2016年に選ぶ、少女革命ウテナ話数10選。

来年、放映20周年なんでそっちのタイミングでやりたかったなあ(愚痴
とまあ、そんなことはさておき。


唐突に「少女革命ウテナ」の話数10選です。
なんでいきなりやるかって?
最近、ネットで話題のAbemaTVで再放送が始まったからです。
AbemaTV|国内最大の無料インターネットテレビ局


要はタイミングが良かったのと便乗してみようと思ったから、です。
頭でも言ったように来年20周年なんだからキリ悪いじゃんとも思わなくもないですが。
でも、もう20年近く経つのかあと言う感慨にも耽ってしまうわけで。
(AbemaTVのカテゴライズでもなつかしアニメに分類されてる)
90年代を生きた人間にとっては70年代の作品を見る感覚で20代以下の人はウテナを見るわけですよ。
これってちょっとやっぱり自分らがあの年代から遠くに来たんだなあと。
そんな風にいやがおうにも思わざるを得なくて、改めて語るのも悪くないなあとも。


でまあ、選ぶにあたって見返すわけですよ。
自分も後追いで見た口なので初めて見てから10年近くは経ってますが。
やっぱりウテナも「古く」なったんだなあと思う箇所もあり、そうでない箇所もあったりで、
また違う印象を持って再視聴の醍醐味を感じられた、というのもあります。
それはおそらく10年前と違う感想だと思います。


だからタイトルに「2016年に選ぶ」と付けました。
今現在、この時点で選ぶとなるとこんな選定になりましたという意味合いを含めて。
また時間が経って見返せば、何か違う感じ方をするんだろうし。
とりあえず20周年を前に選んで見るのもありなのかなと。


前置きが少し長くなりましたが、そんな感じで選んでみた話数10選です。
以下、選んだ話数に二、三、短めのコメントを付けて語りたいと思います。
なお放映順というよりは順不同、ざっくばらんに語ってますのであしからず。
画像も後で付け足すかも。
ではどうぞ。なおスタッフリストは敬称略です。

第7話:見果てぬ樹璃(1997年5月14日放送)
脚本:榎戸洋司、絵コンテ:橋本カツヨ、演出:岡崎幸男、作画監督林明美

《コメント》
作中随一の拗らせ系女子(?)有栖川樹璃の最初のメイン回。橋本カツヨ(a.k.a細田守)の手がけた決闘シーンが白眉の出来。頭では奇跡などないと分かっているのにも拘らず、本心のどこかでは奇跡を願っている。そんな樹璃の心境がそのまま、決闘の幕切れにつながっているわけだけど、やっぱりその想いの拗らせ方が自分には男性のそれに見えてしまうなあ。画面のキレはとにかく素晴らしく、今なお鮮烈なのは確か。以降、橋本カツヨの演出回はなにか鬱屈した情念に囚われる人物の表情の魅せ方が冴え渡るのだけど、その挨拶代わりの一発目としてはこの上ない一本かと思う。

第15話:その梢が指す風景(1997年7月9日放送)
脚本:榎戸洋司、絵コンテ&演出:星川孝文、作画監督:たけうちのぶゆき

《コメント》
ウテナの登場人物の中で誰が一番好きか、と問われると自分は薫梢と答える。シリーズ第二部に当たる「黒薔薇編」2話目はそんな彼女のメイン回。梢のコケティッシュというかインモラル感の裏側には双子の兄、幹への感情が渦巻いていた。そういう女の子の裏側が良く出てるのが、わりに自分の好みなんだろうなあ。「黒薔薇編」自体もメインのキャラクターに「気づかれない者」の感情を取り扱ってるのもあると思うけど。梢の心の内も幹は知らないし、梢自身も終始心に秘めたまま進む感じもまた。すれ違ってるけど、交わってる感じが良いんだよねえ。

第20話:若葉繁れる(1997年8月13日放送)
脚本:月村了衛、絵コンテ:橋本カツヨ、演出:桜美かつし作画監督:たけうちのぶゆき

《コメント》
ウテナはシリーズ構成の榎戸洋司の他に脚本家が何人か参加していて(演出の人が脚本を手がける回もある)、これもその一本。いまや小説家として名を馳せている月村了衛のシナリオ。黒薔薇編の真骨頂ともいうべき「主人公になれない人々」の不安や恐怖がよく出てる回かと。内容的にはウテナの親友、若葉と西園寺の「同棲時代」なんだけどねえ。若葉がそれを幸せに感じている一方で、いつかそれが終わりを告げることが分かっていて。一押ししてしまえば崩れ去る脆い「幸せ」に気付いているけど気付きたくない。橋本カツヨがここでもそういった情念を爆発させている手腕がもう。自分の「幸せ」が崩れ去った瞬間に垣間見せる表情の鮮烈さが目に焼きつく。

第21話:悪い虫(1997年8月20日放送)
脚本:月村了衛、絵コンテ&演出:桜井弘明作画監督:たけうちのぶゆき

《コメント》
シリーズ中、もっともメインストーリーから迂遠な一本。個人的にはこの二本がウテナにおける月村さんのベストワークと思ってる。「物語の主役になれない」人間の悲痛な叫びをほとんどモブに近いキャラクターに叫ばせるのが秀逸。物語から認知されない、あるいは大筋の物語から外れた人にも心や感情や人生があるわけで。そういった物語の外部からの声なき声を物語の中心にいる人物たちは理解することが出来ない。というより認知できないという方が正しいのか。映し出される物語の枠の外にも別の物語が幾重にもあってそれは交差し得ない、みたいな。
創作的物語構造の歪みというか、枠外の叫びというか。うまく説明はできないけど。黒薔薇編はそういった外環の人々を描けたという点では予定外の副産物だったと思うけど、これがあるのとないとではウテナはまた違った趣になっていただろうなと。あとテーマ的には一番、現代的な意味合いを強めてるようにも思う。当時はさほどでもなかったけど時代を経て、色合いと印象が濃くなった回でもあるなあと。


第11話:優雅に冷酷・その花を摘む者(1997年6月11日放送)
脚本:上村一宏、絵コンテ:錦織博・金子伸吾、演出:金子伸吾、作画監督相澤昌弘
第12話:たぶん友情のために(1997年6月18日放送)
脚本:上村一宏、絵コンテ:垂永志、演出:高橋亨作画監督:長濱博史・長谷川眞也

《コメント》
これだけは2話合わせて。1クール(第1部)完結の前後編エピソード。ウテナvs桐生冬芽の決闘、敗北、再起。今見ると、だいぶ印象の変わるエピソードでもあるかなと、再見して思った。というのもウテナの「普通」が2010年代の現代において、そこまで歪んだ物にも思えないのが最大の要因だろうなと。このエピソードやシリーズ終盤において問題になる「ウテナは王子さまなのか?お姫さまなのか?」という点において。昨今はトランスジェンダーやらLGBTなど、ジェンダー論の構築が放映当時と比べるとかなり形成されているからこそ、ウテナの風貌も「性的多様性」の一環として、受け入れられてしまうわけで。あんまり突破口にはなっていないというか、そのファッションを身にまとうことで自分を保つというのはありがちではあると思う。一方で、このエピソードで描かれる女子の制服を着たウテナにも生々しいリアルさを感じる。抑圧される自己と解放される自己の二面性というか。冬芽はウテナを「王子様に固執する女の子」から「普通の女の子」へと解放させようするわけだが、ウテナは「王子様になりたい自己」を開放してる事こそ、自らの「普通」だと宣言する。どちらが良い悪いのではなく、物語の手綱引きとして元の鞘に戻るわけだけど、傷跡だけは残って次の段階へ。ただ今の視点から見るとウテナ的な「普通」が当たり前と化していて、それが当時の「歪み」である事に気づきにくいというか。その一方で「抑圧されている自己」であろう、女子制服のウテナも違和感というよりはある種の現実味を帯びるようになった。というのが、このエピソードを語る難しさなんだろうと思う。この問題点の未分化なカオスっぷりは90年代的なものだと、振り返って見ると感じるなあ。そしてこの作品が「邪道にして王道」な物語であるという点にも注目しておきたい。作品の特徴がよく表れてるエピソードだと改めて実感できたのが収穫だったのかも。

第30話:裸足の少女(1997年10月22日放送)
脚本:榎戸洋司、絵コンテ:風山十五、演出:桜美かつし作画監督香川久

《コメント》
んで、上のコメントから続くわけだけど。黒薔薇編を通過し第3クールに入って、何が行われたかというと、「ウテナという少女」を掘り下げる事で、「王子様の座」から引きずり下ろす事だったように思う。冬芽が出来なかった事を平然とやってのける鳳暁生にシビれる、憧れるぅ!……わけじゃないが。実際、恋とそれに似た憧れを抱かせる事で「女の子」な部分を喚起させ、抗いがたい性の衝動というか情動をリリカルに演出しているエピソードだと思う。その辺りは絵コンテの風山十五(a.k.a五十嵐卓哉)の清新さと演出の桜美かつしの空間的情緒が生み出しているものだと思う。しかし、そういった初恋の甘酸っぱい感覚はインモラルに塗りたくられてる。
そこがこの作品の捻くれているところでもあり、良いところでもある。背徳感というのが作品のキーにもなっていて、印象を大きく決定付けているわけだけど。ウテナがそこに巻き込まれる事で初めて「女の子」っぽさが出るというのも興味深いところではあるなと。

第33話:夜を走る王子(1997年11月12日放送)
脚本:榎戸洋司、絵コンテ:橋本カツヨ、演出:高橋亨作画監督:長濱博史・長谷川眞也

《コメント》
シリーズ中、もっともインモラルで、裏切りに充ちたエピソードだと思う。というか、今考えるとこんなんよく夕方に放送できたもんだなあと改めて感じざるを得ない。BPOとかに抗議行かなかったのかな。ここまでのシリーズの振り返りと思いきや、実はその裏側でウテナが「食われる」話。もう演出の勝利というか、すっごい婉曲的な表現だったからこそ冒険できたってのが強いんだろうけど。さっきの30話でのコメントで説明した事を実際に「実行」してしまったエピソードでもあって。花を散らしたウテナが「王子さま」なのかどうか、という残酷な突き詰めでもあると思う。もはや後戻りできる状況でもなくなってしまっていて、暁生の思惑通りに事が進んでしまっているという点でも残酷。この時点でウテナも「世界の果て」を知ってしまったために「永遠」という絶対性を失ったとも言えなかない。ウテナが「王子さま」から堕落することで最終章の礎を築くという、確信犯的な一本だと思う。

第37話:世界を革命する者(1997年12月10日放送)
脚本:榎戸洋司、絵コンテ:風山十五、演出:桜美かつし作画監督:たけうちのぶゆき

《コメント》
この回のお互いに毒物を食わせながら「十年後も同じようにお茶会しようね」って言ってるアンシーとウテナの関係がすごく好きですね。個人的にはこれ以降、アンシーが主体になってしまうのでちょっと辛いんですけど。33話を通過して、いろんな意味で「対等な関係」になった二人だからこそ成立する会話なのが凄く好きで。美しい所も醜い所も一緒くたに受け入れて、待ち受ける結末が分かりきってても最後の地に向かう雰囲気も結構好きです。嵐の前の静けさだからこそ、美しい情景が広がっているというか。とはいえ、アンシーの持つ歪みは最終回で解消されるけど、ウテナの歪みが解消されずに劇場版まで持ち越されてしまうので、難しいところではある。この回は、ここまでの話数をかけて描かれる一瞬の情景が自分にとっては好きなんだろうなあと。

第6話:七実様御用心!(1997年5月7日放送)
脚本:比賀昇、絵コンテ:松本淳、演出:岡崎幸男、作画監督林明美

《コメント》
最後はギャグ回(にして石蕗美蔓初登場&七実メイン回)。いや、ウテナはギャグがないと成立しない作品なので。選んだのはインパクト絶大の一発目。いやね、暴れ馬→暴れ牛→暴れカンガルーは汚いよ!なに考えてんの!
裏話によれば、当初の予定だと6話と同じくギャグ回の8話は順序が逆だったようで、8話(本来6話)の製作遅れから6話(本来8話)に入れ替わったそうだけど、怪我の功名だったと思う。どっちもウテナに冬芽を意識させる回だったみたいだけど、いやねえ(笑)最後、カンガルーとボクシングして一発KO勝ちって言う展開はさすがにわけがわからんwギャグに意味を求めるのもどうかと思うけど、本来の話とのギャップが異様なので初見時は腹筋崩壊してた。脚本書いた比賀昇(a.k.a山口亮太)は後に手掛ける作品でもこういうプリミティブに突拍子のないギャグを繰り出しているし、元々こういうオファー(いつものカラーリングとは異なるもの)だったそうなので納得した。
けど、やっぱ卑怯だよw


《終わりに》
以上が、ウテナ10選になります。各クール×3話&ギャグから1話という選び方をしました。改めて見返すと、ウテナに引っ掛かりを覚えて見てたんだなと思う一方、どこかしらで男性の存在がいないと見れない作品でもあったのかなあとも感じました。背徳感やインモラルに満ちてはいるけど、男女関係、あるいは友情など王道的なものが描かれてるからこそ、見れてたのかなと、そう思うわけです。
実際そういう、話数選びになってるようにも思えますしね。いや、もっとファン的に人気の回あるでしょうにという声もありそうですけど。なにせ20年前の作品なので、画面演出に冴えがあっても話の質感が古臭いというものがいくつかあったのも事実で、そういうのはぐっと来なかったんですよね。あと、目星の話数を絞って見たので、全話通しで見たわけじゃないのも正直に申し上げておきます。今度やる時は最初から全部見て、考えたいなあと。
個人的にはTVシリーズは劇場版見るための下ごしらえみたいなところもあって。今回は劇場版で省かれた部分、いわゆるTVシリーズの雑味部分も紹介しておきたいなあと思って選んでみたつもり。そこも興味深いから、面白いと感じるわけで。パブリックイメージから零れ落ちているのもきちんとウテナだよって言いたかったのかも。
今度やる時はどんな風に変わるかも、自分にとっては楽しみ。そういったメモ的な意味も含めて、またやればなと思います。かなり突貫な記事になりましたが、ご勘弁を。
ではまた。