【BOOTLEGS】Prank! Vol.3 Other Side-A 響かせるは、心〜「学園戦記ムリョウ」8話などに見る〜

さて困った。
唐突に水島精二作品を語りたいのだが、実はほとんど作品を見ていないのだ。全編見たので思いつくのが「大江戸ロケット」。それもストーリーに心惹かれたのではなくどちらかといえばキャラクターの魅力に惹かれたので別段、水島精二監督作だとか會川昇氏が脚本だというスタッフ周りには正直な所、あまり注目していなかった。他には「楽園追放」や「うーさーのその日暮し 夢幻編」を見ているが、どちらもそこまで印象に強い作品のようには感じられなかった。

自分にとっての水島精二という監督のイメージは「コンスタントに作品を量産できる職業監督」に他ならない。特色がないとはいわないが、際立った作風だったり、多用する演出技法だったりが非常に「目立ちにくい」監督のように思える。そうは言っても、「シャーマンキング」「鋼の錬金術師」「機動戦士ガンダム00」など世間で評価される代表作を持っており、その評価が高いのもまた事実だ。

が、残念ながら筆者はそういった水島精二監督の代表作は悉く見ておらず、見た作品も片手で済んでしまう位にしか本数を見ていないので、語ろうにも片手落ちになってしまうだろうし、監督のフィルモグラフィー全体に言えるのかどうかという点でも怪しい所ではある。そもそも先にも言ったとおり、個性や作風が「目立ちにくい」監督であるから何を語ったらいいのか、という所から考えなければならず、自分に語れる余地が果たしてあるのだろうか。

と、そこまで言い切ってしまうと身も蓋もないので、なにか語れそうな話題を探すことにしたい。水島精二監督が自分の所持している作品に参加していないかと探すと「学園戦記ムリョウ」が出てきた。この際だから、引っ張り出して見てみることにした。すると「ムリョウ」では8話の絵コンテを担当している。シリーズ構成から見ていくと、物語に大きな動きや目立った箇所がないエピソード。もちろん複線やそれまでの展開を汲んだ心理描写は見え隠れするがいわゆるひとつの「繋ぎ」の回だ。かといって決して「手抜き」をしてるわけではなく、今後の展開と「ムリョウ」という作品らしい学校生活やその生活感を丁寧に描いている。

「丁寧」という言葉が出てきたように、水島精二監督には「そつのなさ」を少なからず感じるのだ。「ムリョウ」8話のように作品内で自分の個性を炸裂させるのではなく、作品の「持ち味」に沿って上手く味を取り出すのに長けているのだろう。こういった派手さのない、かつ丹念な仕事振りは非常に「職人」らしいし、重宝される人材のように思える。さながら、和食の料理人のように細部まで行き届いた仕事だ。

しかしこの記事を書くために見ていると実はこの「ムリョウ」8話、ある点においてはシリーズ中でもかなり異色だというに気付かされる。しかも、かなりきっちりと「個性」を主張しているようにも見えるのだ。一方でそれは作画や演出といった、一見して分かるようなものでもない、というのが水島精二監督「らしい」と思わせる部分でもある。なにせ「目」に訴えるのではなく「耳」へ訴えかけているのだから。

つまり「音」である。音について言えば、「ムリョウ」8話、特にAパート、はかなり際立っている。簡単に説明してしまえば、「音による比喩表現」だ。比喩表現というとたとえば「〜のような」という風にある事や物に対して、別の事柄に当て嵌めて形容する事、と言えるだろう。水島精二監督はその表現を音、音響効果で実行しているのだ。「音の比喩」によって感情を表す。音と動作が伴う「映像」だからこその表現だろう。

また「ムリョウ」8話ではヒロイン、守山那由多の感情の起伏に現実では有り得ない音が重なる。怒りが頂点に達したときには花火が上がって炸裂するまでの音、脇目を振らずに、問い質そうと猪突猛進してくる様にほら貝が鳴り響く合戦場で馬が駆け巡ってくる音が「比喩」として、その時の感情を表現している。こういった「音の表現」はシリーズ全編を通してみても、あまり類を見ない表現なのだ。

もちろん効果音やコミカルな表現の装飾として音付けされるというのはあるが、ここまで密接に感情とリンクする「音」を使ってみせた、というのは絵コンテを担当した水島精二監督の手腕によるものなのだろう(演出は別の人間なので検証は必要だろうが)。心(感情)を「音」にして響かせる。これが「見えにくい」特徴のひとつなのだろう。漫画における「擬音(オノマトペ)」を「映像」に組み立て直すと、ここで説明している表現になりそうだ。

さらに「ムリョウ」8話Aパートでは那由多ともう一人のヒロイン、峯尾晴美が生徒会室で二人きりの会話をする際のピアノの旋律がその場のアンニュイな雰囲気を感情を盛り立てているのにも気付く。意識しているだろう相手の事や彼女たちを取り巻く周囲の問題に対する先行きの不安や恐れ、わだかまりを引き出すのに一役買っている。このような「感情の増幅装置」としての「音」を意識しているようにも見て取れる。

こちらはかなり映像手法としてオーソドックスなものだろう。場面や感情を引き立てる時に使われる、いわゆる「劇伴音楽」だ。「ムリョウ」8話だけを見ていると、水島精二という演出家は場面、というよりは登場人物の感情や心を音によってより大きく響かせている。画面のドラマ性よりも物語の中に在る人物たちの情緒をつまびらかにする事に注力しているのだ。

そういった観点で今度は「大江戸ロケット」を見ていくと、興味深い。先に説明した「音の比喩」はそう多くないにせよ、「感情の増幅装置」としての「劇伴」を意図的に使っているように見えた。というのも「主題曲(テーマ)」がいくつも用意されているからだ。たとえば主人公の玉屋清吉を始めとした風来長屋の面々が協力し合うところにはビッグバンドのジャズ、アウトロー気質の影の主役、銀次郎の身に纏うテーマは哀愁のラテンだったりと、「劇伴の役割」がかなり明確に決まっている。

この辺りの「劇伴」の「音響素材」感は「大江戸ロケット」アニメ版自体に6〜70年代のTV時代劇や特撮、アニメなどの影響が大きいように思える。オリジナルの舞台版を見ていないので詳しい言及は避けたいと思うが、アニメ版においては山下毅雄や大野雄二の音楽などに代表されるような、「主題曲」とそのヴァリエーションを繰り返し使い回すことで場面の意味づけや感情表現の条件反射化を意識して行っている。それはTVドラマや映画などや、もちろんアニメでも使われる常套手段でもある。

そんな中で水島精二監督はより人物の感情や心を「音に響かせる」のだ。映像をドラマチックにするのではなく、キャストの「演技」と合わせ、まるでそれらをアンサンブルとソリストに見立てて、「登場人物」を際立たせる。そこが面白いところではないのだろうか。であるから、この水島精二監督の手腕はより作品が「骨太な物語」であればあるこそ、その味わいは生きてくる。

実際、「ムリョウ」8話も「登場人物」を際立たせるという視点では、那由多と晴美、那由多と始、晴美と京一、などの関係性をよりストーリーの中において浮き上がらせている事が主眼だったように感じられるので適材適所だったのだと思う。なるほど水島精二監督の代表作も音で「人物を際立たせる事」によって、物語の奥行きを深めているように思うが、見ていない筆者がそこまで言ってしまうのは流石に憚られるだろう。ここでは検証の価値があるのではないだろうか?という所で留めておきたい。

この水島精二監督の「音の表現」の影には監督作ではほぼ必ずといっていいほど参加している、音響監督の三間雅文さんの貢献もかなり大きいだろう。「ムリョウ」も音響監督は三間さんだ。音を操る(?)水島精二監督にとっては切っても切れない人材であることは間違いない。もっとも「ムリョウ」と「大江戸ロケット」はスタッフの被りが多数あり、製作会社も同じという辺りも確認しておこう。

余談ではあるが「学園戦記ムリョウ」と「大江戸ロケット」は物語や音楽周りに意外と共通項がある。メインのキャラクターデザインがどちらも吉松孝博さんであることもそうだが、物語の骨子が「井の中の蛙」の物語であるという点(「ムリョウ」は21世紀後半の地球が銀河連邦へ仲間入り出来るかどうかの物語、「大江戸ロケット」はアヘン戦争などに揺れ、鎖国体制に無理が生じだした天保年間の江戸が舞台)、音楽についていえば「大江戸ロケット」の方が「学園戦記ムリョウ」に参加した大野雄二を意識したようなジャズメインの作品だということも言える。その辺りを製作する際に水島精二監督が意識したかどうかは定かではないが、「大江戸ロケット」のモブキャラにはムリョウの監督、佐藤竜雄さんや水島監督や吉松さんをモデルにしたキャラも出てくるので、そういったことは織り込んでいるのかもしれない。

またキャラクター面、あるいはストーリー面においては記憶にも新しい「コンクリート・レボルティオ〜超人幻想〜」との共通性も見出せるだろう。「大江戸ロケット」と同じ水島精二×會川昇のコンビ作品、キャラクターデザインに複数の漫画家やイラストレーターを使用しているという点からもさまざまな類似を探し出せることが出来る、と思う。舞台の戯作を翻案した作品と會川昇が原案となったオリジナル作品という点からも比較、さらに飛躍して會川昇原作で「コンクリート・レボルティオ〜超人幻想〜」と同じくボンズ製作の「天保異聞 妖奇士」とも絡めて語ることは出来るはずだ。筆者としてはそれらを語るには時間と労力が惜しくもあるので、論を構築する材料を提示するに留めておきたい。何かきっかけがあって、語ることもあるかもしれないが今のところその予定は考えていないと言うことは断っておく。

ここまで水島精二監督の手がけた仕事に見る「音の表現」に作風を見出した事を手短に語ってきたが、先ほども言ったようにこれが監督のフィルモグラフィー全体にいえることなのかは、そこまで熱心に見ていない筆者には見当がつかない。あとはもっと作品を読み込んでいるファンの方々に託したいと思う。今回の記事はそういった「種まき」みたいなものとして記しておこうと思ったのがきっかけでもある。水島精二作品を語る際のきっかけになれたらと思いつつ、筆を置きたい。




はい。というわけで、今回はこちらの告知記事でした↓


自分は「Side-B 水島努評論集」へ寄稿しております。「Side-A 水島精二評論集」ではないのでご注意を。寄稿していない方でエッセイを書いてみたかったので、こういった変化球な告知を考えてみたのですがいかがだったしょうか?
肝心の寄稿の方は38000字超という長い文章を書いてしまいました。相当なボリューム数だったようで(当たり前だ)、自分の文章だけ文字のフォントサイズが小さめとなっておりますので、あらかじめご了承ください。内容についてはリンク先をご確認を。文面は今回の記事みたいな感じで書いております。片手間には読めないと思いますが、お手に取った際、あるいは購入された際に目を通していただければ、これ幸いです。