「ガールズ&パンツァー劇場版に寄せて〜Long Way to Homeground〜」



『戦車道には人生に大切なことが詰まっている。でもほとんどの人がそれに気づいていないんだ』


ガールズ&パンツァー劇場版」で初登場した継続高校隊長、ミカは劇中でこう語る。


TVシリーズ最終回からOVAを挟み、紆余曲折を経て完成した劇場版はファンにとって、待った甲斐のあった映像体験に違いないだろう。今まで登場したキャラクター、戦車が画面に余すことなく登場し、またTV本編では取り扱われなかった戦車群も大挙して、新キャラとともに押し寄せてくる。非常に密度の濃い画面と動きが脳細胞の処理に追いつかないほど、見所のある作品と言えるだろう。


さて、上に挙げた台詞の持つ意味は恐らく映画全体に投げかけられたものだ。戦車道。この極めて重要、かつ外す事の許されない免罪符(設定)は「華道や茶道と並ぶ乙女の嗜む武道の一つである」と定義されている。他の武道と同様に礼節に始まり、礼節に終わる。伝統ある武道として作中に存在するだけあって、それ相応の歴史が積み重なっている事が感じられるのだ。では、ミカの語った言葉は何を意味するのだろう。伝統という重みから発せられる格言の様にも取れるのだが、どうも違うように感じた。「人生に大切なものが詰まっている」、「けど多くの人はそれに気づいていない」 まるで謎かけである。


思えば、TVシリーズは「困難や苦難に抗って、覆す物語」だったように思う。廃校という最後通牒を突きつけられた大洗女子学園。黒森峰学園の十連覇を自らの行動で逃した負い目から、戦車道から遠ざかろうとした西住みほ。窮地に立たされた学園と、家元の娘である重圧と負い目から逃げ出したかった少女、この結びつきそうない二点が「戦車道」によって交差した。天の配剤ともいうべき邂逅がこれら二つの運命の風向きを大きく変えていくのは視聴した人ならば、周知の事実だろう。


「抗って、覆す」という以上にまた「学園を取り戻す」という命題も色濃くある。戦車道を教科として扱わなくなって久しい大洗女子がその戦車道で廃校を免れようするわけだから、その先に険しい道のりが待っているのは自明の理。しかし、そこにしか「道」はない。「戦車道にまぐれなし」 学園が存続できる実績を築くには、そうとまで言われる武道の全国大会を勝ち上がって優勝する以外になかった。


そこに主人公、西住みほの物語が重なってくる。彼女もまた「なにかを取り戻す」物語を繰り広げてゆく。大洗女子に転校してきた理由の一番は、なにより戦車道が教科になかったことだ。その原因は本編でも語られているが、戦車道に向き合う事が嫌になり、実家から遠い高校へと逃れてきた。だが「戦車道」は彼女を見捨ててはいなかった。ひょんな事から戦車という「道」を、出会った友人に支えられながら再び歩み出す。


抗って、覆す。というより、どんな絶望的な状況でも活路を見出し、劇的勝利を収める所がTVシリーズ本編の醍醐味だろう(OVAだけは大洗女子が「圧勝」する展開なので省略されるのも致し方ないが)。ジャイアントキリングという言葉通りに、西住みほという格好の司令塔を得て、悪戦苦闘しながらも強豪に勝ち進む様はそれ自体がドラマティックでもあり、ファンは彼女たちの内情を知りつつ、画面に集中するわけだからその感動もひとしおだ。


この一連の展開にはチャーリー・シーン主演の映画「メジャーリーグ」を想起させられる。事細かにあらすじを語ることはしないが、端的に言えば「大リーグの万年お荷物球団が存続をかけて、優勝を目指す物語」だ。この大枠のプロットは「ガールズ&パンツァー」もほぼ同様だ。もちろん設定や展開されるドラマは違うが「弱者が強者を乗り越えて勝つ」という点においては、観客の共感を得やすい王道のプロットと言える。


かくして逆転に次ぐ逆転で辛くも優勝を勝ち取り、廃校の危機を脱した大洗女子。西住みほもまた黒森峰や西住流とも異なる「自分らしい戦車道」を試合を通じて見つけ出し、「戦車道」の楽しさを取り戻すに至った。その楽しさは信頼できる仲間たちと共に支えあいながら、得られたものだという事に異を唱えるものはいないだろう。


対して劇場版は「帰還する物語」だ。あの満漢全席さながらの膨大な情報量を紐解いていくと、浮き彫りとなるのは極めてシンプルなテーマだ。単純に「大洗女子学園に帰投する」という一点においてのみ、注力して描かれた作品である。そこに対して描かれるべき、または付随してくる物語の枝葉が大樹のように広がって、映画はあのような大質量を持った作品になったのだと推察する。


それはまた西住みほを始めとした、大洗女子学園の生徒たちが「自分たちの帰る場所がどこなのか」を問われる物語でもある。劇中において、「行き先を見失ってしまった」彼女たちは、様々な思惑を見せる。一番顕著なのは生徒会長の角谷杏であり、風紀委員のソド子たちだ。一方は帰還すべき場所の「方位」を捜し求めて東奔西走し、他方は行き先を見失ったことで自暴自棄になる様子が描かれる。その他の面々の反応も様々だが、次に備える行動を取っているのは幾多の困難を乗り越え、優勝を果たした面々だからこそだろう。しかし、西住みほだけは他にはない独特のゆらぎがあるように思う。それは彼女が元黒森峰の生徒だからだ。


ガールズ&パンツァー」という作品において、学園と生徒の関係性はとても強固に構築されている。聖グロリアーナ、サンダース大付属、アンツィオプラウダ、黒森峰といった各高校の特徴を捉えるとより分かり易いだろう。戦車道において、これらの特徴は戦車や戦術にまで伝播しており、さらには学園艦という一つの町(社会)そのものを形成している。学園の色合いがそのまま人、社会にも染められており、生活と切り離せないほど根付いているのだ。


もちろんそれは新登場した知波単学園、継続高校に言えるし、大洗女子学園も然りだ。だからこそ「帰還しなければならない」し、「行き先を見失う事」の意味がどれだけ重いのかは想像だにおえない。大洗女子が優勝したという歴然とした事実より、登場人物たちすべてに「帰るべき場所の喪失」の方が心に響いてきているように感じられた。


だが西住みほにはもう一つ「帰る場所」がある。それは西住流であり、黒森峰だ。大洗女子で切り開いた自分の「戦車道」とは異なる、一旦はその息苦しさから逃避した場所。劇中でそこへと帰る場面が存在するが、思い返されるのは姉のまほとの幼い頃の思い出。戦車に乗ることが楽しかったある日の情景は彼女の無垢な感情なのだろう。それを捨ててまで帰る必要があるのかという投げかけにもなっているのは確かだ。


映画の物語ラインは「群像劇」的要素を多分に含んでいる。だから西住みほへの問いかけもそこまで深く掘り下げられてはいないが、彼女のゆらぎは思わぬ形で「帰るべき場所」への起死回生へと繋がっていく。一つは大洗女子が全国優勝高だという事実、もう一つは彼女の母親が戦車道世界大会の日本代表選抜チーム顧問を打診されていた事である。彼女の中で揺れる「大洗女子」と「黒森峰(西住流)」が状況を切り開くことになった。


映画において彼女の母、西住しほは西住流の師範から正式な家元となったが、TVの最終回から察せられるように娘と言葉を交わさずとも、みほの見つけた「戦車道」を陰ながら讃えていた。そして映画においても同様に彼女の感知しない場所で、彼女の戦車道を守ろうと尽力する。実際、そうであったかは定かではない。ただ「戦車道」を志す大洗女子生徒たちの「帰る場所」を守る理由の一端になっていたのは相違ないだろう。


そういった政治劇の末に勝ち取った「方位」は今までにない逆境を強いられる道程だった。そこへさらに降りかかる「悪天候」は大洗女子、さらには西住みほにとっても無理難題というべきものである。そしてその「道」に立ちはだかる「相手」も大学選抜という、今までとは比べ物にならない強さ。そんな状況の中、西住みほはこう言い放つ。


『戦車はどんな道でも行けます』


と。それはここまで乗り越えてきた道のりを考えれば、当然の言葉だ。しかしそれでもなお絶対不利の情勢は変わらない。しかし、「帰る場所を見失った」大洗女子を助けるのは彼女の母(や高校戦車道連盟の人たち)だけではない。かつて優勝を争って戦ったライバルたちも同じ思いを持って、情勢不利の大洗女子に助太刀してきたのだ。


戦車道における学園と生徒の密接な関係。それを誰よりも理解しているのは、同じく戦車道を共に歩む他校の生徒たちである。大洗女子の窮地が理解できるからこそ、「方位」が決まるまでの手助けもしたり、「帰るべき場所への道程」が困難であるからこそ、共に乗り越えるため、一堂に会してくれたのだ。


そう、全ては「戦車道」なのである。「戦車道」が人々を繋ぎ、「戦車道」を通じて、思いが繋がれたのだ。学園という「帰るべき場所」のために、戦車はどんな険しく厳しい「道」でも前進するしかない。「帰還する物語」として映画はこれ以上にない帰結をしている。学園へと「帰還」する為に志を共にする「仲間」の力を得て、立ち向かう。戦車道という架空の武道に宿る「競技者精神」が体現されているのではないだろうか。


ここで冒頭に挙げたミカの言葉を思い出してほしい。


『戦車道には人生に大切なことが詰まっている。でもほとんどの人がそれに気づいていないんだ』 


一見、格言や謎かけに思えた言葉は映画全編を通じて、実は紐解かれている。多くの人たちが気づくことがない、しかし人生に大切なこと。一言でまとめれば、『一期一会』。もっと端的に言えば「出会い」なのだろう。人の出会うきっかけとはなんだろうか。人によって様々ではあることには違いない。しかし、この「ガールズ&パンツァー」という物語におけるきっかけとは「戦車道」なのだ。


「戦車道」を通じて人は出会い、「戦車道」を通じて繋がりが生まれる。その「戦車道」をきっかけに生まれた出会いこそが、多くの人たちが「あまりにも何気ないことすぎて」気づいていないことで、大切なことなのではないだろうか。大洗女子の生徒たち、ひいては西住みほと仲間たちが通ってきた「道」、これから通るだろう「道」にこそそれは詰まっていると考えれば、ミカの言葉は至極、説得力を帯びた言だろう。


事実、継続高校の面々の立ち居振る舞いはまさしく「一期一会」を体現し、風のように訪れ、風のように去っていった。劇中で既存メンバーと言葉を交わす場面も少なく、西住みほと会話する場面は皆無な所からしても、一生に一度の出会いをもって、大洗女子との共闘を交わして行ったようにすら思える。出会いがあれば、別れもあるのだ。


そういった一期一会の「道」が「戦車道」そのものであるならば、この作品が辿った紆余曲折もまた様々な出会いのあった「道」だろうし、製作者側の方にも波及するメッセージなのかもしれない。パンフレットに並ぶキャストやスタッフ、作品に協力した人々の名を眺めるとなおさらそう感じてしまう。そしてまた、劇中で辿った大洗女子史上最大級の険しい「道」も「帰るべき場所」へ繋がる「一期一会」だったのだ。


TVシリーズを映画の「メジャーリーグ」になぞらえたが、「一期一会」というテーマを見出すと劇場版はその続編「メジャーリーグ2」という位置づけではなく、トム・ハンクス主演の「フォレスト・ガンプ〜一期一会〜」を思い出さずにはいられないだろう。アメリカの歴史にさりげなく影響を与えたあのフォレスト・ガンプの辿った道のように、西住みほが仲間たちと歩んだ道のりは関わった人々すべてに影響を与え、与えられたりしていたのではないだろうか。


ここまで長々と語ってきたが、最後に映画のEDに触れて終わろう。物語の最後として象徴的なのはEDロールに入ってすぐの西住姉妹だろう。台詞がないので想像するしかないのだが、「帰ってこないか?」という姉の言葉に「みんなが待ってるから」と妹が答えているように話すシーンこそ、映画における西住みほのハイライトシーンであり、「帰還する物語」の結びだ。西住みほの「戦車道」こそが大洗女子の「戦車道」なのだから。


また各校がそれぞれの移動手段で「帰っていく」のも印象に深く残る。飛行機、学園艦、飛行船、ホバークラフト、車、汽車などなど「らしい」乗り物で帰路へと着く。みな「帰るべき場所」があるからそこに迷いはない。それは戦いに勝利した大洗女子もまた同様だ。ラストカットは海上に浮かぶ大洗女子の学園艦。彼女たちは「映画」と言う長い長い道のりを経て、ようやく無事「帰還」出来たのだ。西住みほが最後に見せた笑顔がそれを何よりも物語っている。




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