大長編ドラえもん私的考察〜F先生の描いたもの〜(中編)

引き続き、続けていきます。
2012-06-18 - In Jazz
前回、説明したフェーズ分けで今回は第3期の考察をしていきます。
ホントだったら第4期作品にも触れて、後編として語りたかったのですが、
当方の予想に反して、第3期だけで前編以上の文量になってしまいました。
ので、今回は中編とさせていただきます。
申し訳ないです。
次回でホントに終わりますのでなにとぞよろしくお願いします。


さて
第2期のシビアな世界と夢と現実を描いたわけですが、
F先生は第2期最終作の「パラレル西遊記」に(恐らく)関われてないことが起因して、
第3期以降の作風に変化が現れているというところまでが前編の流れです。
前回も説明したとおり、考察は第4期まで(今回は第3期のみ)とさせていただきます。
未見作品の多い第5〜6期については、
ラインナップから感じられる雑感と所見を軽く最後に述べたいと思います。
ご了承ください。
前置きはこの辺にしておいて、早速続けていきます。



《第3期:人間と文明〜その愚かさと醜さと尊さ》


1989年公開の「日本誕生」は色々とメモリアルな作品です。
大長編ドラえもんの10作品目。
平成時代の第一作にして、F先生の復帰第一作。
そして同時上映作品がF先生のスピンオフ作品になり、上映作品がF先生一色になったという点も特筆。
 (※1:87年に藤子不二雄のコンビを解消、翌88年にそれぞれ藤子不二雄A藤子・F・不二雄となる)
 (※2:この影響から、88年を最後にA先生原作アニメの劇場同時上映作が終了)
その第一作が「ドラミちゃん〜ミニドラSOS!!!」でした。
藤子Fワールドが拡散を始める中、大長編に選ばれた題材が原始時代の日本。
そう、太古の昔の日本なのです。
ドラえもん のび太の日本誕生 - Wikipedia
時代は7万年前。後期更新世の日本および中国大陸。
まだ文明文化の兆しも見えない原始人の世界を舞台に、
映画ドラえもん第3期のテーマとしてはまたとないスタートを切っています。


人間と文明における問題に対し、
ドラえもんたちがベターな希望を提示する物語


これが第3期のテーマです。
その中でも特に人間という部分にF先生はスポットを当ててるんではないかなあと思われます。
文明を築きあげるのは人間。
だが文明を破壊してゆくのも人間なのです。
第3期最初の作品である「日本誕生」が原始時代が舞台であるというのはおそらく。
F先生自体が「人間」というものを改めて見つめ直したかったからのではなかろうかと。
これが第2期でシビアな世界観を描いた事もかなり起因しているのではなかろうかと思います。
かつてF先生とA先生の処女作「UTOPIA〜最後の世界大戦〜」の作中でも言われている台詞の中に、

文明は人間によって、進歩を極めた。
しかし実際の所、人間そのものは全く進歩してないじゃないか
(注:うろ覚えの要約です。台詞ままではない事をご了承ください)

という象徴的な台詞が終盤に出てきます。
第2期作品の世界観はまさしくそれなわけです。
どんなに技術があっても、
どんなに高度な文明が存在しても、
それを利用するのは人間(もしくはそれを支配する者)に他ならないわけです。
使い道を誤れば、世界が破滅してしまう。
これらは第2期での世界観にも当てはまりますが、
なによりも第2期のドラえもんたちへの反省でもあるんではないでしょうか。
個人的にはリアルタイムに見ていた映画ドラえもんの作品群であるし、それなりに思い入れもあります。
ですが。
何度も見ていくうちにそのドラえもんたちのスタンスの中庸さというのに辟易する事があります。
この頃の大長編は結構、展開が平板な印象が残ります。
エピソードの積み方が淡々としているといっていいのかもしれません。
対して第2期作品はいやがおうにも展開がドラマティックでスピーディですね。
エンターテイメント性を求めた故に過激になっている。
逆に第3期は全体の流れが緩やかでほの暗い展開ばかりです。
穏やかな世界観に見え隠れする欝展開。
そう、日常に潜む狂気のような、我々の生活により身近な問題を取り扱い、
題材的には第2期よりも問題が複雑化しているのです。


日本誕生:我々の先祖とそのルーツ。その文化的ルーツを侵食する未来人。
アニマル惑星:争う人間たちの末路。動物たちのユートピア
ドラビアンナイト:富も地位も経験も全て極めた男の悲哀。そこに群がる欲深き男たち。
雲の王国:地上人の環境破壊に怒る天上人。支配欲の強い地上人たち
ブリキの迷宮:機械文明に溺れていった人間たちの末路。


どの作品も人間にスポットを当ててみると、ずいぶんと露悪的ですね。
ヤな感じです。
これは時代的にバブル〜バブル崩壊の時期に製作されたというのも起因しているかもしれません。
空前の好景気が一気に尻すぼみ、今なおその傷跡は癒えないままです。
その喪失感たるや、あの時代を通り過ぎた方なら誰しもが感じるところではないかと思います。
第3期はどれも爛熟しきった文明に関わった人間たちの物語なのですよね。
しかし人間を露悪的に捉える事はいくらでも可能ですが、悪い人間もいれば善い人間もいるのが社会というものです。
第3期のドラえもんたちは善の側から人間を捉える立場ですね。
第3期の構図としては、


1.ゲストキャラの人間の暗部に対する問題提起と行動
2.それに対して、人間の愚かさを見せ付ける悪玉の活躍
3.善玉のドラえもんたちによる活躍と人間の弁護。


がパターンであると思います。
これからちょっとパターンからずれるのは「日本誕生」と「ドラビアンナイト」なのですが、これは後述します。
「ブリキの迷宮」はこのパターンの2の段階が行き着くところまで行ってしまい、ドラえもんたちに助けを求める流れですね
このパターンにちゃんと乗っかっている「アニマル惑星」「雲の王国」の二作では、
人間の上に文明的な超越者がいるという点において共通してます。


アニマル惑星:動物たち(クリーンなエネルギーシステムを構築、完全循環のエコサイクル社会)
雲の王国:天上人たち(太陽光発電でこちらもクリーンエネルギー、異星人との交流も盛ん)


ここでは人類がまだ実現していないor成し得なかった理想的環境に住む存在を指します。
どちらも彼らの住む社会環境においては全くの平和です。
人間(地上人)たちはその高度な文明を羨み奪い取ろうとする、平和を脅かす存在として描かれています。
ここら辺は大長編の悪役の描き方においても変化があるのですが、
「アニマル惑星」「雲の王国」のどちらにおいても、
一人の悪役ではなく、不特定多数の人間そのものが「悪」であるという風になっています。
思い返していただきたいのですが「アニマル惑星」も「雲の王国」も敵となる人間に「名前」がありません。
「アニマル惑星」のニムゲは総称ですし、
「雲の王国」の密猟ハンターもキャラを特定する名はありません。
おそらくは人間の愚かさを描くに当たって、匿名性を出したものではないのかなあと。
ドラえもんはあくまで子供向けのアニメという前提が崩せないので、
そういった人間全体に通じる暗部を表現する際に固有名のついたキャラは必要なかったのでしょう。
でも裏を返せば、この二作での人間たちの描写は誰にでも起こりうることでもあるというのも踏まえておくべきです。
ちょっとした状況の変化が引き金になり、
人間の欲望は悪い方向へ、あるいは間違った方向へ行くということは現実においてよくあることでもあります。
人の欲深さを認識しつつ、相互理解の上で歩み寄ることで未来に繋げていく。
欠点を自覚し、そこに抑制(ブレーキ)を掛けながら、お互いの納得のいくラインでの妥協点を模索する現実的な帰結。
第3期作品の終わり方がどれもハッピーエンドだけど、ベストではなくベターエンドなのは、
作中の問題提起は現実においても直面している問題であるからなのだと思います。
もちろんそれは公開から十数年経った今でも地続きな問題でもあるでしょう。
人間がこれから先の未来をどう生きていくべきかを投げかけているのも、第3期の特徴です。


ちょっと特殊なのが「日本誕生」と「ドラビアンナイト」でしょう。
この二作は過去の時代が舞台になっており、そこに異分子として未来の文明(道具)が乱入しています。
そしてそれらを扱う人間を描いているのです。
「日本誕生」ではギガゾンビという名の未来人が作中の敵です。
彼は23世紀からやってきた時間犯罪者。
原始時代にやってきて未来の道具を使えば、いとも簡単に世界を支配できると考えた矮小な人間です。
要は文明の形成されていない時代に文明の利器を使って、王に君臨したいと考えた。
逆に言うと、23世紀だと彼は何一つ成功できない弱い立場の人間であるとも想像できます。
ギガゾンビのバックグラウンドは作中で全く説明されていないので、想像で補完する以外ありませんが。
あのものものしい仮面の下がデコっぱちで出っ歯な小物らしいビジュアルであることからも想像に難くないでしょう。
これから文明が興っていく穏やかな時代にやってきた文明の侵略者
それがギガゾンビなのです。
オーバースペックな道具を悪用するという点においては、
「雲の王国」のハンターたち、「ドラビアンナイト」のアブジルたちと重なるところがありますね。
どれも人間の欲深さを醜く描いたという事において、
ギガゾンビは第3期の悪役像の雛形でもあるといえます。



一方、「ドラビアンナイト」。
絵本のアラビア世界と実際のアラビア世界がリンクするした世界観は
第4期へのちょっとした布石でもあるとは思いますが、置いておくとして。
かつての冒険者だったシンドバットがこの作品のゲスト。
図らずも未来人を助けた事で莫大な富と便利な暮らしを得たシンドバットですが、
時代から隔離され、冒険者だった頃のアイデンティティも奪われてしまっています。
それとは対照的に当時のイスラムの王、ハールーン・アル・ラシードはその地位と名声を利用し、国を栄えさせていました
社会の一部として、その発展に貢献しているんですよね。
けど、シンドバットは社会からオミットされており、生活サイクルもその利便性の高さから自己完結してしまっています。
高度な文明を利用する事の副作用というべきでしょうか。
シンドバットの身の回りは便利になりましたが、自らを促して行動する機会は失われてしまった。
生活は豊かになったけど、心の豊かさは先細りしていったのではないかと。
であるからこそ、その敵のアブジルたちに城を奪われてしまったシンドバットの情けない姿に対し、
のび太が叱咤するという流れが生まれているのではないでしょうか。
便利になりすぎたために、自分らしさを見失ってしまった中世の人間というのがシンドバットといえます
この道具への過信と利便性の楽観主義というのが「ブリキの迷宮」のメインへと発展していきます。
F先生なりの警鐘なのでしょうね。


このようにギガゾンビとシンドバットは対照的です。
古代に紛れ込んだ未来人と未来の道具を手に入れた中世人。
道具をどう使うかは使う人間によります。

良いも悪いもリモコン次第は鉄人28号ですが、これもわりと真理です。
便利になることの虚しさ、便利であるが故の傲慢さ。
道具に対してどのように向きあうべきかという命題が現れてきます。
それは当然、ドラえもんのび太たちにも降りかかってくるのです。
第3期の顕著な特徴としてドラえもんの絶対性が崩れるというのがあります。
この傾向が現れるのは「ドラビアンナイト」から。


ドラビアンナイト:四次元ポケットを敵に奪われる。
雲の王国:落雷を受けて、故障。ハンターたちに騙され、雲戻りガスの詰まったタンクに特攻、二度目の故障。
ブリキの迷宮:チャモチャ星のロボットに捕まり、拷問の末、機能完全停止。海底へ廃棄される。


……色々扱われ方がひでえな。
ドラえもんひみつ道具を使い、困ってるのび太を助けたり、
大長編ではそれらを駆使して事件を解決したりしていました。
ただこれまで振り返って考えると、ドラえもんあまりにも便利すぎるんですよね。
第3期の後半3作では上で列挙したように、のび太側にドラえもんの故障というハンデが背負わされる事になります。
これによってのび太たち人間が能動的に行動して、
はじめてドラえもんが復帰すると言うシークエンスが指し挟まれる事になります。
人間が行動する事ではじめて事態が動き出すと言う事が重要視されいるのに注目です。
そしてドラえもんという「ロボット」の命題とそののび太たち人間の自己解決力を突き詰めたのが
「ブリキの迷宮」と言えるでしょう。
ドラえもん のび太とブリキの迷宮 - Wikipedia
「ブリキの迷宮」は「機械文明を楽観、享受してしまった人間が自ら作ったロボットに排除される危機に瀕する」
のを、ドラえもんたちが助けるお話です。
実はこのテーマ、F先生が「ブリキの迷宮」を描く遥か以前に、作品として描いているのです。
この項の冒頭で挙げた藤子不二雄両氏の処女作「UTOPIA〜最後の世界大戦〜」だったりします。
UTOPIA 最後の世界大戦 - Wikipedia
リンクはあらすじを直接リンクさせていただきます。
一口に説明するのが難しいので、参照していただければと。
ちなみにリンク先でも説明されていますが「UTOPIA」の作品構成はF先生の手によるものです。
(A先生は当時新聞社に勤めていたので、主に作画の手伝い。この顛末は「まんが道」に詳しく書かれています)
「UTOPIA」も「ブリキの迷宮」でも
「科学至上主義の結果、人間がロボットに排除されてしまう」所が非常に似通っていますね。
「UTOPIA」ではロボットが自滅する事で自体が収束するのですが、
「ブリキの迷宮」ではドラえもんたちの手助けを得て、
ナポギストラーコンピューター・ウィルスを注入する事で自滅を促してます。
赤字で強調したところは「ブリキの迷宮」において、等価の存在です。
つまりドラえもん「ロボット=道具」の図式を逃れられないのですね。
よく言われるネタでドラえもん一体いれば(そのひみつ道具使って)、世界征服可能だよな」
ってのが見受けられますがまさしくその通りなワケで。
使い方を誤れば、ドラえもんも「危険」なのです。
第2期作品を振り返ると、そのドラえもんの危険性に対しては目隠しをされた状況ですよね。
それ以上にシビアな世界観と世界の危機が迫っていたので、トラブルバスターとしてドラえもんが機能していましたので。
(トラブルメーカーの側面ももちろんあったのは前回の説明の通りです)
そう、ドラえもんもまた「絶対無敵」と言う事はありえないのです。
第3期後半3作はそこを的確に明示しているわけです。
「自分の犯した不始末は自ら始末しなくていけない責任がある」
という第2期作品における解が
「人間の犯した不始末は人間自らが処理しければならない責任がある」
という風に第3期では発展しています。
この結論は物凄いシリアスな命題ですね。
「人はその発展の為に道具を使わなければいけないが、
その利便性を過信して人として進歩を止めてしまうはもっとも愚かである」
ということなのですね。



……ん?
あれ、今どこかの国でそんな議論が交わされてたような……。





閑話休題
第3期のテーマは人間と文明であると最初に説明しましたが、
その歴史は常に道具との付き合い方なのではないでしょうか。
であるから、F先生は第3期の出発点として原始時代の日本を選択し、
その終着点として自らの創作の出発点と同じテーマを「ブリキの迷宮」で取り扱ったのだと思います。
人間と道具。
のび太たちとドラえもんの関係を突き詰めるとそこへ行き着きます。
だけど、安心してください。
ドラえもんはみんなの友達です。
自律し、時には一緒に悩み考え、助けてくれる心優しきロボットなのです。
その優しいまなざしで人類の未来をきっと見守ってくれる事でしょう。





って、これで終わりのようですがまだ第4期作品が残っています。
このように第3期は人間の現実的な問題を取り上げて、
ドラえもんという存在と人間との関係性をF先生が開陳したことが分かるかと思います。
社会と人間とロボット。
第2期、第3期と、比較的スケールの大きい話題が続いてきました。
しかし、第3期最終作「ブリキの迷宮」において、それらはテーマ的に原点回帰することで描ききってしまったのです。
F先生の晩年期にもあたる第4期作品はまた少し毛色の違った語り口で展開されることになります。
そしてそれはF先生本人が自らの人生と向き合うことに他ならなかったのです……。
(次回最終回。今度こそ後編に続く)

UTOPIA 最後の世界大戦 (復刻名作漫画シリーズ)

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まんが道 (1) (中公文庫―コミック版)

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