですので、一体どんな映像が飛び出してくるのか期待しながら公開を迎えたいです。あと何日もしないうちに映画館で鑑賞して、次は感想記事を書くことになると思いますが。書き上がったという事でひとまず筆を置きます。またおもくそ長い文章となってしまいましたが、ここまで読んでいただいた方には感謝いたします。ありがとうございます。では、今度は劇場版「少女☆歌劇 レヴュースタァライト 」感想記事でお目にかかりましょう。

*1:※6/4に延期

*2:※記事を書いた時点では明記されていませんでしたが舞台版挿入歌の作詞は脚本を書いてる三浦香さん

*3:いうまでもなく天堂真矢

音楽鑑賞履歴(2021年4月)

毎月の音楽鑑賞ですが、今月は0枚です。
いやSpotifyで聞いたりはしているんですが購入したCDを聞かないという体たらくに陥ってまして。
結果、鑑賞履歴を作れないところまで至ってしまいました。申し訳ない。
その代わりと言ってはなんですが、Twitterで企画した80年代アルバムベスト海外&国内編とベストソングス企画の呟きを張っておきます。
何かの参照になれば幸いです。
4月の履歴を5月の半ばを過ぎて書いているという事は今月もアレな感じですが、6月からはなんとかしたいですね。
以下、Twitterのリンクです。


音楽鑑賞履歴(2021年3月) No.1422~1424

月一恒例の音楽鑑賞履歴。
3枚。
4月も終わりになって、3月の鑑賞履歴をアップする体たらく。
ちょっと色々見直して、買っているものを消化していきたいですね。
今年に入ってから、すでに所持してるものしか聞いていないので、どうにか仕切り直していきたい所です。
というわけで以下より履歴です。

Vanishing Point

Vanishing Point

  • アーティスト:Primal Scream
  • 発売日: 1997/07/09
  • メディア: CD


Echo Dek

Echo Dek

  • アーティスト:Primal Scream
  • 発売日: 1997/10/14
  • メディア: CD


XTRMNTR

XTRMNTR

  • アーティスト:Primal Scream
  • 発売日: 2000/02/02
  • メディア: CD