【再掲・修正】演劇詭弁論~アニメ演劇としての「夜は短し歩けよ乙女」

※本記事は2017年5月に刊行された『アニクリ(アニメクリティーク)vol.6.1「四畳半神話体系×夜は短し歩けよ乙女」(小冊子本) 』ならびに2019年5月刊行の『アニクリ6s「アニメにおける線/湯浅政明総特集号」』に寄稿・掲載された文章を若干の加筆修正をした再録となります。


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【はじめに】

「本っていうのはすべてつながっているんだ」───古本市の神様


そう、まさに全てが繋がっている。

湯浅政明監督の新作映画「夜は短し歩けよ乙女」に抱く印象としてこれほどふさわしい物はないだろう。森見登美彦の原作小説を忠実かつ大胆に脚色した93分は、見る者をめくるめく物語世界へと誘い、作品の持つ熱気の渦へと一気呵成に巻き込んでいく。遊園地の絶叫マシーンの如きスピード感に翻弄されながらも描かれるモチーフは、乙女が劇中でたびたび口に出す「縁」が織り成す人と人との繋がり。「これもなにかのご縁」と乙女が様々な人々と結びついていくその先に、もう一人の主役である先輩も存在し、彼女と先輩の「縁」が結ばれる。……というのが物語の顛末だ。

この魅力的な映画の根幹に根ざすものはなんであるか。本稿では読み解いていきたいと思う。すでにタイトルでも提示はしているが、「演劇」として見た場合、この作品がどう映るのか。という点が大きな主眼となるはずだ。そしてまた「演劇」というキーワードを取ってみれば、面白いことに一本の劇場アニメ作品が浮かび上がる。それを同様に合わせて語っていくことで、これを読んでくださっている諸氏が本作の理解を深めることができれば、幸いである。

とはいっても、本稿はウナギのごとく詭弁を操った論考であるからして、間違ってもここで説明しているものが他のアニメ作品全体に当てはまるとは限らないので悪しからず。


【劇場版アニメという名の「舞台演劇」】


夜は短し歩けよ乙女」を鑑賞した時、この作品がアニメーション映画という以上に「演劇」というのを強く意識させる作りだという印象が残った。それはつまりアニメでもなくさりとて映画作品でもなく、劇場で上演される舞台演劇の雰囲気を感じ取ったという事である。本作はいわゆる「アニメーションという表現手法を用いた映画作品」、我々が「アニメ映画」とか「劇場版アニメ」と呼ぶものだが、そういった形式の作品とは随分と趣が異なっているように見えたのだ。それは少なくとも本作がアニメーションの魅力や映画作品の醍醐味を前面に押し出した作品でない、ということだ。

例えば、スタジオジブリの映画作品やディズニーのアニメーション映画。それらはアニメーションの根源的な魅力である「描かれた絵が躍動感を持って動き出す」事が強く押し出されている。絵が滑らかに動き出し、時にダイナミックに、あるいはドラマティックに物語を紡ぎ出す。「動きの快感」がまず大前提に合って、これらのアニメーション作品はより魅力的なものへと仕立てられているのだ。また映画作品、特に実写映画ならば、撮影された映像の構成やショットやシーンそのもののレイアウト(この辺りはアニメにも通じるが)に込められた連続性のあるイメージ、画面から伝わってくる演者の表情や台詞のニュアンスなどなどから積み重ねられたドラマのカタルシスや叙情が「映画」の魅力足りえるものだろう。

こういった観点から見ると、「夜は短し歩けよ乙女」はアニメや映画の魅力というものからは外れているように感じられるのだ。アニメーションの「動きの快感」に頼っている作品というわけでもなく、かといって映画的なダイナミズムやカタルシスに満ちた、脳内麻薬が多量分泌されるような作品でもないし、観客の感情や涙腺に訴えかける仕掛けを凝らした作品でもない。湯浅政明監督が不世出のアニメーターである事実もこういった齟齬に拍車をかけているようにも思えるが、少なくとも氏の近年の監督作品を振り返ると、「動きの快感」を押し出す事よりも描かれる題材に対して、画面の情報量やテンポのコントロール、あるいは物語に対しての脚色などに注力しており、文字通り監督としてのディレクション、言い換えれば演出にその個性が窺えるのだ。この10年代に入ってからの湯浅監督の作風を鑑みると「夜は短し歩けよ乙女」もその流れを汲んだ作品だといえる。

「演出」という言葉が出てきたように、本作は原作小説を一本の映画作品に纏める為の「演出」が施されているのが分かる。原作では実際に一年という月日が流れていくのに対し、まるで一年を過ごしてきたかのような「引き伸ばされた一夜」の物語として、映画では描かれてゆく。この奇妙な仕掛けは映画全体を貫くもので人々の体感時間を鮮やかに表現している。実際、本編では老若男女の登場人物たちが持つ時計の進み方がそれぞれ異なる場面が出てくるように、この映画の時間は「演出」されているのだ。一夜なのにシームレスに四季が移り変わっていく様もそうだが、作品を鑑賞する観客の体感時間すらも錯覚させてしまう。時間が歪む、と言えばいいだろうか。映画の登場人物もそれをスクリーン越しに見ている観客も、一体となって時が歪んだ空間を共有している。目の前で展開される空間、いや舞台を目撃しているライヴ感こそがこの映画の肝なのではないだろうか。

そう考えていくと、この作品における映画と観客の関係が見えてくる。一つの空間に居合わせた者たちは映画館のスクリーン(舞台)を境に役者と観客に自ずと区別されていくのだ。ただ注意しておくべきなのは演じる役者は生身ではない事だ。当然であるが映画である以上、リアルタイムで演技しているわけではないし、ましてやこれはアニメである。描かれたキャラクターに対して、声優(役者)の声(演技)が吹き込まれているに過ぎない。だが、前述したように「時の歪み」という共有感覚によって、観客は映像の中に存在する登場人物とともに、スクリーンで繰り広げられる物語に没入していく。「夜は短し歩けよ乙女」という空間にあたかも共存しているような感覚にいつの間にか囚われているのだ。故にこの作品は他のアニメ作品以上に役者の演技に信頼を寄せた作品なのだ。「狂っている時間」を観客と同様に共有する登場人物たちが、観客には手の届かない舞台において、物語を演じていく。現実感と非現実感が入り混じる中で、観客と登場人物が共有する感覚が軸になって、同じ空間でその物語を目撃する共犯者としてフラットに扱われていく。こういった仕組みはアニメや映画というよりかは、舞台演劇に起因するもののように感じられる。

本作の脚本を手がけたのは「四畳半神話大系」と同じく劇作家の上田誠。残念ながら、氏が代表を務める劇団「ヨーロッパ企画」の演目を目にしたことはないが、TVシリーズであった「四畳半神話大系」以上に演劇らしさが出ているのは単純に一作一本で終わる映画の構造が演劇の構造とほぼ同等であることが影響しているのではないかと推察される。パンフレットを読む限り「引き伸ばされた一夜」の物語というアイディアを出したのは湯浅監督で、上田はそのアイディアに基づき、話し合いながら構成していったと明かしているが、そういった脚色を構成できた手腕に本来のフィールドのニュアンスやテイストが滲み出ていてもおかしくはないだろう。

ここまで、本作が映画やアニメというよりは「舞台演劇」に近い構造をしている事を説明してきた。それでは次に「舞台演劇」的なアニメ映画という観点から、本作と合わせて語りたい作品がある。その作品はは物語の没入感や共犯性、はたまた物語構造にいたるまで、「夜は短し歩けよ乙女」と意外なほど共通項が見出せる作品なのだが、筆者も劇場で鑑賞するまで本作と結びつくとは思っていなかった作品でもある。当然ながら、こちらも「舞台演劇」に色濃い影響があるというのも見逃せないポイントだ。

「劇場版少女革命ウテナ アドゥレセンス黙示録」

毛色は相当に違うが、「舞台演劇アニメ」としてはこれ以上ないほど似通っている。


アヴァンギャルド(前衛)とシュール(超現実)】


本稿を寄稿している「アニメクリティーク」読者諸氏に「少女革命ウテナ」を見ていないという者は少ないと思われるが、当該作を見ているという前提で話を進ませていただく。

夜は短し歩けよ乙女」より遡ること18年前に劇場公開されたのが「劇場版少女革命ウテナ アドゥレセンス黙示録」だ。今年2017年に放映20周年を迎えるTVシリーズの流れを汲んだ完全新作映画(当時)である。TV版の設定を一新して描かれた内容は一口に説明しがたいものがあるが、鳳学園に転校してきた天上ウテナが学園で「薔薇の花嫁」と呼ばれる姫宮アンシーと出会い、彼女と「世界を革命する力」を巡る決闘者(デュエリスト)の戦いに巻き込まれていく、というのが大まかな粗筋だ。

もちろんこの粗筋に「夜は短し歩けよ乙女」との共通性を見出しているわけではないし、表層に流れる物語はあまりにも違うことは重々承知している。が、「舞台演劇」としてのアニメ作品として見るならば、面白いほどに好対照な二作品だと言えるのだ。前項では「夜は短し歩けよ乙女」が役者と観客の感覚が一体化することで、舞台という空間、または物語へと没入していく、ということを説明してきたが「劇場版ウテナ」においては全く逆の手段を取っている。観客と役者、舞台を徹底的に「突き放した」のだ。

少女革命ウテナ」を語る時、間違いなく付随してくるイメージといえば「宝塚演劇」「寺山修司(天上桟敷)」「前衛演劇」などが浮かび上がってくる。これらの要素については監督である幾原邦彦の個性に拠る所がかなり大きいが、「ウテナ」はこれらに影響を受けて作り出された作品といって過言ではない。なおかつ音楽は寺山修司の率いた劇団、演劇実験室「天上桟敷」のJ・A・シーザーの楽曲を使用していることからも、「少女革命ウテナ=アングラ演劇」の印象はいまや逃れられないものとなっている。少し話題が逸れたが「劇場版ウテナ」に話を戻せば、TVシリーズでの難解な演出がさらに拍車がかかり、観客に強烈な印象を与え、煙に巻いていく。もはや建物の形を成していない鳳学園からしてそうだが、「劇場版ウテナ」作品全体において「現実感を排除して、舞台を抽象(曖昧)化していく」手法が取られている。観客と舞台の関係を隔絶させる事で、能動的に観客を舞台へと没入させているのだ。

夜は短し歩けよ乙女」では観客を役者と同じ感覚に巻き込んで、受動的に没入させていくのに対して、「劇場版ウテナ」は舞台に配置されているありとあらゆるものに疑問符を抱かせ、一体何が起きているのかを観客に能動的に解釈させて引き込んでいく。この為、「劇場版ウテナ」で描かれる表現や映像のレイアウトはTVシリーズより先鋭化しており、観客の目を逸らせないよう、密度の濃い情報が繰り広げられていく上、そこに意味があるのかどうかすら観客に委ねている、という作りなのだ。つまり「夜は短し歩けよ乙女」は役者と観客が共犯者になることによって舞台は「目撃」されているが、「劇場版ウテナ」は舞台の「事件性」を高めることで、観客を事件の目撃者として取り扱っている。こういった理由から映像の衝撃度や鮮烈さという面で両作を比べた場合、「劇場版ウテナ」にどうしても軍配が上がってしまうのは致し方ない所だろう。

「舞台演劇」としてこの二作を見ていくと、その趣の差はアヴァンギャルド(前衛)とシュール(超現実)と区分することが可能だ。ここまでの説明で語ってきたように、「劇場版ウテナ」はその表現を先鋭化、舞台を非現実化させる事によって、描かれる物語を極めて曖昧なものにして、そこへ込められたシンプルなテーマを浮き彫りにしていく。現実からかけ離れた別世界を演出することによって、アヴァンギャルドたりうる革新性を得ている。一方で「夜は短し歩けよ乙女」は舞台を不条理な世界に「異化」している。描かれている舞台こそ京都の鴨川界隈だが、そこへ「引き伸ばされた一夜」という「時間の歪み」が加わることで、不完全な非現実感が漂い、えもいえぬ違和感が拭いきれず残っていく。この奇妙な感覚が現実感を引きずったまま、非現実的な物語がこちらもシンプルなテーマで描かれる。現実なのだが、なにかズレている。それこそがシュールな感覚の正体だと言える。

ウテナ」が革新的な表現を追い求め、実験的な演出を繰り返した寺山修司、ひいては70年代アングラ演劇的な作品だとすれば、対する「夜は短し歩けよ乙女」には現代演劇の雰囲気が強く感じられる。演出方法がデータベース化し、テーマや作品に沿って、既存演出の引用から新しい表現を作り出す。その肌触りはとても現代的だ。そういった現代の演出家を一人挙げるのであれば、鴻上尚史だろうか。もちろんここで語ったことが実際に行われているかは定かではない。が、「夜は短し歩けよ乙女」のように現実感の強いシュールな物語に潜むテーマを舞台の役者が観客に共有していく点は同じ視点に立っているように思える。

アヴァンギャルドが先鋭的だった時代はもはや過ぎ去ってしまったが、そういった表現の積み重ねを演出に組み込んで、その表現のズレ、シュールさを表すのが現代、と線引きするのは可能だろう。その証拠として「夜は短し歩けよ乙女」にはアヴァンギャルドがしれっと組み込まれていたりする。秋パートの主軸となるゲリラ演劇「偏屈王」は寺山修司の市街劇に着想を得たものだろう。「偏屈王」自体は原作小説の時点で存在している要素ではあるが、本作の方向性が「舞台演劇」に定まったことによって、劇中劇としてその前衛性が物語のシュールさの一翼を担う要素となってるのは興味深い点だ。現代演劇が先鋭的な表現を踏まえて、その先をどう表現するのか、という所で構造的な複雑さを抱えているのがこの映画にも表れているのだともいえる。もちろんこれらのテクスチャー以前にアニメ作品だと言うことも考慮すると、両作ともアニメーションというフィルターが掛けられた虚構の世界であると言うことを忘れてはいけないだろう。アヴァンギャルドとシュールという区分も「前衛芸術」という大枠の中での差異でしかないことも心に留めておきたい。

夜は短し歩けよ乙女」と「劇場版ウテナ」の作品構造の共通性と趣の差異を説明してきたが、最後に二作で描かれる物語の根底に流れるテーマの共通項を語りたいと思う。先ほど表層上の物語はあまりに異なるものだと語ったが、実は同じテーマを取り扱っている作品だと筆者は睨んでいる。そのキーとなるのが「パラレルワールド」と「モラトリアム」だ。この二点は奇しくも両作に共通する部分でもあり、作品における重要なモチーフともなっているのを特筆しておこう。


【描かれるモラトリアムとセカイの内と外】

「楽しそうですね。私はなんだか人生を誤った気がします」
「貴君はまだ人生が始まってもいない。ここはまだ御母堂のお腹の延長だぞ」
 ───「四畳半神話大系」第九話より、私と樋口師匠の会話


湯浅監督もインタビューなどで明言しているように「夜は短し歩けよ乙女」は同一スタッフで製作された2010年の作品、「四畳半神話大系」のパラレルワールド的な世界である。この為、一部登場人物が被っていたり「四畳半神話大系」の時系列より後の時代であるかのような描きが出てくるが、どちらにせよ何がしかの関連性が見出せる作品だ。もちろん同じ作者の作品であるから、テーマなどの共通項も見出せるわけだが、ここではアニメ作品となった両作について見ていきたいと思う。

そもそもの話として、TVシリーズ作品と劇場作品という作品媒体の違いが語り口を大きく異ならせているが、どちらも「可能性」と「モラトリアム」にまつわる物語であることが言えるはずだ。どちらも作品媒体の特質を生かして、物語が描かれている。「四畳半神話大系」は「可能性の反復」を、「夜は短し歩けよ乙女」は「可能性の一過性」を。モラトリアムの最終地点である大学という「場」において、展開してゆく。
この「可能性」というモチーフについては、湯浅政明監督が自身の監督処女作である「MINDGAME」から描き続けているテーマでもあり、それが意識無意識であれ、強く惹かれている題材であるのだが、その詳細を語っていく余裕は本稿にはないので今回は割愛しておく。しかし、この二作における「可能性」というものは「自ら踏み出す」という事に集約されている。

四畳半神話大系」では主人公の「私」が理想のキャンパスライフを謳歌したいがために、さまざまな活動を行い、挫折し拘泥する様が描写されるが、それは端的に「自分の可能性を掴めるのは自分において他ならない」という真理にたどり着くまでの「可能性を反復する」物語である。一方、「夜は短し歩けよ乙女」の主人公「先輩」は黒髪の乙女と結ばれる可能性の外堀を埋めるのに必死で、乙女が自分の可能性を切り開き輝いていく様子をただ眺めることしか出来ず、自分の不甲斐なさに拘泥していたが巡り回ってきた乙女の縁によって、目の前に転がってきた「可能性が過ぎ去る」事に臆せず自ら掴むまでの物語なのだ。

それは「モラトリアム」の檻に繋がれていた人間が自ら鎖を断ち切って、モラトリアム(セカイと言ってもいいだろう)の外の荒野へと踏み出す物語でもある。この点において「四畳半神話大系」も「夜は短し歩けよ乙女」も同一の描きをしているのは注目すべき点であると思う。「過去」に何をやってきてたのかよりも、眼前にあるなにがしかの「可能性」に対して行動を起こすことがまだ踏みしめられていない荒野へと歩き出す「最初の一歩」なのだ。それゆえに「夜は短し歩けよ乙女」の主題歌がAsian Kung-Fu Generationの「荒野を歩け」であるのは面白い符号だと言える。それゆえに両作ともに「モラトリアム」から抜け出し、結ばれた縁と共に外側を歩き出す話なのだ。



ここまで書いてお気付きの読者もいると存じるが、これら「モラトリアムからの脱却」という描きにおいて「少女革命ウテナ」はかなり強烈な印象とインパクトを与えている作品であることは疑いの余地はないだろう。この観点から語っていくと、「少女革命ウテナ」と「夜は短し歩けよ乙女」は驚くほどに同一のテーマを扱っているのが分かる。また「パラレルワールド」という観点からは「少女革命ウテナ」もTVシリーズと劇場版に至るプロセスで、設定を刷新し改めて語りなおしていることから同一の作品だが平行世界的な物語になっているのも見逃せない。

「劇場版ウテナ」でも天上ウテナや姫宮アンシーが過去に起こった因縁によって、「モラトリアム」に囚われ続けている事から自ら抜け出していくことにカタルシスを得る話であり、またそこで出会った人々の縁に救われる物語でもあり、そういった「モラトリアム(=セカイ)」を革命することによって、外側の荒野に抜けていく物語なのだ。「少女革命ウテナ」(劇場版、TVシリーズともに)において、ウテナとアンシーの対話は相反する自我の対話であるとも解釈されるが同様に「夜は短し歩けよ乙女」のパラレルワールド的作品である「四畳半神話大系」の「私」と小津も実は同じような性質を持っていると考えられる。そして、その「私」と小津の性質を自我の内に同居させているのが「夜は短し歩けよ乙女」の「先輩」であると見れば、その構図の上では「少女革命ウテナ」で提起された事を踏まえて、乙女と縁が結ばれていると解釈することも可能だ。

さらに乙女もこれに当てはめていけば、彼女の可愛らしくも凛とした立ち居振る舞いは「可能性」をずっと肯定し続ける天上ウテナであり、また「モラトリアム」の先に踏み出すことが出来るようになった最終回以後(あるいは劇場版)の姫宮アンシーでもあり、こちらも自我の内にウテナとアンシーを秘めているのだと考えられるだろう。「少女革命ウテナ」では同一の自我あるいは存在が自らに抱える「モラトリアム」の枷を取り払うことに物語の終着点としているのに対して、「夜は短し歩けよ乙女」ではお互いに「モラトリアム」を超えられる事が出来るようになった、異なる自我あるいは存在が繋がって共に歩んでいこうとする事が物語の終着点になっている。

もちろんどちらの作品も「可能性を掴み取る事」こそが「運命」であるという解を出していると考えられるが、個人的には20年近い時を経て、「少女革命ウテナ」が提示した解を「夜は短し歩けよ乙女」がアップデートしたという点でこの作品を最大限に評価したい。同等のテーマを扱ったことが、作品の趣を似通わせたのか、あるいはそういった演出方法を選択したことで結論が同じポイントにたどり着いたかは判断がつかない所ではあるが、この二作が同じ性質を帯びた作品であり、解の精度を高めてくれたという思いこそが「夜は短し歩けよ乙女」を鑑賞した際の筆者の強い印象である。


【おわりに】


「この世は舞台、ひとはみな役者」とは、かのシェイクスピアが遺した言葉だ。

この言に頼るならば、「少女革命ウテナ」も「夜は短し歩けよ乙女」もはたまた「四畳半神話大系」もそれを実践した作品であるといえる。特に本稿のメインである「夜は短し歩けよ乙女」は「一度きりの人生を演じる」事を非常に肯定的に捉えた作品であり、そこで触れ合った縁で結ばれる人々も「自分の人生の主人公を演じる役者」であり、「誰かの脇役」でもある。「先輩」も黒髪の乙女も「自分が主演の演劇」を演じながら、舞台である「世界(セカイ)」を縁で結ばれながら、まだ見ぬ荒野に向かって生きていく。そういった普遍的なメッセージを描いた作品だと思う。だからこそ「縁」は「愛」と言い換えてもいいかもしれない。本稿を書くに当たっての「縁」もそういった巡り合わせがなしえたものだと思えば、これもまた一興だと筆者は考える。

本文でも書いたが「少女革命ウテナ」はTVシリーズが放映20周年、映画も2019年に公開20周年を迎える。このタイミングでアップデート作品とも言える「夜は短し歩けよ乙女」と合わせて語れる場を提供してくださった事に感謝したい。かなり急ぎ足になってしまったが、短い執筆期間の中で書きたいことは書けたと思うので、ここまで読んでいただいた方に何か引っかかりを覚える稿になっていれば、幸いだ。どちらにせよ、

好きな作品が増えたことの喜びを共有できたら、筆者としてはこの上ないものだと明記して、筆を置く事にする。最後はお決まりの言葉で。ここまで読んでいただきありがとうございます。それではまたどこかでお会いしましょう。