教師マンガ考察〜大人と教師と神と悪魔〜

タイトルの通り、「教師マンガ」を語ろうと思う。


2010年。
彗星の如く現れ、マンガ読みの話題をさらっていったマンガがあった。
その名は「どげせん」

どげせん 1巻 (ニチブンコミックス)

どげせん 1巻 (ニチブンコミックス)


作者は「バキ」板垣恵介、そしてRINこと笠原倫
古参の少年チャンピオンファンにおいては
「女郎(めろう)」「唇にパンク」「密凶戦線サンガース」などで知られる作家だろう。
彼らがタッグを組んで、執筆された「どげせん」は類を見ないマンガだった。
そう、彼らが挑んだ題材は「土下座」である。
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「土下座」から導き出される、
人間、社会、そして地球への「感謝」と「祈念」と「神秘」。
土下座という謝罪の一形態から斯くも話が紡げるのか。
そういった驚きに満ちていた作品だった。
主人公は瀬戸 発(せとはじめ)
回を重ねるうちに彼が「教師」であるという事が明らかになり、
この作品が「土下座マンガ」であると同時に「教師マンガ」である事が判明。
「どげせん」というタイトルの意味が明らかになるわけだが。
この週刊漫画ゴラクに掲載された「どげせん」は2010年、
ひいては2011年最大の話題作になる「はず」だった。
しかしこの幸福な時間は長続きしない。


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上記の一連の記事を読んでいただければ、お分かりいただけることであるが、
どうやら作風の方向性の違いが原因、コンビが解消となってしまった。
「土下座観」の違いとはいかなるものかとも感じられるだろうが、
(板垣氏はインタビューにおいて仕事観の違いとしている)
今回の記事は「教師マンガ」である。
「土下座」という題材を通じて、袂を分かった二人がどのように「教師」を描こうとしたのか。
コレが今回の導入である。


《「どげせん」から「謝男」と「どげせんR」へ-神託者と教師という人間-》


謝男 1巻 (ニチブンコミックス)

謝男 1巻 (ニチブンコミックス)

どげせんR 1 (ヤングキングコミックス)

どげせんR 1 (ヤングキングコミックス)


コンビ解消に伴い、前代未聞の「土下座マンガ」は2作に分かれた。
板垣恵介の描く「謝男(シャーマン)」
RINの描く「どげせんR」


二人がタッグを組んでいた「どげせん」において、
主人公の瀬戸 発は教師という職業に付きながらも、
森羅万象あらゆるものに「土下座」したといえる。
やくざ、地球、ラーメン屋の頑固な亭主、はたまた宇宙人にすら。
「どげせん」における瀬戸 発は「土下座」によって、
人間らしさを残しつつも、教師という立場を超越していた。
いうなれば「神」に肉薄していたといえる。
教師というのは生徒を指導する職業である事は周知の事であろう。
その教師という職の「人(生徒)を導く」事から発展した「人を導く神」という認識。
全てに感謝する、願う事が神へ祈祷することに繋がる。
それが「土下座」というスタイルに繋がり、「どげせん」が生まれたといっても過言ではないだろう。
が、それは「瀬戸 発」という「人間」を無視していないか?という疑念も当然浮かぶ。
「神」と「人間」
「どげせん」という作品は「教師マンガ」であるからこそ、作劇は「神」と「人間」の境に苦悩する。
ゆえに分裂は必然だったのではないかといえる。


そして分裂して派生した2作品、
「謝男」と「どげせんR」はそれぞれのアプローチが先鋭化したものであるといえるだろう。
新たに主人公、拝一穴を立てた「謝男」
拝もまた「教師」である。
瀬戸 発との最大の違いは彼が「神託者」として「生徒」たちを導くと言う事だ。
板垣恵介の紡ぎ出す、切れ味の強い台詞の数々は「言霊」となり、「生徒」へと響いていく。
「謝男」と描いて、
「シャーマン」と読ませる独特の言語感覚が作品の全てを言い表している。
つまり「謝男」における「教師」というのは、学園という枠組みに存在する「教祖」であり「宣教者」でもある。
作中において、「土下座」を「座礼」として位置づけているのもさることながら、
拝一穴は「人間」を、「地球」を崇め、祈祷する。
もはや「人間」こそ「神」であり、土下座によって巡礼する。
たとえそれが「生徒」であっても。
かの福沢諭吉が「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」と言った。
「謝男」においては「教師」は「生徒」という名の「人間」を崇め奉り、彼らを祈祷する存在である。
非常にスピリチュアルかつ宗教的な意味合いを感じ取れる作品となっている。
双方向的に「神」であるが「教師=シャーマン」という位置づけあることに注目しておきたい。


一方で「どげせんR」
こちらは瀬戸 発が主役が続投している。
「謝男」とは逆にモデルとなった田代まさしの連想させるペーソス溢れる人間くさい話となった。
ここでの瀬戸 発は変人かつ情けない人物である。
「どげせん」においても、
しょうもない人間と超越者が同居して、得体の知れないキャラとして見出されていた。
しかし「どげせんR」においては、徹底して人間である。
ここでも土下座はある種の神通力を持っているが、
瀬戸 発が変人教師でしかない以外、人間の領域を超えていないのもまた事実。
少なくとも「謝男」の拝一穴に見られる、神へと通じる力強さは「どげせんR」の瀬戸 発にはない。
瀬戸 発の眼差しはあくまで「人間」なのである。
土下座をしても、完全無欠さはない。
「土下座マンガ」としてツメが甘いのかもしれない。
だが、そのツメの甘さは人間くさくもある。
その甘さが「どげせんR」における「生徒」への眼差しにも繋がっている。
「どげせんR」においては「土下座」以上に「教師」の趣が強くなってるように感じた。
「教師」を超越者と捉えるのでなく、人間と捉えた結果、
「土下座マンガ」としての強度が低くなってしまったのは皮肉な結果だろう。


これら二つの「土下座マンガ」において、
「教師」をどう捉えるか、
さらには飛躍して「大人」をどう捉えるかの問題が見えてきたように思える。
「謝男」においては神の如く、「生徒」を導く「神託者」としての教師であり大人。
「どげせんR」においては、「情けない大人」をそのまま「教師」として描いた。
昨今の体罰問題や、教育問題から透けて見える「教師」という職業の問題と、
教育現場に教師として携わる「大人」の問題が、
「土下座マンガ」という類まれなるジャンルにおいて、滲み出ているのではないだろうか。
いずれにせよ「教師」を、「大人」を、
漫画的誇張で表現すると、どうなるかと言う壮大な実験をしているようにも感じられる。
しかし、他方でまったく別アプローチの「教師マンガ」が昨年展開された。


《「脅威(悪魔)」としての教師、「暗殺教室」》

暗殺教室 1 (ジャンプコミックス)

暗殺教室 1 (ジャンプコミックス)


さて暗殺教室である。
連載当初から、あるいは単行本1巻の発売以来、破格の評価を受けている作品だ。
この作品における教師、殺せんせーは「人間」ではない。
さらにいえば「神」でもない。
しかし「教師」である。
月を破壊する事の出来る「世界の脅威」「教師」なのである。
生徒達は一年と言う期間を与えられ、殺せんせーを暗殺しなければならない。
彼らは暗殺すべき対象から、暗殺する術と学問を教授されながら奇妙な学園生活を過ごす。
この風変わりな設定がやはり「学園もの」「教師マンガ」として秀逸だ。
ここでの「世界の脅威」はイコール「大人」と言い換えてもいいだろう。
ミクロ的に見れば、生徒達にとって殺せんせーは対抗すべき「大人」であり「暗殺対象」。
マクロ的に見れば、殺せんせーは世界を一瞬で破壊できる「悪魔」で「世界の敵」だ。
そんな絶大な力を持った悪魔(大人)が「教師」をする。
そのディフォルメデザインは極めて秀逸な作品なのだろうと思われる。
「謝男」や「どげせん」が「教師」を神格化させたのに対して
暗殺教室」の殺せんせーは社会における「大人」という強さと存在感を増幅させたキャラだろう。
作者である松井優征氏の前作「魔人探偵脳噛ネウロ」においても、
魔人という超越者を置いて、「人間とはなにか?」と詰めていった作品だったことからも、
暗殺教室」はその発展型といえる。
「正しく教え導く」事が「人間の思考を高めていく」事だとすれば、
それ以上に「確固たる大人」と「教師」が必要だ。
権力の強さではなく、
「生徒」たちに「きちんと教え伝える」事こそが「大人の強さ」であり「教師の仕事」なのだろう。
現実では実行するとなると、中々に手ごわいこの2点を突破しているのが殺せんせーだ。
悪魔の囁きとはよくいったものだが、それが大人になる為の通過儀礼だとしたら。
暗殺教室」というのは格好の授業なのである。
歪んでるが本質を突いている。
厳しい現代社会を強かに生き抜くためには、正直なだけでは生きていけない。
少年少女が「大人」になる過程として、殺せんせーを暗殺する。
つまり精神的父親殺しのごとく、「悪魔」イコール「大人」を殺す。
そういった意味を含めて、殺せんせーは「悪魔」であり「良き大人」であり「良き教師」なのだ。


《まとめ》
「どげせん」
「謝男」
「どげせんR」
そして「暗殺教室
どれも特異な作品ではあるが、一貫して「教師マンガ」であることには違いない。
これらの作品において、テーマの一つになっているのがやはり「教師」であり、「大人」だ。
様々な問題からかつての強い立場が取れない「教師」の現実において、
非常にフィクションとして描きでのある題材になのだなという風に思う。
学園ものとしては定番とも言える「教師もの」。
しかし創作の世界で大人が見失われつつある現代だからこそ、
その創作強度が強さを増しているのではないだろうか。
神として、或いは悪魔として、もしくは大人として、
教師の位置をフィクションレベルに高めて描いた作品群だろう。
残念ながら「どげせん」「どげせんR」は道半ばで終了してしまったが
他の2作については俄然注目度を上げていいだろう。
「今、教師マンガがアツい」
そのようにまとめて本記事を終わりたいと思う。


《了》