話数単位で選ぶ、2019年TVアニメ10選

今年もやってまいりました。話数単位で選ぶ、TVアニメ10選です。
毎年放映されたTVアニメの中から話数単位で面白かった回を選ぼうという有志ブロガー企画。
新米小僧の見習日記さんが集計されている、年末の恒例企画です。
「話数単位で選ぶ、2019年TVアニメ10選」参加サイト一覧: 新米小僧の見習日記
大まかなルールは以下の通り。

ルール
・2019年1月1日〜12月31日までに放送されたTVアニメ(再放送を除く)から選定。
・1作品につき上限1話。
・順位は付けない。


本ブログは9回目の参加です。なお過去の10選は以下のリンクから。


話数単位で選ぶ2011年TVアニメ10選 - In Jazz(はてなダイアリー版跡地&元『My Favorite Things』)
話数単位で選ぶ2012年TVアニメ10選+α - In Jazz(はてなダイアリー版跡地&元『My Favorite Things』)
話数単位で選ぶ2013年TVアニメ10選+α - In Jazz(はてなダイアリー版跡地&元『My Favorite Things』)
話数単位で選ぶ、2014年TVアニメ10選+α - In Jazz(はてなダイアリー版跡地&元『My Favorite Things』)
話数単位で選ぶ、2015年TVアニメ10選 - In Jazz(はてなダイアリー版跡地&元『My Favorite Things』)
話数単位で選ぶ、2016年TVアニメ10選 - In Jazz(はてなダイアリー版跡地&元『My Favorite Things』)
話数単位で選ぶ、2017年TVアニメ10選 - In Jazz(はてなダイアリー版跡地&元『My Favorite Things』)
話数単位で選ぶ、2018年TVアニメ10選 - In Jazz -What's Going On-


筆者としては「記録を残す」という点で、企画に参加してます。今年も10選コメントについては手短にまとめてあります。同様に全話見てない作品からの選出もしていて、かなり寄せ集めとなっています。ご了承ください。
ちなみにスタッフ名等々は敬称略です。日付は地上波放映日、Web上の公開日の最速に準拠しています。


《話数単位で選ぶ、2019年TVアニメ10選》
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・マナリアフレンズ 第4話「試験期間」(2/11)
(脚本:関根聡子/絵コンテ:村山公輔 /演出:茉田哲明/作画監督:崎口かおり、助川裕彦、吉岡佳宏、角田桂一、重国勇二/総作画監督:吉田南)

16年の放送延期から、スタッフを刷新して放送となった作品。シリーズ全体としては素晴らしい出来とはならなかった(降板した監督で見たかった、という思いは今も強く残る)作品で色々と不満はあるのだけど、選出した回の出来は突出していたと思う。「月曜日のたわわ」で冴えた仕事を見せていた、シャフト出身の村山公輔さんの時間コントロールの巧みさが15分というショート枠に収まらない密度を感じさせて良かった。アンとグレアの馴れ初めや気の置けない感情が上手く詰まっていた良編だったかと。

・スター☆トゥインクルプリキュア第2話「宇宙からのオトモダチ☆キュアミルキー誕生!」(2/10)
(脚本:村山功/絵コンテ・演出:畑野森生/作画監督:高橋晃)

今年のプリキュア。視聴自体は2クール目辺りでフェードアウトしてます。なので作品全体を語ることは出来ないけど、今思えば作品の一番伝えたい骨子はこの2話で語りきってしまってるように思わなくもない。裏を返せば、2話以上のテーマの描きが2クールを経過した段階で、見られなかった(もしくは焼き直し)のが個人的には見なくなってしまった理由でもある。ひかるとララがお互いの違いを認識し、自分の枠を破って、可能性を信じるというプロセスが上手く描かれていて、多様性とコミュニケーションを織り込んで作劇していたのが見応えがあったなと。

・少女☆寸劇(コント)オールスタァライト第22話「ひかりからのクエスチョン」(11/29配信)
(脚本・プレスコ演出:堀雅人/アニメーションディレクター・音響監督:山元隼一/SDキャラデザイン:高橋千尋

反則技その1。アプリゲーム「少女☆歌劇レヴュースタァライト Re:LIVE」内配信アニメ(1週遅れでYouTubeでも無料配信)。いわゆるスピンオフコント(コメディではなく)アニメ。基本的にプレスコ制作してる作品なのでキャストの演技が先録りされている。この為、自由度が高い分、ネタの当たり外れもでかいシリーズになっているのは否めないか。とは言っても、こんな底抜けなコントになってもキャラクターたちの本質を(デフォルメ強めだが)外していないのは、キャストさんたちの力量ゆえかと。そんな中でも光る回もあったりで、選出した回はコントとして手堅く出来が良かったと思う。ひかり・まひるがどこかに行ってしまった「スタァライト」の戯曲本の在り処をクイズ番組仕立てに華恋に問いただすという仕立て。ベタながら、華恋・ひかり・まひるの役回りがはっきりしていて、コントとして纏まっていたのが良かったかと。彼女たちのエピソードは安定感があって良かったですね。

戦姫絶唱シンフォギアXV EPISODE 13 「神様も知らないヒカリで歴史を創ろう」(9/29)
(脚本:永井真吾、金子彰史/絵コンテ:小野勝巳/演出:小野勝巳、成田巧/作画監督:稲熊一晃、大久保義之、加藤弘将、椛島洋介、坂本俊太、宗圓祐輔、長坂寛治、中島順、畑智司、ハニュー、福田佳太、藤本さとる、普津澤時ヱ門/総作画監督藤本さとる椛島洋介、普津澤時ヱ門/アクションディレクター:光田史亮、式地幸喜)

第5期にして、シリーズ最終回という慰労の意を込めての選出。2010年代をほぼほぼ駆け抜けていく長期シリーズになるとは思ってもなかったけども、荒唐無稽に荒唐無稽を重ねた、過剰な論理展開とそこに乗っかっていくキャラクターの熱量と歌だけで押し通した勢いは良くも悪くも替え難いものだったかと。その為、色々と未消化な部分も残るわけだが、響と未来の関係を描き切ることに集中した潔さは買いたい所。なにより、主演の悠木碧さんがシリーズを重ねる毎に演技を熟成していったことと声優としての進化が著しかった点でも貴重な作品だったように思います。児童向けを除けば、10年代で生まれた数少ない長期TVシリーズ作品として記憶しておきたい。

・キャロル&チューズデイ episode:01「True Colors」(10/20)
(脚本:赤尾でこ /絵コンテ:堀元宣、渡辺信一郎/演出:堀元宣/作画監督:堀川耕一ヤマダシンヤ/総作画監督伊藤嘉之

…どうしても10本選べず穴埋め枠です。好きな方はすみません。多分、放映前の期待値は高い作品だったと思うんですよ。しかし送り出された初回が主役たちの邂逅で終わるという地味な出だしと、序盤でのキャラクターとストーリー構築に思い切り躓いた結果、作品全体が空中分解してしまった惜しい作品、という印象です。これもシリーズ構成・脚本の降板があって、当初の企画案から軌道修正されていることはおそらく確かなんだろうと思いますが。要素の一つ一つは悪くない一方でそれを繋ぎ合わせて構築するのが上手くなかった感じですね。アメリカの現代を反映した?ストーリーも馴染みが薄かった(反面、海外では一定の評価もされている)のも、評価を難しくさせているようにも。演奏シーンはともかく、作品に流れる音楽は魅力的でしたね。

ブギーポップは笑わない第7話「VSイマジネーター 4」(10/20)
(脚本: 鈴木智尋/絵コンテ・演出:斎藤圭一郎/作画監督:原科大樹/総作画監督筱雅律、土屋圭)

ブギーポップシリーズ「初」の原作をアニメ化した作品。監督・脚本コンビの手掛けた「ACCA13区監察課」同様、原作の再構成と省略によってその魅力を抽出した、堅実かつ手際の良さが目立った作品だったが、その中でも冴えを見せていたのが新鋭の演出家、斎藤圭一郎さんの担当回。エピソードの折り返し点といった内容の中で、主人公格である谷口正樹と織機綺の関係性を光と影の対比で、演出した手腕はお見事でした。お互いがお互いに「光」を見、自分の「影」を照らしている辺り、煙に巻かれて要領を得ない作風の中で「ボーイ・ミーツ・ガール」を機能させている原作から、さらに一歩踏み出して、彼らの関係性を上手くクローズアップしていたのがとても良かったですね。来年、期間限定で劇場公開される「ACCA13区監察課OVA版でも演出されるそうでそちらも楽しみです。

BanG Dream! 2nd Season#4「ゴーカ!ごーかい!?のっびのびワールド!」(1/24)
(脚本:後藤みどり/絵コンテ:高橋成世/演出:間島崇寛/CGディレクター:小川晴代/2D作画監督:茶之原拓也、八森優香、花井柚都子、阪本麻衣)

ハロー、ハッピーワールド!回。Poppin'Partyをメインに描いた1stシーズンからソシャゲの「「バンドリ!ガールズバンドパーティ!」を経て、製作された2ndシーズン。すでに3rdシーズンの放映も決まっているけど、続編ものには珍しく2ndシーズンの方が作品の出来が良くなっているのは、他バンド&キャラの投入、ソシャゲのコミュやエピソードで醸成された、関係性構築の仕込みが再アニメ化したことによって爆発したから尽きるかと。その辺りのリカバーも冴えているけど、選出話数は登場バンドの中でも、常識への捉われなさと荒唐無稽さが合わさった型破りなバンドが「ハロー、ハッピーワールド!」のメイン回。リーダーの弦巻こころが学校の三階から平気で飛び降りて無事だったり、Poppin'Partyを「ライヴを楽しませるのに常識はない」と証明するために、財力を使って豪華客船でおもてなししたり、メンバーのミッシェル(熊、中身は奥沢美咲)のパワードスーツ(コナミコマンドで発動)作れたり、気球の上で演奏したりと、やりたい放題な一方でこころと奥沢さんの強固な関係性を見せたりとバンドの在り様とともに、作品の可能性を拡張している話数だったんじゃないかと。「この作品でここまでしていいんだ」って思わされた時点で白旗を揚げざるを得ない、というか一体、何のアニメを見せられていたんだ…?

リラックマとカオルさん第9話「雪だるま」(4/19)
(脚本:荻上直子/監督:小林雅仁/絵コンテ:瀧尻愛/チーフアニメーター:峰岸裕和)

NETFLIX枠。映画「かもめ食堂」監督、荻上直子さんを脚本に迎えて製作されたストップモーションアニメ作品。干物女子なOLカオルさんとリラックマたちののんびりとした(かつ世知辛い)日常を活写したシリーズ。その丹念な日常描写が「マジカルエミ」などにも通じる密度の濃い描きであるのが、ちょっとした高級感を醸し出していましたね。選出回はシリーズとしてはファンタジックな内容で、普段の現実的な描写があるからこそ、雪だるまたちが動き出しリラックマたちと交流するシーンが活きる。雪の儚さとちょっぴりの寂しさが心に響く一編。映像手法もどちらかといえば映画やドラマのそれに近く、アニメらしさをリラックマの存在感やデフォルメの効いたキャラデザインで担保してるのも興味深かった。一話単体としても良編だったのではないかと。

THE IDOLM@STER CINDERELLA GIRLS 8周年特別企画 Spin-off!(11/10有料配信、12/9無料配信)
(脚本:樋口七海/監督:吉邉尚希/キャラクターデザイン:タカナシ テツロウ)

反則技その2。人気ゲームアプリ「THE IDOLM@STER CINDERELLA GIRLS」の8周年を記念しての短編アニメーション。ええと実質、劇場版「少女革命ウテナ」。佐藤心一ノ瀬志希、黒埼ちとせ、神谷奈緒、的場梨沙の5人が「世界」を突破するアニメ、と言えばなんとなくピンと来る人も多いはず。実際、製作に関わったプロデューサーがウテナの影響下にあることを明言している事からも、お墨付きな一本でありますが、アイドルを演じている事を課せられているキャラクターたちが「世界を突破する」事を描いているのも、ゲーム本編の内容を考えればかなり挑戦的なのではないかと。むしろ、ここまでビッグコンテンツとなっている作品が自己批判を含んだ作品を送り出せる、懐の深さを感じますね。
近年、アニメや漫画などでウテナトップをねらえ2!の影響を感じる作品が自分の観測範囲で目立つ印象ですが、肝心の本家が振るわない(少なくとも筆者にはそう感じる)反面、それらの要素を伴ったフォロワー作品の方が面白く感じられますね。これもまた時代の流れでしょうか。なおこちらは無料配信されているので以下の動画から視聴可能です。



THE IDOLM@STER CINDERELLA GIRLS 8周年特別企画 Spin-off!


・星合の空 8話(11/29)
(脚本:赤根和樹/場面設計:竹下美紀/絵コンテ:加瀬充子/演出:名和宗則作画監督:中山みゆき、シノミン、斎藤和也、黒川あゆみ、古林杏子、松本弘、亀田朋幸/総作画監督高橋裕一

志城南中学男子ソフトテニス部マネージャー、飛鳥悠汰と御杖夏南子のそれぞれの決意と実践(とそれに伴う弊害)。この作品について言えば、以下の引用がふさわしいと思う。

「卵の殻を破らねば、雛鳥は生まれずに死んでいく。我らが雛で、卵は世界だ。世界の殻を破らねば、我らは生まれずに死んでいく。世界の殻を破壊せよ。世界を革命するために。 」
~「少女革命ウテナ」より~ 

「鳥は卵の中からぬけ出ようと戦う。卵は世界だ。生れようと欲するものは、一つの世界を破壊しなければならない。鳥は神に向かって飛ぶ。神の名はアプラクサスという」
~「デミアンヘルマン・ヘッセ高橋健二訳)


ウテナでの有名な一句とその元ネタのヘッセ「デミアン」からの一節。そのどちらも恐らくは「モラトリアム」を「世界」に見立て、思春期の人間のアイデンティティの確立を物語っている言葉だと思う。「星合の空」もそういった思春期の少年たちが自身の家庭環境やコンプレックス、ひいてはそこから生まれ出る葛藤に足掻き苦しむ作品であり、10代の子供たちが「自分らしさ」と「社会性」を物語を通じて、獲得していく事を描こうとした作品だと思う。本作の監督、赤根和樹さんは作品に対して、常に誠実な姿勢で向かっているように見える。それだからこそ、彼らに介在する問題点やその性質を付加した両親や家庭環境にも衒うことなく真っ直ぐに踏み込んでいく。



ここでも書いたように、男子ソフトテニス部部員のほとんどが大なり小なりの問題を抱えており、同時にその原因たる親たちの問題点も炙り出していく。こと日本のサブカルジャンルの創作において、両親の存在は脇に追いやられることが多いが、本作はそこに対してがっぷり四つに組んでくる。部員たちの問題と両親(家庭)の問題の両方から真っ向に描き、その一筋縄でいくわけもない問題をソフトテニスという「青春」を通じて、ひとつひとつ紐解いていく試みを目指していたのだろう。そういう観点から日本の創作において、枯渇しかけているヤングアダルトジュブナイル)として本作を描こうとしている姿勢は大いに評価したいところ。
選出した回はメインに描かれる両者のソフトテニスの向き合い方が「間接的」かつ角度の異なったものであることがよく分かる。悠汰はソフトテニス部の「為」ならばと、自分の持つジェンダーに対する違和感に向き合い、夏南子は変わっていくソフトテニス部に「触発」されて、自分が向き合っている「絵」に対して真剣になっていく。ソフトテニスという「フィルター」を通じて、少年少女たちが変わっていく姿を活写していく。そういった自己の発露に伴う障壁として「親」や「家庭」が首をもたげてやってくる。それは「卵の殻(=世界)」を破るための不可欠な困難というべきか。子は親を選べない以上、子は親と違うことを示して、自立していくほかない。もちろんそこに生まれる反発や弊害に対して、効力を発揮するのは部活というコミュニティの繋がりやそこで得た自信や社会性、なのだろうと思う。本作の主人公である眞己にしろ、必要に迫れて「生きる」為に同世代よりも一足早く「大人」にならなければなかった。その事実がソフトテニス部に関わる「雛鳥」たちに波紋となって広がっていく。人生という道のりは先が長いからこそ、登場人物たちの抱える問題も完全に解消されることはない。しかし、それに対して上手く付き合える術や行為を持つことが大事なのである。そういった点でも8話はある意味「解き方」を提示したエピソードだったようにも思う。障壁を乗り越えるために、「自分らしく」あるために、どうすべきか。抱える葛藤を解く「鍵」を最初に手にしたのが、ソフトテニスに直接関わっていない二人というのもまた示唆的といえばそうかもしれない。それぞれがそれぞれに向き合うべき障壁が存在し、そのハードルの高低も様々で、それらの仕込みは極めて丹念に行われていた。
それ故にこれを書いている途中で舞い込んできた、本作に関する諸事情については残念でならない。
願わくば、作品が然るべき結末にたどり着くことを期待したいという思いを込めて。


《2019年の総括~20年代に向かって》
今改めて思えば、2016年が「分水嶺」だったような気もする。
3.11からの4年間の変化と、16年からの3年間の変化を比べると、(体感としては)圧倒的に後者の方が目まぐるしく動いているような気がしてならない。あらゆるものの境界線が曖昧になっていく、というのを16年の記事に書いてあったのをいまさら思い出してはいるが、同時に日本国内のあらゆるものが目に見えてボロボロになっていく様があちこちを見るたび、暗澹たる気分に陥りつつ、一個人としては日々の生活をどうにか生きていかなければならないというダウンスパイラルに国全体が沈んでいく、という印象が漂う。来たる2020年には東京にオリンピックが来るという状況に喜ぶべきか悲観すべきかはたまた無関心であるべきか、よく分からなくなってくる。
まだ国家の経済的には余裕がある(はず)なのに、しかるべき方策を打てない(打つつもりのない)政府と内閣。国自体が「政治音痴」(政治家だけでなく、政治に対して無頓着な国民すべてが)とも言うべき状況でいったい何が出来るのだろうかといったら、なしのつぶてだ。何か変わらなくてはいけないけど、変わってしまうと生まれる不都合への反発で何も出来ない。それなのに外圧に押しつぶされるままに、日本国内の重要な制度や事案が為政者の都合だけで塗り変わっていってしまう。何をやろうとも何も出来ない、変わらない。そういう徒労感・虚無感に飼い慣らされる内に思考力、行動力まで奪われそうな現状にどう抗えばいいのか。何もわからない。
そんなこんなでまもなく2020年だ。元号も「平成」から「令和」に変わり、次なるディケイドに突入していく。世界情勢的にも決して明るい未来は来ないだろうし、どの国も内憂外患な状況に変わりはない。しかし、その中でわれわれは生きていかなければならないことだけははっきりしている。そのほとんど唯一といっていい、「死への道程」ともいうべき人生をどのようにサバイブしていくべきか。これから先の道は険しいことだけは間違いないが、それでもなにかに「救い」を求めたり、何かにすがって、一時の安寧を持つことだけは許されてもいいだろう。生きるための潤いだけは何があろうとも失いたくないと、心から思う。


ちょっとのひずみなら
何とかやれる
ちょっとのひずみなら
がまん次第で何とかやれる
日々の暮らしには辛抱が
大切だから
心のもちようさ


ちょっとの搾取なら
がまん出来る
ちょっとの搾取なら
誰だってそりゃあがまん出来るさ
それがちょっとの搾取ならば
心のもちようさ(繰り返し)


JAGATARA[「裸の王様」より「もうがまんできない」歌詞一部抜粋~




《最後に》
とまあ以上、最後重たい気分になりつつも、今年の10選でした。いやあ、集まるかどうかヒヤヒヤしました。
19年は図らずともアニメに重点をあまり置けず、どちらかといえば2.5次元系やそれこそNHK大河ドラマに興味が移りがちだったのが個人的な振り返りとしてまずありますね。今年を象徴する作品として「いだてん~東京オリンピック噺~」を挙げたい位には、久々に大河ドラマを鑑賞できてよかったなという印象もあり、アニメはと言えば「天気の子」に代表されるように、興行成績はともかくとして劇場アニメ作品が盛況な年でしたね。反面、その皺寄せがTVアニメに降りかかったようにも感じられ、やや覇気に欠ける一年だったのではないかと思います。TV放映のフォーマットに限界が見えてきているのもさることながら、ストリーミング配信フォーマットが今度新たな道を切り開いていくか、など分水嶺に来ている印象はひしひしとあります。生活スタイルの変化に伴って、視聴状況も変わっていくことでしょうし、今後どうなっていくか注目していくと面白いかもしれません。
20年代、今後の自分自身のアニメ視聴がどうなっていくかはわかりませんが何かしら記録に残せていければいいかなとは思っています。この「話数単位で選ぶ、TVアニメ10選」企画においては、集計作業を一手に引き受けていらっしゃった新米小僧さんが今回10年目を機に企画を離れることとなりました。自分はなんだかんだ、初年度に参加しなかった以外は皆勤で参加していました。長く続けられたものだなとも思うし、同時に一年の取り纏めとして定期行事になっていたのも、新米小僧さんのさりげなくも確かな存在感があったからこそだと思います。今後企画がどうなっていくかはわかりませんし、自分も今後続けるかはまだ分かりませんが、とりあえず。


10年間の集計作業、お疲れ様でした。
そしてありがとうございました。


20年代も当ブログは続く限り、ユルく活動していきますのでよろしくお願いします。
スタァライト関連も頑張りたいのでまずはそこからこなしていきます。お待たせして、申し訳ないですが気長にお待ちください。
以上、2019年最後の更新でした。
それではまた来年もよろしくお願いします。

音楽鑑賞履歴(2019年11月) No.1356~1359

月一恒例の音楽鑑賞履歴。
11月は4枚。またペースが落ちてきてますが、仕方ない。
なんだかんだで2019年も一ヶ月を切りましたね。時間が経つのは早いものです。
買うペースに対して聞くペースがまったく比例しないという状況が続いてますが、地道に聞いていければいいかなとは。
というわけで以下より感想です。


METAL RESISTANCE(初回生産限定盤)(DVD付)

METAL RESISTANCE(初回生産限定盤)(DVD付)

  • アーティスト:BABYMETAL
  • 発売日: 2016/04/01
  • メディア: CD
16年発表2nd。文字通り世界を席巻した、メタルアイドルの二作目。前作の賞賛を踏まえて、送り出されているのもあり、ある意味「拡大路線」を執った内容といえそう、メタル色はより濃くなり、アイドルソングらしいメロディをよりソリッドにコーティングしているのが印象的だ。
よりビートは重く、よりサウンドはハードに。アルバム全体の感触が前作よりもドラスティックにメタルサウンドしているので、アイドルソングとしてのポップさもそちらに引っ張られている印象で、ある種メタルとアイドルの融合という元よりピーキーなバランスがアンバランスになっている感じを受ける。
少なくともこの盤においては、ポップかといわれるとこれはメタルであり、あまりにも「本格化」してる分、アイドルとしては窮屈になってしまっているような感覚は否めないか。悪いどころか、可能性を拓いているアルバムだがメタルアイドルという「バランス」を取る困難さが見え隠れする一枚といった所。


COSMIC EXPLORER(初回限定盤A)(2CD+Blu-ray)

COSMIC EXPLORER(初回限定盤A)(2CD+Blu-ray)

  • アーティスト:Perfume
  • 発売日: 2016/04/06
  • メディア: CD
16年発表5th。レーベル移籍後二作目。国内に限らず、世界での活動も拡張し続ける中で満を持して送り出された作品。シングルのアルバムMixともども、フロア仕様なサウンドなのも相変わらずといったところだが、どことなく派手さよりもシックさが目立つ、サウンドプロダクションという印象がある。
トラップやトロピカルといったサウンドを上手く取り込みつつ、生音や楽器の音を差し挟んでいる内容はよりスタイリッシュ、アダルトな趣も感じさせる。もちろんダンスユニットでもあることも考慮したクラブサウンドではあるのは疑いのない所だが、良くも悪くもメンバーの年齢も加味した作りなのだろう。
この辺りは長期にわたって活動しているユニットであることも影響しているのだとは思うが、若者から大人への変化を意識したものとなっている印象を受けるか。それはむしろ悪いことではなく、時代や年齢に即した内容に変化していっている表れのようにも思う。そんな大人の余裕もどことなく出てきた一枚かと。


ニセ予言者ども(紙ジャケット仕様)

ニセ予言者ども(紙ジャケット仕様)

  • アーティスト:JAGATARA
  • 発売日: 2007/09/26
  • メディア: CD
87年発表4thの07年オリジナル音源リマスター。インディーズでの最終作で、このリマスターではじめてオリジナル盤音源が使用されたことで話題になった。内容のレビューは以下のリンクで語っているので、今回は盤違いについて詳しく。

t.co

このアルバムについては「裸の王様」と異なり、CDは3バージョンあるということを特筆しておきたい。
つまり

・89年版
・99年版
・07年版(※オリジナルLPマスター)

の三つ。リイシューの度にバージョンが異なっているので注意が必要。どうしてこのような事になっているのか次に。
まずLP発売のアルバムをCDとして売り出した際に、レゲエが専門のエンジニア、ゴドウィン・ロギーにMixを新たに施してもらい、なおかつ江戸アケミが収録曲「みちくさ」のボーカルを再録したものが89年に出た最初のCD。音の分離がいいが、「みちくさ」のボーカルが歌詞を一部変更されている。
07年版はオリジナルLPの音源を使ったりマスターなので、こちらは「みちくさ」のオリジナルボーカルも聞ける。また演奏が中心に密集したミックスなのでバンドサウンドの塊感が強く出ており、込められた強靭なグルーヴをひしひしと感じられる、圧巻の内容。入手が現在困難だが聞くならば、これを推す。
問題なのは99年版。こちらもリマスター盤だが最初のCD化の際、施されたゴドウィンミックス音源。なのだけど、「みちくさ」のボーカルはなんとオリジナル音源を使用している。つまり、「演奏そのものは89年版のゴドウィンミックスだが、江戸アケミのボーカルのみ、オリジナルLP版」というCDになっている
どうしてこうなっているかは謎だが、99年版のボーカルはオリジナルのLPのものに差し換えられているという、非常に捻くれたバージョンになっている。ただ99年版は音の分離のいいゴドウィンミックスのリマスターなのでオリジナルの一点突破力と比べると、迫力や緊張感がやや弱い印象。
以上のような違いがあるために非常にややこしい事になっているのは否めない。事実、99年版と07年版を違いを聞き分けようとすると中々困難(ミックスが違うのみ)で斯く言う自分も違いを判別できるまでなかなか時間を要してしまった。良くも悪くもだが89年版を聞かないとはっきりとした違いは感じ取れない
反面、その辺を気にしなければ、江戸アケミの気迫に満ちた歌は99年版でも07年版のどちらでも聞けるので、心配する必要もあまりないかと。違いを明確に聞き取りたい場合は89年版も要チェックといったところか。内容の方は言うに及ばず、名盤の称号に相応しいアルバムだろう。


3121

3121

  • アーティスト:プリンス
  • 発売日: 2019/02/08
  • メディア: CD
06年発表21th。00年代にプリンス名義が復活してからの三作目。自身初の全米初登場1位を記録するなど、完全にかつての勢いを取り戻した感のある作品だといえる。当時の80年代リバイバルも相俟ってなのか、新機軸を取り入れながらも音の感触は、全盛期である80年代のサウンドを意識したポップな作り。
ラテンのテイストを取り入れるなどしてるが、基本的に極めてストレートに気負いなく、エネルギッシュでパワフルな正調・殿下スタイルが聞ける。レーベルとの確執もなくなり、何か吹っ切れた勢いを感じる内容である一方、80年代にはなかった円熟味や改宗によって生まれた変化が聞き易さを生んでいる。
改宗によるセクシャルなイメージの減退が、皮肉なことにプリンスの音楽センスの鋭さを研ぎ澄ませた印象も感じてしまうか。ある種、洗練された音楽性を変節と捉えるか、革新と捉えるかは聞く人によって意見が分かれる所だろうが、かつてなく分かり易いアルバムなのは間違いない一枚だろう。

「少女☆歌劇レヴュースタァライト Re:LIVE」各校武器解説

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さて、今回も軽めの更新と行きたいところなんですが、どうなりますことやら。


terry-rice88injazz.hatenablog.jp


今回は上記リンク記事の続編で、スマホアプリゲーム「少女☆歌劇レヴュースタァライト Re:LIVE」(通称スタリラ)に登場する他校の面々の武器解説となります。以前、Twtterで呟いたものの正式版ですね。3rdスタァライヴの本公演、ディレイビューイングが好評のうちに終わり、メインストーリー新章も残すはフロンティア芸術学校のエピソードのみとなりました。ゲームの方も色々ありながらもどうにか1周年を過ぎたからこそ、改めて振り返っておこうかなと思った次第です。
とはいえ、各校メンバーの武器には聖翔メンバーの武器のように固有の名称がありません(※追記参照)。先の記事では武器名から色々類推しましたが、今回はそれぞれが持つ武器の特性やキャラクターの関係性から、各校の特徴などを読み解ければと思っています。前回よりも数が多いので、ある程度手短に出来ればいいのですが。なおここで語ることは筆者独自の解釈ですので、実際にそうであるかはわかりません。「そうだったらいいよね」程度にご覧いただければ幸いです。


(※12/11追記。聖翔メンバー星2キャラ(デフォルトデザイン)のクライマックスACTに上記リンクの武器名が使用されていることから、各校の星2キャラのクライマックスACTも武器名では?とご指摘をいただきました。本記事の性質上、武器名をないものとして武器の種類で話を展開してしまったのもあり、文面をそのままにしてしまっていましたが流石に不適当なので改めて以下に、武器名を明記しておきます。ご迷惑をおかけいたしまして、申し訳ないです)


早速、始めていきましょう。まずはこの学校から。


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《フロンティア芸術学校》
大月あるる:拳銃(リボルバー式、種類は判別できず)→【名】ヘヴンメーカー
叶美空:スピアー→【名】ワイルドパンチ
野々宮ララフィン:大槌→【名】ワンミリオンス
恵比寿つかさハンドアックス→【名】ダストデビル
胡蝶静羽:大鎌→【名】ユニコーンメイデン

拳銃(リボルバー式)アメリカの西部開拓時代に普及した、回転するチャンバー(薬室)によって、弾を再装填しなくても数発撃てるピストル。いわゆる回転式拳銃と呼ばれるもの。日本ではルパン三世の次元が使っている奴が有名。構造は簡便かつ頑丈である。

スピアー:全ての西洋槍の元祖的存在であり、人類最古の武器・狩猟具でもある。剣に次ぐ実用的な武器。担架やもっこの代用品として負傷者や荷物などを運ぶ道具として使用されることもある。

大槌:基本的に架空の武器。似ている武器としては北欧神話の神トールが使うミョルニルや、ウォーハンマー(戦槌。本来の用途は主に殴打・刺突)のイメージがアニメやゲームによって誇張されたことによって生まれた打撃用の武器。

ハンドアックス:形状から考えるとロードアックスの可能性も。実際の用途としては主に材木の伐採であり、武器としての側面はあまりない。フィクションによって誇張された部分もあるが、形状自体はアメリカ開拓時代に改良されたもの。

大鎌:一般的に死神の扱う武器としてのイメージが大きいが基本的に農具である。同時に農民にとっては不可欠な道具であるため、支配者が所持を禁じることが出来ず、反乱や一揆の際に使う臨時の武器としても用いられたが、攻撃用途の少なさや有効な間合いの狭さ、射程範囲の短さなどから実戦では役に立たないとの意見もある。


《解説》
最初は12月頭に新章が控える、フロンティア芸術学校の面々。この記事を書くに当たってちゃんと調べてみたら、やっぱり彼女たちの使う武器そのものが新章の布石ですね、これ。なんというか、あるるの拳銃を除けば、ほぼほぼ武器であって武器でないというものばかり。ララフィンの大槌においては、フィクションによって形作られた武器であるのも彼女の特撮、漫画・アニメ好き設定が転じて、持ち得ている印象すらあります。
キーワードは言ってみれば、「開拓」でしょうか。フロンティアの中核である、あるるがアメリカ西部開拓時代のアイコンといっても過言ではない、リボルバー(回転)式拳銃を持っているのもさることながら、静羽、つかさ、美空の三人の武器は当時の開拓民に重宝された農具がそれぞれの武器となっているのも見逃せません。美空のスピアだけはちょっと捻りが入っていて、彼女の持つスピア、つまり槍の類型にはピッチフォーク(熊手。家畜の牧草を掻き分けたりするのに使うヤツ)が存在しており、「農具」としての要件を満たすことは十分可能です。もちろんスピアのままでも狩猟用の道具として太古の昔から使われているわけですから、道具の実用性が高い反面、武器としての存在感はあまり大きくないのもミソではあると思います。



※ちなみにこれがピッチフォーク(熊手)の画像。


このように程度の差はあれど、彼女たち三人の使う武器は戦闘以外の用途で使われる頻度の高いものであるんですよね。もちろんそれはかつて、アメリカ大陸に渡った白人たちがフロンティア(未開の地)を開拓するために使った道具であり、誰かと戦うための武器ではないことが明白です。
この辺りがスタリラ新章のタイトルである『自称、舞台少女』にも関わってくる所なのではないかと思われます。少なくともあるる以外は、持っている武器を何の為に使うのか、が問われているように感じます。特に美空、つかさ、静羽の三人は道具としての実用性の方が高い武器だからこそ、まだ見ぬフロンティアに向かうために「舞台少女である」理由が明確に示されなければならないのだと考えられます。
一方でララフィンだけは5人の中で唯一、非現実的な武器を持っているからこそ「理想と現実」を突き付けられている印象でしょうか。彼女の場合は「舞台少女である」為に、その武器を手に取る意味が問われていそう。あの武器そのものが彼女の思い描いた「理想」が詰まったものであると解釈すれば、彼女の「現実」の捉え方が見えてきそうですね。
最後にあるる。フロンティアのメンバーの中では唯一、武器らしい武器を持ったキャラクターです。というか拳銃だから、用途がそれしかないですしね。彼女の持つリボルバー(回転)式拳銃はまさしくアメリカの西部開拓時代にその様式が確立され、広まった銃でしょう。その点でまさしく「開拓精神(フロンティア・スピリット)」を象徴するアイコンのひとつ、といっても過言ではないでしょう。そんな象徴的なものを持っているからこそ、あるるが「舞台少女である」意味を証明すること自体が彼女たち5人の目指す「フロンティア」の行き先を示す事にも結びついているわけです。
フロンティアに集う者たちには能力の優劣や立場、年齢は関係なく、等しくお互いの能力を生かし、一つの目的地へと夢や理想をいっぱい詰め込んで目指す事こそがフロンティア流の「舞台少女の在り方」なのではないかと思えますね。新章ではその辺りがどのように描かれるか楽しみです。


※12/11追記。
【名称読解】
ヘヴンメーカー:直訳すると「天の創造主」。つまり神様
ワイルドバンチサム・ペキンパー監督の西部劇「ワイルドバンチより。意味は「無法者の集団」
ワンミリオンス※12/16 ご指摘いただき、訂正。 表記は「One Millionth」。1+序数(語尾にthがつく)と分数となる事から意味はそのまま「百万分の一」を指す。またまれな語用として「微(かすかな、ごくわずかなの意)」と表すこともある。(※以下は12/16以前の説明。単純に「One Million」だと「百万」の意だけど、「One Millionsだと地味に意味が通らない謎の名称。無理くり訳せば「百万のゲンコツ」
ダストデビル:日本語では「塵旋風」。地表付近に上昇気流が発生し、渦巻状に立ち上がる突風の一種。乾いた土地の砂埃や粉塵が激しく舞い上げる事からそう呼ばれた。
ユニコーンメイデン:まんま「一角獣の乙女」でもいいが、Maidenの意味に「未勝利の」という意味も込められているので、あえて意訳すれば「未勝利の一角獣」とも取れるか。もちろん伝説上の存在であるユニコーンが処女の娘を好む事から。


【名称解説】※12/16追記
武器名から考えると、あるるという「神」から天啓を与えられる「無法者集団」という構図が非常に明らかですね。美空のワイルドバンチ(無法者集団)」がそのまま、フロンティアという学校の体質やあるる以外のメンバーを言い表しているように思うし、つかさを取ってみれば、乾いた大地の砂埃や粉塵を舞い上げていくだけの突風の「行き場のない力」をどのように扱うのかって感じも非常に強いですし、またララフィンは持っている武器とその名から来るイメージがまるで正反対なのも特徴的ですね。ギャップ(乖離)が激しいとでも言うのでしょうか。事実、創作上のイメージから形作られた大槌にしろ、彼女の憧れる特撮やアニメのヒーローと比べたら、現実の姿は「百万分の一」かもしれないし、それこそ蟷螂の斧なのかもしれない。それ以上に問題なのは静羽でしょうか。確かクロディーヌやばななに一目置かれてる位には実力があるはずなのに、武器の名前が純潔や貞操を輪に掛けたものになっているのが非常に気になりますね。高い実力にもかかわらずそれを発揮できない理由が何かしらあるような気がしてなりません。武器名だけ見ていると、現在展開中の新章『自称、舞台少女』では「オズ~荒野の海賊団~」では「勇気」が欲しいライオン役になることは十中八九間違いなさそうですが、はてさて。
どちらにしても、あるるは仲間たちに背負わされている武器やその名前から想起させるネガティブなイメージをポジティブなものへと置き換え、「自称・舞台少女」たちを「舞台少女」たちへと生まれ変わらせているのは、彼女の持つ銃の名からしても明らかといえるでしょう。学校そのものがフロンティア(未開の地)であるからこそ、そこで演じられる舞台にもタブーはない。新章『自称、舞台少女』にも出てきた通り、「舞台はなんでもあり」なのがフロンティア流。その他校にはない自由闊達、天衣無縫さこそ、「舞台少女・大月あるる」が新設して間もないフロンティア芸術学校に感じた魅力、といっても過言ではないでしょう。だからこそあるるは、フロンティアに入り込んで途方に暮れる「自称・舞台少女」たちに啓蒙できたのではないか、とそう思えますね。あるるの真っ直ぐな志こそ、フロンティアの目指すべき理念でしょう。戦国武将、武田信玄の言葉に『人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり』とあるように、学校という「入れ物」を作っても、「人」がいなければ機能しないし、「学校」というものを形作るのは「人」でしかない。フロンティアに欠けているのは「舞台少女の志」である以上、それを体現する人物がいないと始まらないという所なのだと思われます。そういった点ではフロンティア芸術学校も「日々進化」しなければなりません。この先で語る、シークフェルトや凛明館とは学校と舞台少女の主客関係がまったく逆で、舞台少女が主となってこれからの「学校」を形作っていくのがフロンティアの関係性なんでしょうね。



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《シークフェルト音楽学院》
雪代晶:ランス→【名】プラティーンランツェ
鳳ミチル:ツヴァイヘンダー(ツーハンデッドソード)→【名】ザフィーアベシュトラフング
鶴姫やちよ:クロスボウ→【名】ペルレンプファイル
リュウ・メイファン:蛇矛→【名】ルビーンヘッレバルデ
夢大路栞:サーベル→【名】ヤーデアングリフ

ランス:騎士を象徴する装備のひとつ。刃はついておらず馬上から突き刺して攻撃するのが主な用途。刀剣よりもはるかに重く、馬上から狙いを正確に定めなければならないので熟練と体力を要する武器でもある。

ツヴァイヘンダー(ツーハンデッドソード):西洋の大型刀剣。ツヴァイハンダーとも。多数の敵を相手取ったり、長柄武器に有効とされる。また軍旗や指揮官を護衛する部隊の武器としても扱われた。武器そのものが鈍重で使用者の体力の消耗が激しいのと同時に製作コストも高く、体力や技量以上に財力も要求された

クロスボウ:紀元前から存在している武器。それなりの修練と体力が必要だった従来の弓矢よりも扱い易く、同時に殺傷能力も高い。12世紀ごろにはローマ法王が「キリスト教徒への使用を禁じる」という令(有名無実だったらしい)を出したほど。狩猟用としても使われる弓矢と異なり、その当初より対人専用の兵器として作られているため、あり方としては銃に近い。現用兵器としては第一次世界大戦まで使用されていた(主に爆弾投擲)。なお通称として使われる「ボウガン」は株式会社ボウガンが商標登録、販売している競技用クロスボウの事で和製英語である

蛇矛:「だぼう」「じゃぼう」とも。蛇のようにうねる刃が特徴的な矛。西洋の刀剣、フランベルジュと同様にその波打った刃は人体を斬りかかった場合、不定形に肉をえぐり、当時の医療技術では治療困難な傷から破傷風などの感染症を引き起こす「死の刃」として恐れられた。なお三国志演義」で張飛が使う武器としても知られるが、武器の成立は明代であり、後付けの設定とされている。

サーベル斬る事に特化して作られた洋刀。その形は中近東の刀剣、シャムシールに影響を受けているといわれる。反りの入った片刃刀であり、基本的に片手で扱われる。こちらも、扱いやすく威力の高さから長きに渡って重宝され、第二次世界大戦ごろまで実戦で使われていた。歩兵や騎馬兵の格闘武器としてだけではなく、軍刀として将校などのシンボルとして精神的・装飾的な意味合いも帯び、階級を表したり、儀礼時の正装として今なお携行されている。


《解説》
シークフェルト音楽学の面々は「エーデル(気高き君=生徒会役員)」という特殊な制度で選び出された実力者揃いなのも相俟って、使用している武器も技術を要求されるものや、あるいは威力、殺傷力の高い物が目立つ印象ですね。全校生徒の中から舞台に立てるのはエーデルの5人のみ(後はすべて裏方)という超実力主義なので、当然といえば当然なのですが。とはいえキャラクターの相互関係と武器を眺めていくと、晶を主体としたチーム編成であるのがよく分かります。むしろ雪代晶という核を他の4人がサポートしている格好となっているのが興味深いところ。
晶のランス形状・用途が非常に無骨です。刃もなく、突き刺して攻撃するという猪突猛進型の戦法しかありえない武器であり、彼女自身の性格も「舞台」だけを真っ直ぐと見据え、邁進することしか頭にない「舞台バカ」であることが新章『死にゆく王と四人の騎士』で描かれていたのは記憶に新しいところです。天才というか才ある人間がある分野に際立ったものを見せる一方で、常人が出来る事が欠落している──そういった描きは創作においてありがちなもののひとつですが、同様に晶も日常生活については無頓着な一面を垣間見せていました。
それを陰からのみならず、表からもサポートしているのが幼馴染のミチルであることは新章で描かれている通り(それだから、晶はミチルに頭が上がらない)。新章で描かれたエリュシオン『王位の章』では宰相を演じたのも納得ではありますが、彼女の武器も指揮官を護衛する部隊に用いられた事を踏まえると、晶にとって「欠かせない存在」なのがよく分かりますね。
「欠かせない存在」という語句が出てきましたが、他の3人も同様に彼女にとってはなくてはならない人々であることに疑いはないでしょう。メイファンは彼女に憧れを抱き、向上心を持って立ち向かってくるし、やちよは新章で晶と同等、それ以上の「舞台バカ」であることが判明し、栞については晶自身が持ち得ない優しさや感性がある、など「自分にはないもの」だからこそ、雪代晶が中心に立つ舞台にとって必要な人材であるわけですね。
猪突猛進しかできないランスである以上、さまざまな局面に対応するためには仲間たちのサポートが不可欠であるわけです。その為、晶以外の4人の武器はそれぞれ攻撃特性とその威力がかなりはっきりと分かれているのですね。ミチルのツヴァイヘンダーは護衛サポート、やちよのクロスボウは中・遠距離に有効な武器であるし、メイファンの蛇矛は中近距離において必殺性の高い威力を持っていますし、栞のサーベルは白兵戦において、その威力を高く発揮できるもの、と言えるでしょう。それぞれの個性が際立ちながらも、全ては覇道を一心不乱に直進する晶のランスの邪魔立てをしないように、配置されているのがシークフェルトの「エーデル」たる所以なのでしょう。新章でも描かれたように「全ては戯曲『エリュシオン』を演じきるためにある」わけで、その主演である晶にはない部分を他のエーデルたちが補うし、晶は彼女たちを労いつつ、舞台を全うする。そういった相互関係が新章『死にゆく王と四人の騎士』で描かれたことであり、晶がそれを思い出すことによってエーデルの結束が高まったエピソードであったと思います。


※12/11追記。

【名称読解】
ラティーンランツェ:ドイツ語表記で「Platin Lanze」。そのまま「白金の槍」。白金(プラチナ)の石言葉は「永遠・気品」
ザフィーアベシュトラフング:ドイツ語表記は「Saphir Bestrafung」。訳すると「蒼玉の制裁」サファイアの石言葉は「誠実・愛情・徳望・不変・慈愛」
ペルレンプファイル:ドイツ語表記で「Perlen Pfeil」。訳すると「真珠の矢」。真珠の石言葉は「健康・長寿・富・純潔・円満・完成」
ビーンヘッレバルデ:ドイツ語表記で「Rubin Hellebarde」。訳すると「紅玉の斧槍(ハルバード)」。ルビーの石言葉は「熱情・情熱・純愛・仁愛・勇気・仁徳」 また「勝利の石」ともされる。
ヤーデアングリフ:ドイツ語表記は「Jade Angriff」。訳すると翡翠の進撃」翡翠の石言葉は「忍耐、調和、飛躍」


【名称解説】
ドイツ語と宝石縛りなシーフクフェルトの武器名ははっきりと分かれてますね、新章『死にゆく王と四人の騎士』でも明らかだったように「晶という王に仕える騎士(戦力)たち」という体制が押し出されている印象ですね。特にやちよ・メイファン・栞は武器名から「兵力」を意識させられる印象です。狙撃手、騎兵、歩兵、といった風にそれぞれの役割もはっきりと出ていますし、石言葉のほうも彼女たちを体現しているように思えます(※栞の翡翠については後でもう少し語ります)ミチルは晶の「側近」として、裁定を下す「宰相」の役割が強く滲み出ていますね。Bestrafungという単語は確かに「罪」とか「罰」という意味も持っているみたいですが、サファイアキリスト教において中世のころから、司教の叙任のしるしとして扱われている宝石だという事を汲むと、王の審判に従って制裁を下すという意味合いの方が強そうなので、こちらの意味を採用してます。晶の白金(プラチナ)もパワーストーン的には「突出した才能を開花させ、ナンバーワンに導く」力を持っている金属のようですし、ぴったりですね。わりと理に叶った編成であるのが武器名から見てもよくわかります。


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《凛明館女学校》
巴珠緒:白鞘(日本刀)→【名】咲散花
秋風墨:大太刀→【名】流星丸
音無いちえ:鉄扇→【名】いちえハリセン(扇子)
田中ゆゆ子:クナイ→【名】凛明亭遊眠
夢大路文:ソードブレイカー→【名】川蝉

白鞘(日本刀)仁侠映画などでのイメージが定着しているが、柄に目釘を入れただけの刀剣保存に特化した外装であり、本来戦闘には不向きな拵え。また一般的な柄よりも細く握りにくく、汗で滑りやすいので事故が起こりやすいともされる。元々は江戸時代に上級位の武士が表道具である、刀剣を保管するためのものだったが、廃刀令の公布された明治以降、保管を余儀なくされ、爆発的に増えた。そういった特性から、創作上では奇をてらった武器として扱われることが多い。

大太刀:野太刀、背負い太刀とも。その刀身の全長は3尺(約90cm)から5尺(約150cm)にも渡る。基本的に騎馬武者が用い、馬上から馬の走る勢いで斬る武器であるが、腕力のある武士が白兵戦で使用する場合もあった。鎌倉時代末期以降、騎兵の白兵戦が増えていった事で、主要な武器であった太刀を大きくしていくというパフォーマンス的な発想で生まれたという説もあり、大太刀を所持している事こそが武士の豪傑さや経済力を誇示する証にもなっていた可能性がある。どちらにせよ、ミチルのツヴァイヘンダー同様、使用には相当の技量と腕力・体力が必要とされた

鉄扇:文字通り、親骨が鉄製の扇。主に閉じた状態で叩く、突く、剣を受けるといった形で使用され、護身用、あるいは暗器として扱われた。また鉄扇術なる武術も確立されている。鍛錬用の武具としても用いられ、その場合は「手馴らし鉄扇」とも呼ばれていた。創作上においては秘めた強さを象徴する武器としても扱われており、一筋縄でいかない登場人物が持つことも多い。

クナイ:漢字で書くと「苦無」もしくは「苦内」忍者道具の代表格としてイメージが定着しているが、これは近年の創作による誤解で、実際は漢字表記が示すとおり、短剣・シャベル・ペグなどといった多機能性から旅人や職人などによって重宝された道具。現代のイメージからすれば十徳ナイフが近いだろうか。元々は刃も付いていなかったそう。そういったありふれた道具だからこそ、創作上においては「曲者」感を醸し出すために、忍者という存在の秘匿性とクナイの多機能性が結びついたものと考えられる。

ソードブレイカ:普通の刃と櫛状の峰()をもつ短剣。 敵の剣(レイピアやサーベルなどの比較的細身のもの)を峰の凹凸にかませてこの原理で折ったり、叩き落としたりする。基本的にはレイピアを用いた剣術で防御用として扱われる短剣(マン・ゴーシュ)の一種とされる。殺傷能力は低く、通常イメージされる剣を相手にした場合では反対にソードブレイカーの方が折れてしまうダガー(短剣)という形状を取っているが、実際の機能は盾に近いのが特徴。


《解説》
3rdスタァライブ直前に公開された新章『名門、落つ』の勢いそのままに、迫力あるパフォーマンスで横浜アリーナを沸かせた凛明館女学校。座長格である巴珠緒の新章での変貌が、凛明館そのものの印象が変えてしまったのには驚かされましたね。演じたい演目と居場所(舞台)を守るためなら、なりふり構わずどこまでも泥臭く貫いてみせる姿はそれだけ鮮烈だったかと。
新章で描かれたことをキーワードで当てはめようとすれば、シークフェルトは「主従と継承」、これから描かれるフロンティアは恐らく「平等と開拓」(だと考えられる)、そして凛明館はさしずめ「独善と再生」という感じでしょうか。
新章が始まる前までは取り巻く周囲に対し八方美人に過ぎる一面があり、置かれている状況の危機にも自らを積極的にコミットしてこなかった巴珠緒。シークフェルトのように中心がしっかりしているわけでもなく、ましてやフロンティアのような分け隔てなくオープンな雰囲気もない。良く言えば、和気藹々。悪く言えば、なあなあ。少なくとも新章以前の凛明館女学校演劇科にはそういう印象があったのは事実です。新章でその状況が一転し、廃科へと追い詰められるまで、珠緒は白鞘に大切に収められた抜き身の刀のように、「凛明館女学校演劇科」に安住してしまっていた。そんな甘さと、奥ゆかしい性分が演劇科全体の生ぬるさを作っていたのですね。
眺めてみると、凛明館メンバーの武器はクセのある武器が並びます。むしろなにかしらの二面性がある、と言い換えていいのかもしれません。座長格である珠緒自体が戦闘向きではない拵え(白鞘)に収められた刀剣なのが良い証拠でしょう。形状の見栄えが先行してしまう大太刀、使う人を選ぶ鉄扇、創作による誤解が広まっているクナイ、いかつい形状に反して防御用のソードブレイカ、といった風に武器本来の性質が見えづらいものばかりです。彼女たちには彼女なりの良さや個性があることは持たされている武器からも明らかなのですが、少なくとも以前の生ぬるい状況において、珠緒はそれらを認めつつも、演劇科存続のために活かそうとも伸ばそうとも考えていなかったんですよね。その事こそが情勢を悪化させた彼女の罪だったと言えるでしょう。
自らの犯していた罪を悟り、二度と同じ轍を踏まぬように心に誓った珠緒の行動もまた極端です。端的に言えば「彼女たちの個性の本質を捉えて、自分の為だけに利用した」のです。新章において描かれた珠緒が凛明館に入った理由、「凛命記」を演じるために。「凛命記」は校章でもある桐の木になぞらえて、滅びの美と再生を描いた戯曲です。演劇科が廃科に追い込まれ、後先のない状況の中、、珠緒は舞台少女として、最後の一花を咲かせて散るという覚悟で向き合ったのです。彼女の舞台に向き合うベクトルが他校とは逆向きなのが分かりますね。それこそが聖翔やシークフェルト、はたまたフロンティアとは違う、凛明館の特殊性でもあります。失われゆくものの為に全身全霊を込めて演じる。この先のない状況を脱するために、珠緒は抜き身の感情、つまりは「わがまま」で押し通すしかなかった。彼女の白鞘が物語るように、刀は保存されているだけでは何の役にも立ちません。その拵えが保存に特化していようが、戦うべき時は鞘から刀を抜いて戦うしかないのです。創作、特に仁侠映画で描かれるような敵地に殴り込みに行く、決死の覚悟が珠緒の白鞘には重ねられているように思えますね。
雪代晶のような王者のカリスマはない、大月あるるのようなインフルエンサーでもない。剥き出しになった巴珠緒の気質はルーラー(統治者・支配者)のそれに他なりません。晶のように名実に頂点に君臨しているというよりは、一種の強権者、あるいは独裁的な裁量を持って立つイメージをまとっているからこそ、珠緒は後輩ふたりに無理強いをさせなかったという所なのでしょう。独善的な自分の企てに加担させたくなかったから。しかし、いちえゆゆ子も、そしても珠緒を信頼して、力になろうと舞台の上に立った。
いちえは鉄扇の秘めた強さに命を灯し、ゆゆ子はクナイ本来の多彩さを見せるように才を発揮し、は引っ込み思案な自分を変え、大太刀の強さを身に付け、は珠緒の守り刀として、彼女を支える。



結果的に珠緒という存在に引き寄せられて、演劇科全員が「彼女の舞台」を立つことになるわけですが、偏に「珠緒の力になりたい」という気持ちが働いているからでしょう。彼女の悔しさ、後悔、覚悟、気迫、それらをひっくるめた「独善」に全てを託して、「失われるもの」に命を懸けて演じることで、先輩たちの手で葬り去られた戯曲「凛命記」と演劇科を蘇らせようとしたのが、凛明館の新章で描かれた内容でしょう。良くも悪くも、屋台骨である巴珠緒舞台少女としての希求心を問われていたことが凛明館の命運を左右していたと言っても過言ではないかと。彼女がわがままを貫いた結果、失われるはずの演劇科の歴史と未来は少し形を変えて、続いていくことになったのは非常に現代的な描きを伴ったものでしたね。


※12/11追記。
【名称読解】
咲散花「咲花(さくはな)の」「散(り)花」ダブルミーニング? 「咲花の」は咲いた花が色あせてしぼんでいくようにの意で、和歌で色あせる意の「移ろふ」にかかる枕詞。「散(り)花」は「花は咲くが実を結ばない花」の意味。※12/12追記。コメント欄より咲散花(さざんか)=山茶花(さざんか)では?というご意見をいただきました。勝手に「さくさんか」って読んでてあんまり考えてませんでしたが、読みとしてはそちらの方が正しそうですね…。ちなみに山茶花花言葉は「困難に打ち勝つ」「ひたむきさ」といったもの。
流星丸:流星は古来、ヨーロッパや中国などでは吉凶の前兆として捉えられ、主に凶と受け取られる事が多く、人の死と結び付けられる事が多かった。日本においてはキリスト教圏の「流れ星に願い事をする」というのが転じて「流れ星が輝く間に、願い事を三回唱えれば叶う」という言い伝えが有名。塁の高校生活を「流れ星」だと例えれば、三年次に「願い」が叶う?
いちえハリセン(扇子):ハリセンは古典的な萬歳からしゃべくり漫才に成立する前後に太夫(ツッコミ)が才蔵(ボケ)の頭を叩いて笑いを起こすのに用いられた小道具。現代では昭和の漫才グループ、チャンバラトリオ南方英二が作り出した紙製ハリセンを用いた「大阪名物ハリセンチョップ」のイメージが定着してるが、元々は能楽や講談、上方落語などの日本の古典芸能で用いられた、叩いて音を出すため専用の扇、「張扇」が原型。
凛明亭遊眠:解説不能。ゆゆ子の落語好きにちなんだ名跡風の名称。落語や歌舞伎では名跡の襲名が大きな注目となるのはよく知られているが、いわゆる大名跡になるほど、襲名は一段階で終わらず、段階を踏んで出世魚的に襲名していくというのが慣例。どの名跡をどの時点で継ぐかによって、その人の芸を示すという意味合いもある。この場合、「凛明館出身でよく遊びよく眠る」というゆゆ子を体現した名跡だと考えられる、のか?
川蝉:鳥のカワセミ。水辺に生息し、鮮やかな水色の体と長いくちばしが特徴の小鳥。なお宝石の翡翠はこの鳥の羽の色に由来している事で有名。なので漢字で「翡翠」と書いても、「ヒスイ」とも「カワセミ」とも読める。


【名称解説】
えー、武器名では重さと軽さが両極端すぎるのが凛明館、って感じでしょうか。「いちえハリセン(扇子)」とか「凛明亭遊眠」とか自由度が高すぎる(笑) どっちも「らしい」から困るんですが、その一方で珠緒の武器名があまりにもヘヴィで凛明館の存亡を一人で背負い込んでしまっているような印象すら抱きますし、新章『名門、落つ』の顛末を見ている限りでは名は体を現すの言葉通り、「実を結ばない花が色褪せていく」姿が凛明館そのものであり、珠緒の現状であったわけですから、なかなか辛辣ではないかと。シークフェルトとは反対に、珠緒の負担を減らすために、メンバーの武器があるという印象が強く持つのもその辺が要因なのではないかと。一方で、塁は凛明館の5人の中で特に「希望」を込められた武器名であることも分かりますね。珠緒を追って、塁は凛明館に入ってきたわけですけども、「青春という一瞬」の高校生活を「流れ星」だと例えれば、塁の願いは「3回唱えれば叶う」、つまりはその「成長を約束されている」とも読み取れる武器名を与えられているように思えますね。事実、珠緒や文という実力者の薫陶を受けているわけですから、両者の良い部分を継承できれば、三年後の塁はきっと凛明館の「希望の光」になってる、かもしれません。あと文ですが、武器が翡翠」の由来である「川蝉」という所に元シークフェルトである名残を感じるのはファンの内々では定説となった感がありますね。そこで気になるのが彼女の「翡翠」と栞の「翡翠」についてです。これについてはさらに以下へと続く、追記で語りたいと思います。


※12/12追記。
先の珠緒の武器名「咲散花(さざんか)」についてもう少し。コメントしてくれた方の意見も総合すると、やはり珠緒に凛明館女学校演劇科が重ねられているように思えますね。筆者の解釈した「実を結ばないまま花が色あせていく姿」は滅びゆく演劇科と重なりますし、山茶花花言葉を取れば、新章『名門、落つ』で見せた珠緒の姿が浮かび上がってきます。瀬戸際に立たされても諦めず、そのひたむきさで困難に打ち勝った事で、最善ではないにせよ「結果」が残った。その事実を考えると、巴珠緒自身の二面性と凛明館の「滅びと甦り」は同一の事象だったようにも思えてきますね。故に武器の形状も名前も、裏表があり、ダブルミーニングが重ねられたものである事は間違いがないかと。



※20年6/7追記。
2020年5月10日のYouTube Liveで放送された「#うちリラ祭」第1番組 『舞台#2 Transition 青嵐コメンタリー』内でサプライズ発表された、青嵐総合芸術院のスタリラ実装決定を祝して、彼女たち三人の武器解説を追加します。スタリラの他校と対応して、星2キャラのクライマックスACTにおそらく武器名がつくはずなので、そちらの解説は実装されてからおいおいと。取り急ぎ、武器そのもの解説のみを取りまとめておきます。


※21年4/9追記。
2021年4月8日から4月20日まで東京ドームシティで開催されているスタァライト展2021 in Gallery AaMo」内の舞台青嵐公演のレヴュー衣装&武器展示において、青嵐総合芸術院の面々(と柳さくら)の武器名が判明したという情報が出たのを受けて、以下に武器名の名称読解と解説を追加しました。


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《青嵐総合芸術院
柳小春:ランタンシールド→【名】ロッソ・プリマヴェーラ
南風涼:スクラマサクス→【名】ヴェルデ・ヴェント
穂波氷雨ウォーハンマー→【名】ジャッロ・ギアッチョ
(柳さくら:シールドソード→【名】桜盾小町)


ランタンシールド: 16~17世紀ごろのイタリアで生まれた、武器と盾が一体化した特異な武器。時にスイス軍の盾とも呼ばれる。盾には着用者の腕と平行して剣身が取り付けられている。同様にバックラー(盾)は篭手とも一体となっているので、文字通り攻防一体。主な用途は夜間防衛、または夜間決闘用の武具として使われた。その名の通り、フラップの付いたランタンを取り付けることができ、フラップをあけてランタンの灯りで相手を目くらましさせることも可能。しかし、その精巧な仕掛けは実戦的ではなかったとも言われる。

スクラマサクス:元々は紀元前から存在している、アングロ・サクソン人が使用していた戦闘用の片刃ナイフであるサクスが原型。このサクスの刀剣サイズ(85~100cm前後)のものがスクラマサクスと呼ばれる。サクスの形状自体は現在の包丁と大きな違いはない。事実、刀剣として廃れた後は日用品の包丁として使われるようになる。スクラマサクスは刃が垂直で、峰側の刃先部分が先端に向かって湾曲しているのが特徴で、サクス同様、斬り付けることに向いた刀剣といえる。西洋の片刃刀剣としてはファルシオンの原型という説も。ちなみに語の意味はそれぞれ古ドイツ語でスクラマが「短い、もしくは深い切り傷を負わせる」で、サクスは「刃、あるいはナイフ」の意。

ウォーハンマー:日本語では戦槌として知られる。原型は石器時代の石斧にまで遡れるが、中世ヨーロッパにおいて、その形状は確立される。片側がハンマーの形状で、もう一方側がつるはしのように尖っているのが特徴。長柄の武器として歩兵に使われたのが始まりで、その後、騎兵が下馬した時に使用する補助武器として、あるいは馬上で使う武器としても使われた。性質としてはメイスと似ているので、基本的な攻撃はハンマーでの殴打やつるはし側で刺突するのが主。その攻撃力は高く、 鎧や兜の上からでも十分なダメージを与えることが出来た。


《解説》
『舞台#2-Transition-』において初登場し、ファンの心を掴んで離さない青嵐の面々の武器から見えてくるのはどれこ個性が際立っている分だけ厄介な面々である事も浮き上がってきますね。これを書いているのはまだ実装前なので、彼女たちがスタリラでどんな物語を繰り広げていくのかはまだ分からない所ではありますが、三人の個性は舞台#2においてそれぞれに立ち向かう99期生と対応しているように思えますね。
少なくとも涼と氷雨は分かりやすい。まひる氷雨ななとそれぞれ因縁を持っていて、彼女たちの武器の特性によって、まひるやななを引き摺り下ろそうとしてくるわけですね。特に厄介なのは涼でしょうか。スクラマサクスの意味する「深い切り傷を負わせる刃」というのは涼自身のトラウマでもあり、心残りでもあり。それをまひるに共有させようとしてくるわけですから、彼女の陽気さとは裏腹に性質の悪い、黒い情念が渦巻いている感じがありますね。
一方、氷雨ウォーハンマーはララフィンの大槌とは対照的に実用性の高い武器であります。なおかつ攻撃力が高い(=氷雨の実力の高さ)わけですが、その高い実用性がゆえに返ってななの実力を実感できてしまい、自ら退いてしまった。自分の実力を知っている以上、邪魔は出来ない。反面、それは中学生のななを突き放してしまう結果となってしまうわけですが、氷雨現実主義な面が災いした結果でもあるのかなとは。舞台#2でななが「氷雨ちゃんの歌に救われていたよ」と言っていたように、氷雨の実力も遜色のないものであるわけですけども、現実が見えすぎているからこそ一歩前へ出られない気質なのかなとも思えますね。
この二人に対して、分かり辛いのが小春です。舞台#2では真矢とクロディーヌの二人と絡んでいましたが、先に説明した二人とはやや様相が異なります。真矢と対峙していたのは、「天才は天才を知る」というような学年主席同士の対面であることは間違いないのですが、必ずしも真矢と小春が対比、というわけではないのですよね。むしろ彼女とは学年主席の立場としてしか接点がないというか。そもそも小春の武器はランタンシールドという、攻防一体となったかなり変則的な武器であることはお分かりのことでしょう。聖翔の面々やスタリラに出てくる他校の面々の武器と比べてみても、その特殊性は明らかと言えます。また舞台#2でも語られているように、「仲間に気を使って、自分がやりたいと言い出せない」ために役を演じたいという飢餓感に欠ける気質であることが指摘されています。ここまで書くと、なんとなく見えてきますが小春と対比になっているのは実は華恋なんですよね。それも物語が始まる以前の華恋です。舞台においてもアニメにおいても華恋は当初「主役を手にする興味もない」と揶揄される人物であるのが明示されていますが、小春はその天性と気質ゆえに自ら前に立つことはなく、他者が選び出した結果に乗っかっていたのみに過ぎない、いう描写が舞台#2のコミカライズで脚色されていて作品への上手な肉付けとなっているのですが、当初の華恋が「主役を手にする興味」もなかったのに対して、小春は「望まなくても主役を手にしてしまえた」のが大きな違いなのです。両者とも役を演じたいと言う飢餓感に欠ける点では共通している。もっとも華恋はひかりとスタァライトを演じることに対して強い想いがありますが、アニメでそれも達成してしまい、スタァライトロスになり、舞台少女としての「先」が見えなくなっている状態である事が舞台#2のテーマして浮かび上がってきています。そういう点で、小春はかつての華恋の影を背負っている人物でもあるわけですね。強い想いに欠け、舞台少女としての「先」が見えない、その共通項を別角度から眺めている印象です。武器がランタンシールドであるのも、華恋のそれこそ武器としては非常にベーシックなブロードソードとの対比であるのではないかと。直線と曲線、といった具合に性質は似通ってはいるけど、飢餓感に欠けているプロセスがまったく異なっているのが華恋小春を分け隔てている理由なのではないかと考えられますね。


【名称読解】

ロッソ・プリマヴェーラ:イタリア語表記で「Rosso Primavera」。訳すると「赤き春」となる。Rosso=赤から連想されるイメージには「精神の高揚(情熱、怒り等)」「失格、落第」「女性」「愛」などがある。「Primavera」はラテン語「prima vera」が由来で訳すと「初めの春」、つまり「初春」。あるいは「人生の春」「青春時代」「十代の女性の花盛りな時期」を指す。
ヴェルデ・ヴェント:イタリア語表記で「Verde Vento」。訳すと「緑の風」となる。Verde=緑=若葉というイメージから転じて「若々しい」というニュアンスも含まれる(※anni verdiと表すと「青春時代(=若葉の頃)」の意)。また「Vento(=風)」は占星術4元素の一つとして扱われ、「知的好奇心」「交友関係」「若々しさ」「未来」などを象徴している。
ジャッロ・ギアッチョ:イタリア語表記で「Giallo Ghiaccio」。訳すと「黄なる氷」。Giallo(=黄色)というのは古フランス語の「jalne(ジャルネ)」が語源。中世ヨーロッパの時代から「裏切り者のシンボルカラー」というネガティヴな意味合いを持っており、キリスト教におけるユダのイメージカラーとして扱われることがある。フランス語において「rire jaune(黄色い笑い)」とは「作り笑い、苦笑い」の意味があり、さらにイタリア語では怖い思いをしたときに「Ho fatto il giallo(私は<顔が>黄色くなった)」「diventare giallo di paura(恐怖で<顔が>黄色くなる)」という慣用句も存在している。Ghiaccio(=氷)はラテン語の「glacies(グラキエース)」が語源。「堅いこと」の意味合いを持つ。また「氷」という漢字に由来するイメージとしては「冷たい人間」、逆を言えば「凛とした印象」「厳しさを持った人」というイメージも表している。
(桜盾小町):ほぼ語句の意そのまま。桜の花ことばは「精神の美」「優美な女性」、小町は「評判の美しい女性」の意。


【名称解説】
青嵐の武器名はイタリア語と色の縛りで来ました。これは舞台#2やスタリラでも提示されている彼女たちのパーソナルカラーが元となっていますが、それぞれ三者三葉のニュアンスが読めて取れるのではないでしょうか。舞台でも彼女たちは三位一体として描かれていたように感じますが、武器名を拾ってみるとそのニュアンスも感じ取れるのではないでしょうか。面白い所と言えば、「青嵐総合芸術院という学校名にも拘らず、三人とも「青」を自身の色に纏っていない所でしょうか。小春の武器は「青春」ならぬ「赤春」で自らの「人生の春」を物語り、涼の武器は「青春時代」を「若葉の頃」として物語っている。小春には胸に秘めた「情熱」があり、涼には風吹くような「若さ」を体現していて、それぞれ「青春」の光を表しているようなニュアンスが見えますね。対して氷雨の武器名がかなりネガティヴな意味合いを持っている分、武器の名称だけ取って見れば、青春の影の部分を背負っているようにも取れます。これはもちろん、氷雨とななの中学時代の出来事が影響しているネーミングであるのは間違いないでしょう。舞台#2のコミカライズでもこの辺のエピソードはかなり肉付けされていましたが、あの時点で取った氷雨の行動が彼女の進路や現在の心情に大きく影響を与えているとなると、この武器名の意味合いの重さは頷けるものではないかと思います。
しかし、先に説明した武器解説と合わせて考えれば、彼女たちは武器と武器名でそれぞれの内面と外面を体現しており、同時に補い合っていると考えられるのではないでしょうか。攻撃力の非常に高いスクラマサクスを持つ涼は「若さ」の制御が利かず、ランタンシールドを持つ小春はその秘めた情熱を向ける先を上手く見い出せず、ウォーハンマーを持つ氷雨は武器の高い実用性と罪の意識から視点が高くなっている。三人が揃うと欠けている部分を補い合って強さを発揮するわけなのですが、噛み合わなければそれまでの話。そこで登場するのが舞台青嵐公演に出てきた柳小春の妹、柳さくらです。むしろ青嵐の武器と名称の相関性を考えると、さくらを加えた四人の方がバランスが取れている、と見た方が良いのかもしれません。


uranailady.com


というのは、さくらを含めた4人で星占いで言う所の4大エレメント(4元素)を表しているのではないか。と、今回の武器名を調べる中でそんな推測が浮き上がってきました。ここから青嵐の三人とさくらを当てはめてみると、

火のエレメント(活発・情熱がテーマ):小春
風のエレメント(流動・器用がテーマ):涼
水のエレメント(安らぎ・精神世界がテーマ):氷雨
地のエレメント(堅実・安定・頑固がテーマ):さくら

となります。詳しいタイプや相性の説明はリンク先に譲りますが、見る限りでは当てはまっているのでは、と思えますね。4人が揃うことで、初めてお互いの長所短所を理解しあって「噛み合った」のが舞台青嵐のクライマックスであると考えれば、この4元素説はあながち間違ってはいないのではないでしょうか。どこまで考え抜かれているかは定かではないですが紐解いていくと、意味はありそうな気がしますね。さくらの武器名についても、4元素説を見ると後付けながらも、3人の武器と対応しているのだと考えられます。「情熱」のイメージの小春、「風」のイメージの涼、「水(≒氷)」のイメージの氷雨に対して、「桜(「地」に根を張る植物)」のイメージのさくら、なわけですから結び付けるのにはもってこいではないかと。彼女の武器(シールドソード=刀剣内蔵盾)については舞台で使われているような形状のものが検索してもヒットしないのもあり、創作上の産物である向きが強いものであるので、あまり解説の仕様がないのですが、ななの「輪」と「舞」同様、聖翔音楽学園でいうところの俳優育成科と舞台創造科の間に揺れる彼女の所在が強く表れているのと、先の4元素の「地」の性質が滲んだものが具現化している、のだと考えること出来そうです。ただ、リンクページの相性解説にもありますが、「火のエレメント」と「地のエレメント」は対極に合って、相性が最悪であると説明されています。これを考えると舞台青嵐公演で繰り広げられた、柳姉妹の関係性もなかなか滾るものがありますね。


※以上、追記


とまあ、ここまで三校四校の解説をしてきました。いかがだったでしょうか。新章(書いている時点ではフロンティアの新章はまだですけども)を経て、各校ごとの魅力も深まったんだなと言うことも改めて感じられた所です。一年を経て、それぞれメインの聖翔とは違った愛着も出てきたので、筆者的にはキャラクター部分はだいぶ楽しんめてますね、だからこそ3rdスタァライブもとても楽しかったわけですが。
さて、以下に続く語りは考察と言いますか、筆者独自の憶測ということで話半分にご覧いただければと思います。


題して


《夢大路文のソードブレイカー考》



さて、ここからは凛明館メンバーのひとり、夢大路文について少し考えてみたいと思います。ゲーム開始当初の設定よりシークフェルトからの転入生であることが明言されており、現シークフェルト音楽学院のエーデル「フラウ・ヤーデ(翡翠の君)」、夢大路栞の実姉であることも明らかです。ここでは文の武器、ソードブレイカから考えられうる一考を案じてみようという次第です。
というのも、凛明館メンバーの武器において文だけが西洋由来の武器であるという所が気になったからです。それはもちろん彼女が元々、シークフェルト音楽学院に在籍していたことの証でもあるわけですなのですが、このことを念頭に置くと凛明館新章『名門、落つ』の一節にとても引っ掛かる箇所が存在します。以下に、引用するのが該当箇所。『名門、落つ』第2話後編で文の語る「とある演劇」のあらすじです。


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この「とある演劇」は皆さんもお分かりのとおり、文の過去であることに間違いないのですが、ここで語られる文は自らを「騎士」になぞらえていること、さらに言えば自身を槍使いと明言していることがこの作品においてはかなり重要な部分ではないでしょうか。だって、凛明館に在籍する文の武器はソードブレイカなわけですから。


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もちろんこれは聖翔を中心にシークフェルト、凛明館、フロンティアを巻き込んだレヴューオーディション「Re:LIVE」の始まる以前の話ですので、完全にIFの話でしかないのですが、上記の物語を信じた上で、シークフェルト在籍中にレヴューオーディションが行われていたら、文の使っている武器は槍である可能性が大きいわけです。それが凛明館に行ったことでソードブレイカに変わった。この変化の意味するところは何か、というのが本項の疑問点です。それを紐解くにはまず、シークフェルトの新章『死にゆく王と四人の騎士』を見ていく必要があります。以下に引用します。

(晶)──戯曲『エリュシオン』。
  神による世界の創造……
  人々による生と死栄光と衰退
  時を越え、場所を変え、回り続ける運命。
  魂の輪廻を描いた、壮大なる叙事詩

~スタリラ・メインストーリー#8『死にゆく王と四人の騎士』第1話より冒頭抜粋~

(ミチル)──戯曲『エリュシオン』。
    それは、三つの時代に演じられ三幕構造。
    天の神、大地の神、火と風と水……。
    美しき神々による天地創造の物語──『神世の章』。

    絶対王者の死と、王位の継承を紡ぐ興亡史──『王位の章』。
    離れ離れになった魂たちが、
    はるか未来で再び出会うまでの奇跡を描いた──『輪廻の章』。

    『神世の章』の翌年は『王位の章』。
    『王位の章』の翌年は『輪廻の章』。
    そして『輪廻の章』の翌年は、また『神世の章』──と。
    一年ごとに演じる章が巡っていく舞台。

~スタリラ・メインストーリー#8『死にゆく王と四人の騎士』第1話より冒頭抜粋~


以上はシークフェルト音楽学院全体で演じられる戯曲「エリュシオン」の大まかな内容です。キャストはエーデル、つまり生徒会メンバーの5人のみ、それ以外の生徒は全て裏方に回り、3年で一組の演劇となる壮大な三幕構成の戯曲であることが示されています。おそらくは一つ一つが独立した演劇でもあり、3章全てを見ることで一つの作品ともなる、そういった形式の演劇なのだろうと思われます。順序は明言されてませんが、晶やミチルが語っているように 『神世の章』『王位の章』『輪廻の章』という順なのでしょう。神の物語、王の物語、人の生死にまつわる物語、と言う風に物語自体も森羅万象、輪廻転生の趣を伴ったもののようですね。新章では『王位の章』が「Re:LIVE」の削劇対象となり、晶たちエーデルがそれを阻止する、という話の流れが繰り広げられました。


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ここで凛明館新章の文の語りに戻ってみると、「騎士(文)は国王に認められ、その力の証として翡翠の宝玉を与えられた」とあります。これを解釈すれば、「当時の生徒会長(フラウ・プラティーン)に認められて、文はフラウ・ヤーデとしてエーデルとなった」ということでしょう。それで次に「果ては未来の国王か、とまで言われた」とありますね。これらの部分はシークフェルトの新章で描かれた、戯曲エリュシオン『王位の章』の配役とも深くかかわってくる記述です。ちなみに新章での配役はこんな感じです。

王位の章の配役内訳
死せる王(フラウ・プラティーン-王者-):晶
宰相(フラウ・ザフィーア-知恵-):ミチル
将軍(フラウ・ルビン-情熱-):メイファン
侯爵(フラウ・ヤーデ-慈愛-):栞
騎士(フラウ・ペルレ-可能性-):やちよ


ここで注目したいのは『王位の章』での主演の死せる王と騎士の関係性について。劇中の物語「死せる王」はかつて王国最強の騎士と称されるほど屈強さを誇っていましたが、長年の統治による疲弊と老いによる弊害で暴君と化し、反乱を起こされて下野する中、王冠にはめられていた宝玉とそれを守る部下たちを探し出し、「王者たる意志」を見つめなおすというもの。その中で騎士は死にゆく王の後継者として「次なる王」となる意味合いも含める重要な配役として描かれています。この関係性は、現実のエーデルたちにも影響のある配役として新章では描かれており、実際、『死にゆく王と四人の騎士』3話後編晶がやちよに対して次期生徒会長候補としての可能性に言及している描写が示されています。
これを踏まえると、文の語りは「騎士(文)が未来の国王(フラウ・プラティーン)として嘱望されていた」ということとなります。しかし、これには少し疑問点があります。というのも、シークフェルトのスクールストーリーや星4、星3キャラを見る限りでは、少なくとも今の年次で行われた戯曲エリュシオンは『神世の章』であるからです。


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このように『神世の章』はいわゆるSSRキャラとSRキャラとして現行のエーデルたちで登場してきている点も踏まえると削劇で守った『王位の章』は次の年次、つまりは晶とミチルが三年次に行う演目だと推察されます。この事から昨年、文がまだエーデルにいた時期に公演された章は『輪廻の章』ということになります。しかし、文が語るイメージは『王位の章』。これはどういう事でしょうか。この不可解な齟齬を埋める鍵となるのは他ならぬ、文の妹である栞の存在です。
彼女は現在、中等部三年に在籍しながらも、晶に見出されて、姉と同じフラウ・ヤーデに任命されるというくだりがスクールストーリーの序盤で描かれていましたが、こういった事実があるように、実力主義な校風のシークフェルトにおいては実力さえあれば中等部からも選出されるというのは大いに有り得るわけですね。これらの点を踏まえると、文も同様にその才能を認められて、中等部時点からエーデルになっていた可能性がかなり大きいように思えます。中等部三年でエーデルになっていれば、その年の戯曲エリュシオンは『王位の章』ですから、『名門、落つ』での文の語りも筋が通ることになります。


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しかし、続く語りを読むと中等部でエーデルに選出された文がその自信から態度が傲慢になっていき、なおかつ姉の後を追って中等部に入学してきた栞の急成長ぶりに脅威を覚えて、演技に精彩を欠いていった様が読み取れます。さらには「飛び級」して選ばれたことを妬んだのか、当時の他のエーデルたちの風当たりが厳しかったことも読み取れますね。恐らくは彼女をエーデルに選んだ先々代のフラウ・プラティーンは味方だったのだろうけど、先々代のエーデルから選ばれた先代のフラウ・プラティーンには覚えが悪かったりしたのかもしれません。また晶とミチルがどの時点からエーデルだったのかはまた別の議論(筆者の想像では高等部になってからかなと思ってます)ですが、どちらにしてもそういった針のむしろで精神的に追い詰められていたかもしれない文に晶やミチルの言葉が届いていたのか、というのも疑問が残るかと。超実力主義のシークフェルトにおいて、一度精彩を欠いてしまうと要求されるものも高い分、立ち直れなくなってしまうのも想像に難くはないところ。こういった経緯を見ている限りでは、文はエーデルの責任感と演じることへのプレッシャー、才能ある妹の台頭への脅威とそれを妬んだ自身の絶望から、演劇を嫌いになる所まで至った結果の退学だったではないかと考えられますね。要するに舞台少女としてのキラめきを失ってしまったのです。


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しかし、捨てる神あれば拾う神ありです。舞台にすっかり嫌気が差すも、両親の勧めで凛明館の普通科に転入してきた文に手を差し伸べてきたのが珠緒なわけですね。良くも悪くも実力主義ではない凛明館演劇科の雰囲気と舞台演劇を志す珠緒たちの人柄に触れて、舞台少女としての情熱を再び持てるようになった───。

…ここまで語れば、文の武器がソードブレイカーになった理由もお分かりでしょう。文はシークフェルトで失った舞台少女のキラめきを、凛明館で取り戻すことが出来たのです。つまり彼女のキラめきは再生産されたのですね。


terry-rice88injazz.hatenablog.jp


TVアニメ9話でひかりがロンドンのレヴューオーディションで失ったキラめきを再生産したのと同じように、文もまた凛明館において再び情熱が目覚め、舞台少女のキラめきを取り戻したことによって、シークフェルト在籍時に持っていたかもしれない槍が再生産されて、ソードブレイカーに生まれ変わった、のではないでしょうか。


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この画像の言葉に表れているように、文自身の気質がシークフェルトの水に合っていなかったとも思いますし、なにより「未来の王を嘱望された事」が彼女にとっては荷が勝ちすぎていたのかもしれません。彼女の武器が攻撃特化の槍から防御特化のソードブレイカーに再生産されたのも、文本人が自分を見つめ直した結果としての心の変化だったと思うと、至極納得のいくものなのではないでしょうか。それだけ珠緒と凛明館の面々に救われた部分があるのではないかと思えてなりませんね。


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ちなみに文がシークフェルトで最後に演じただろう、戯曲エリュシオンは『輪廻の章』。この事実からも凛明館に転入したことはある意味、必然を伴ったものなのではなかろうと思います。それはつまり3rdスタァライブの「ゼウスの仲裁」で栞と和解できたことも含めて、いつの日か夢大路姉妹が戯曲エリュシオンという「約束の舞台」で競演できる奇跡も含めての『輪廻の章』であるのかもなと思うと、いろいろと想像の余地が広がる要素が散りばめられているなあと感じますね。それこそ(舞台少女の)道は一つなんかじゃないと言うのがよく分かりますね。


※12/11追記。
元「フラウ・ヤーデ」の文と現「フラウ・ヤーデ」の栞。
栞の持つ「ヤーデアングリフ」、文の「川蝉」と、血を分けた姉妹であるのにもかかわらず、武器の性質や武器名の意味する所がまったく逆であるのが、非常に興味深いですね。かたや攻撃特化のサーベル、かたや防御特化のソードブレイカと同じ「翡翠の君」なのにここまで違うのには何か理由があると考えたくもなります。もちろん文はシークフェルトにいた時期と、凛明館に転入して以降ではおそらく心境の変化も重なって、「舞台少女のキラめき」を再生産させた事によって武器が変わった、というのがソードブレイカー考の論旨ではありますが。しかし、彼女達の違いを紐解くものもまた「翡翠」なのではないか、というのを武器名を調べながら追記している中でふと思い至ったわけです。
翡翠」という宝石は古来より様々な民族が重宝してきた歴史ある宝石であるのはよく知られていますが、現在は鉱物学的に二種類に分けられています。かつては一括りに「翡翠」と見なされていたものが今は別種の物として扱われているのですね。



翡翠ジェダイト)<硬玉>


ネフライト(軟玉)


といった風に。
ちなみに石言葉も異なっていて以下のようになります。


翡翠ジェダイト忍耐、調和、飛躍
ネフライト知恵とやすらぎ


翡翠ジェダイトネフライト、どちらも「翡翠」として象徴してるのは「成功と繁栄」才能を開花させて、夢や目標を達成させる心強いサポートをしてくれる宝石です。この二つの宝石の違いを生み出しているのは翡翠ジェダイトは夢や自分自身の霊的なエネルギーに繋がる部分が強く、ネフライトは自然との繋がりや自然霊との繋がりを強める傾向が強い、とされています。筆者が勝手に解釈するならば翡翠ジェダイト内向きに秘めた力によって才能を開花させる性質で、ネフライト外的な結びつきによって才能を開花させる性質である、という事は可能なのではないかと考えられますね。
栞は翡翠ジェダイトの強さを持っているから、自身の内なる力と調和を持って、晶と対等に接する事が可能である一方で、文にとって「フラウ・ヤーデ」の荷が重すぎた理由もなんとなく見えてきます。文はネフライトの気質を持っているために、誰かの触媒にならないとその真価を発揮できなかったのではないかと考えられます。シークフェルトのようなそれぞれの個性と個性が鍔ぜり合ってその任を務める、というのは文にとっては本質的に肌が合わなかったではないでしょうか。誰かの意志や夢と結びついて、それを支えていくことで力を発揮するのがネフライトの性質であるからこそ、珠緒の凛明館に賭ける思いに共感できた、ということなのかなと。
栞は自分の強さと役割を理解した上でシークフェルトで攻撃特化のサーベルを手にし、文は珠緒の思いに応えたい、守りたいがために凛明館で防御特化のソードブレイカを手に取った。彼女たちの性質は「翡翠」で結ばれているけれど、その個性は翡翠ジェダイトネフライトのように異なっている。姉妹である以上、同じ部分もあるけど違う部分もあるという関係性は非常に奥深いように感じられますね。


※12/13追記。
文のソードブレイカももう少しだけ。武器解説からもお分かりのとおり、ソードブレイカーの特性から防御に重きを置かれたものであり、その櫛上の峰(鍔)で相手の剣(比較的細身のもの)を折ることが出来ます。反面、通常の形状の剣、例えば華恋やクロディーヌの扱うような剣に対しては、逆に文のソードブレイカーの方が折れてしまう。そういった長所短所のはっきりした武器です。
ここでいう「細身の剣」というのは、解説にも出しましたが栞の持つサーベルの類を指します。つまりソードブレイカーを持つ文は、サーベルを自身の武器とする栞と武器の性質的にとても相性が良いのですね。この辺りもよく出来ていて、彼女たち姉妹の関係性が滲み出ているのもさることながら、3rdスタァライブで披露された「ゼウスの仲裁」でも栞にとって文はいつまでも「理想のかっこいい人」であると表現されているように、武器の面からも姉である文の矜持が担保されている格好なんですよね。実際はそんなことなくて、上に書いた「ソードブレイカー」考でも「ゼウスの仲裁」でも文が(外的な要因によって)自覚していった、精神的な脆さや弱さを妹に見せたくなかった事は明らかです。この辺りは兄弟・姉妹ネタでも良くある「先に生れ落ちた者のジレンマ」を感じる一方で、文は「本当の自分」を見つめ直す点からもシークフェルトを去り、凛明館へと転入していった事は結果的に彼女の運命にとって必然だったようにも思えます。そういった武器の相互関係からも、夢大路姉妹の関係性(姉に憧れ、妹へ敬意を払う)が読み取れるわけですね。
しかしそういった姉妹の美しい姿を浮かび上がらせている一方、スタァライト・スタリラ内において「細身の剣」はもうひとつ存在しているんですよね。解説でも提示したように、レイピア「細身の剣」です。何が言いたいかはお分かりでしょう、そうです。武器の性質を考えていくと夢大路文天堂真矢に勝てる可能性が高いわけですね。もしくは勝てないにしろ、真矢にとっては相当にやり辛い相手だということに違いありません。持っている武器からすれば、文はまさに天敵だといっても過言ではないでしょう。ソードブレイカーの峰(鍔)に捕まれば最後、レイピアは折られてしまうわけですから。もちろんこれは真矢の志向しているだろう、正面からぶつかり合ってキラめきを奪い合う正攻法の対決ではなく、搦め手を攻めるやり方なのでどちらにしても分の悪さが目立つものだと言えます。文も一時は「いずれはシークフェルトのトップに立つ者」と目された実力の持ち主ですから、真矢と対等に渡り合える技量は十分あるのだと思われますね。
真矢との対比で考えるならば、「トップで居続ける者」「トップ(の場)から自ら下りた者」という、真矢・クロディーヌの関係性とはまた違った角度からの対比となるのも面白いところ。もちろんこれは文と晶の関係にも言えそうな対比テーマでもありますがそれとして。トランプに例えれば、最高位であるスペードのエースに対するワイルドカードとしてジョーカーというのが真矢と文の関係性であるのだと思います。実力差はある、しかし攻め方によっては、最強に対する切り札となりうる。同じ立場になった経験がある分、文には真矢に勝つ糸口が少なからずあるといった所でしょうか。
と、ここまで書くと夢想したくなるのは夢大路姉妹真矢クロディーヌレヴュー・デュエットでしょう。血を分けた本当の姉妹と「擬似姉妹」として描かれた二人の対決、ドリームカードとしてはかなり美味しい組み合わせかと。このカードが何かしらの展開で成立したら、どんな戦いやドラマが繰り広げられるのか。興味は尽きませんね。


以上、追記終わり。


とまあ、以上が夢大路文のソードブレイカーにまつわる一考です。ここまで語ったことを鑑みると、文が珠緒と懐刀の関係になっているのは非常に可能性のある話として、美味しいネタでもあるよなあ、ということを『名門、落つ』の第2話を見てからぐるぐると考えていた次第です。まあ、公式で明言されている部分が少ないので完全に筆者の中での妄想でしかないのですが、一応筋が通る話なのかなあとは思います。筆者もスタリラのシナリオを全て通読してるわけではないので、穴があるかもしれませんので、その場合はすみません、先に謝っておきます。


とはいえ、こういうことを考えると、元々の文の武器は何だったのかなとも考えたくなりますよね。ほら、槍にもいろんな種類ありますし。引用したゲーム画像ではスピアーらしい形状をしてますが、それだとフロンティアの美空と被ってしまうのでそこは無視して考えると、以下のようなのが見つかりました。


グレイブ:槍の穂先を剣状にした武器。日本の薙刀もその一種として西洋の書籍では紹介されている。剣状の刃を持っていることから、突くだけでなく斬りつけたり、振り回す攻撃も有効な武器でもある。16世紀辺りになると儀礼用としても扱われることもあり、見栄えのする大きな刃と豪華な装飾を備えた物が増えた。また刀身の背の部分に鉤やをつけたものも存在している。また18世紀のフランス革命児に農民や市民が肉切り包丁の棒の先につけたものもグレイブと呼ばれた。



どうでしょう。槍という条件を満たしつつ、その後、傲慢になっていく様も刃の巨大化や豪華な装飾でフォローできますし、なにより攻撃力も非常に高い武器であることも先ほど語ったシークフェルトのエーデルの扱う武器としての条件を満たしているのもポイントが高いのではないかと思われますがいかがなものでしょうか。なにより説明にも書きましたが、グレイブ=日本の薙刀なので凛明館に行っても、そのまま転用が出来てしまうのもいいですね。というわけでほとんど妄想の世界ですが、ついでに薙刀の説明も以下に。


薙刀:日本固有の長柄武器。形状によって刀身の幅が狭く反りの少ないものは静御前にちなんで『静型』、逆に刀身の幅が広く反りが大きい物は巴御前にちなんで『巴型』と呼ばれている。武器の特性としてはてこの原理を使って、振るうことで通常の刀剣よりも鋭い斬撃が繰り出せる事が最大の強み。江戸時代には婦女子の武芸の嗜みとして普及し、武家の家では嫁入り道具としても持参された。



というわけで、文がキラめきを失わずに凛明館へ転入した体でレヴューオーディションに参加したら、というIFで考えるとこうなりますかね。持っている薙刀は当然巴型で。防御特化の武器でなく攻撃特化の武器を持っても、珠緒から離れられない、みたい関係性はそれはそれで捗る?のではないかと思います。

※……今更ですが薙刀は香子の武器ですよね。前のめって書いてたからか、頭の中から抜け落ちていた…というわけでもないですがまあ、もしかしたらという事で見逃してください。

以上の語りは蛇足ですが、二次創作を考えるにあたってはなかなか興味深いネタなんじゃないかなあとは感じてます。最後の方は筆者の想像がかなり入ってるのは否定しませんが、こんなことがあったらいいよねということでご容赦を。
そんな感じでスタリラ各校武器解説は以上です、思ったより長くなってしまいましたが最後まで楽しんで読んでいただけたのなら幸いです。ありがとうございます。
それではまた次の記事で。

音楽鑑賞履歴(2019年10月) No.1346~1355

月一恒例の音楽鑑賞履歴。
10枚。最近のペースにしてはよく聞けた感じですね。個人的にはもうちょっと聞きたいけども。
10月はスライ&ザ・ファミリー・ストーン&ウェザー・リポート特集でした。
特にスライは今まで聞いてこなかったのでわりと新鮮に聞けた感じですね。
台風などいろいろな事が10月中に通り過ぎていって、いつの間にやら気温もだいぶ下がって、上着を着るくらいには寒さが出てきましたね。
気づけば今年も年末に差し掛かって、一年が過ぎ去っていくのが年々早くなっていっているようにも思えます。
なんだか色んなものに押し流されていきそうでもありますが、しっかりしがみ付いて日々をすごしたいです。
というわけで以下より感想です。


CHAOSMOSIS

CHAOSMOSIS

  • アーティスト:PRIMAL SCREAM
  • 発売日: 2016/03/18
  • メディア: CD
16年発表12th。前々作に参加した、ビヨーン・イットリングを再び起用した作品で、サウンドもその「ビューティフル・フューチャー」を踏襲した、80年代オマージュ的なエレクトロポップ路線に向かったものとなっている。「スクリーマデリカ」の再来なのかと問われると明確にノーであり、趣はかなり異なる
というのも、このアルバム自体はビート主体というよりは非常にメロディと歌を前面に押し出している内容であるからだろう。シンセの人工的な儚さに包まれた、刹那的なメロディがこのアルバムのトーンであり、ビートはそこに携えるものととしてしか機能してない印象を受けるか。
その点ではポップマナーに遵守した作品であり、目新しさはないのも事実であるが、歌ものへとシフトしたのは年かさを重ねた結果のオーソドックスへの回帰のようにも思える。枯れて老け込むにもまだ早いがほんの少しクラシカルに攻め入ったアルバム、なのかもしれない。煌びやかの中に熟練を感じる一枚か



ディスタンス・インビトウィーン

ディスタンス・インビトウィーン

16年発表6th。活動休止期を挟み、オリジナルアルバムとしては6年ぶりの新作。バンドとしても、新メンバー(元ズートンズのギタリスト)を加え、名実ともに第二期の船出となった感のある内容。原点回帰といえるのかどうか、彼ららしい神秘的な響きを帯びたサイケサウンドを重ねてきた年輪で奏でている。
本作は下手に作りこまず、録音もほとんど一発録りのラフなタッチで作られており、彼らにしては比較的ロックサウンドに寄ったサウンド。1stの複雑怪奇さはないが、味わい深い。特徴的なのは今まで、オルガンやメロトロンといった鍵盤のバリエーションにシンセサイザーが明確に加わっているところか。
最新のものというよりは、アナログシンセっぽいのが彼ららしいところではある。しかしシンセの導入が思いの外、功を奏しているように思う。もともとアナログでトラッドな感覚の神秘性が魅力だったわけだが、シンセが加わったことで、味わいそのままにわかりやすさが増した印象を受ける。
経年による洗練と熟練の上に、新味を加えながら改めてサイケを演奏しているのは、シンプルな素描のタッチも相俟って、ベテランらしい熟成度の高さも感じさせる。若々しい勢いは失われど、バンドの旨味を深く感じさせるアルバムではないかと。復帰作ながら気負いのなさがらしく思える一作だ。


Whole New Thing (Exp)

Whole New Thing (Exp)

  • アーティスト:Stone, Sly
  • 発売日: 2007/04/17
  • メディア: CD
67年発表1st。JBとともにファンク・ミュージックを開墾したスライ・ストーン率いる人種混交バンドの初作。後にサイケデリック・ソウルとも呼ばれる独特の音楽性は萌芽程度に収まっているが、キレのあるリズムとゴスペル、R&Bに根差したサウンドには、非凡な箇所がそここに垣間見ることができる。
録音は当時の相応なものであるが、そのアイディア自体は現代にも通じるものもあり、現代のヒップホップ勢などにも結びつけられるセンスが窺える内容。サイケ全盛の60年代において、時代と呼応するように未分化の可能性が詰められており、今現在の耳で聞いても新鮮な趣を感じられるのは興味深いところ。
これを聞く限り、スライ・ストーンという人物も当時の名だたる才能たちに引けをとらないどころか、抜きん出ていた個性の持ち主であることが間違いなく感じ取れるのではないかと。アイディアの瑞々しさが失われていない事が何よりの証拠だろう。それだけ魅力ある初作だ。


Dance to the Music

Dance to the Music

  • アーティスト:Stone, Sly
  • 発売日: 2007/04/17
  • メディア: CD
68年発表2nd。原石の輝きであった前作から一気にサイケでポップな方向へ振り切った感じのある、ハッピーな一枚。当時のヒッピームーブメントの熱気がそのままバンドのソウルフルなサウンドと渾然一体となって、サンフランシスコの陽気とともに時代の寵児となっていく様子が窺えるの興味深い。
サイケデリックソウルとも呼ばれた音楽性の背後にはスライ・ストーンが教会の助祭を父に持ち、幼いころから教会で家族と演奏していた経験があり、そこで奏でていたゴスペルが楽曲の下味として、影響を滲ませているように思う。その為かとことん神との対話と祝福を重ねたかのようなアッパーな趣を感じる
このアルバムの突き抜けるようなソウルフルなポップネスはこういったゴスペルの影響や本作に収録され、後に改作される「Higher」にも代表されるように、ドラッグハイ、躁状態のインナートリップが表現されているもののように思う。ベーシックな音楽が時代の空気を帯びて、先鋭化しているようにも見える
同時に人種混交バンドであるのも、影響しているのかバンド自体ある種の境界線がなく、等しい立場で奏でている雰囲気に閉鎖的、あるいは密室感のようなものはなく、アメリカ西海岸の炎天下でプレイヤー、オーディエンス関係なく一緒くたに踊り狂っている開放感は時代の先を行っていたのではないだろうか
さながら黒人コミュニティーで繰り広げられたブロックパーティのような雰囲気がある内容で、当時のヒッピーカルチャーの理想型を提示していたようにも感じるし、後の時代でより強固に結ばれていく、オーディエンスとプレイヤーの関係性を早くも標榜していたようにも思える。あらゆる点で飛躍の一枚だ。


ライフ

ライフ

68年発表3rd。前作よりわずか5ヵ月後のリリース。サウンド的には狂騒的なトリッピーかつハッピーなノリがやや鳴りを潜めて、ソウル色が強くなり、じっくり腰を落とした、歯切れよく弾力のあるボトムラインが顕著になっている。作り込みの深度が増した感もあり1stで見られた荒削りな部分はもう見えない
特にベーシストのラリー・グラハムの成長が著しく、本作のアルバム全編に渡り、スライと並ぶほどに存在感を強めているのが特徴か。特にベースラインのシンコペーションというか、後にスラップベース奏法を発明する御仁らしいうねりが早くも表出しており、個性が急速に確立されているのが目に浮かぶ。
こうしたメンバーの覚醒もありながらも、前作と比べると溌剌さ、あるいはエネルギーの熱気が演奏の勢いではなく、楽曲のアレンジメントに向かっているようにも感じ取られ、完成度も高く、過去二作から洗練されてきているのは分かるが、その勢いが削ぎ落とされてしまった感のある、いま一歩惜しい作品か。
なお余談だがこのアルバムタイトルのフォントをそのまま使用して、自らのアルバムタイトルとして付けたのが、かの小沢健二というオチ。今やったら相当賛否が入り乱れていたかも知れないなと。オマージュではあるのだろうけども。


Stand!

Stand!

  • アーティスト:Stone, Sly
  • 発売日: 2008/03/04
  • メディア: CD
69年発表4th。一般に次作とともにグループの代表作として知られるアルバム。60年代という時代を彩った作品のひとつとしても記憶されるが、その内容は来たる70年代のブラックミュージックに先駆けたものとなっている。その点では雛形を作った、ともいえるし、裏を返せば過渡期のサウンドでもあると思う
とはいえ、この盤には社会的なメッセージや官能性、はたまた内省的な表情など、要素をとってみれば70年代にニュー・ソウルと呼ばれた潮流を形作るものが込められており、スライ・ストーンの音楽性として落とし込まれているのには唸らざるを得ない。サウンド自体は60年代の熱気を伝えるものだが。
このアルバムに至るまで彼らはヒッピーカルチャーの掲げる愛と自由と平等に寄り添い、サイケデリックブームにも接近していたが、同時に人種混交グループであることが、当時の公民権運動の過激化とも重なり、本作はそういった社会的な様相も帯びたものであるのは疑いがないところ。
ゆえにニューソウルの諦念めいた醒めた感じがなく、どことなく状況に対する怒りを伴ったものとなっているのが、奏でられる要素が後の時代と同一ながら、趣を異ならせている点のように思う。69年という激動の時代の移り変わりをドキュメントしているような作りでもある。
後の時代の要素と当事的な時代の熱がバッティングして、今聞くとアルバムのテンションがどっちつかずな向きもあるが、熱気と冷気が混ざり合って、ぬるま湯な感じになっているのが興味深い所。楽曲のアイディア自体は時代を先んじている部分も多々あり、時代を象徴する一枚という印象が強く残る名作だ。


THERE'S A RIOT GOIN' ON

THERE'S A RIOT GOIN' ON

71年発表5th。ベストアルバムを一枚挟み、70年代最初に作られた作品にして、彼らの代表作としても知られる一枚。とはいえ、彼らのディスコグラフィの中でも特異点的な一作のように思える。それ位に本来のバンドサウンドとは趣を異にする内容だからだ。同時に当時の時代背景も大きく反映されている。
泥沼化するベトナム戦争とともにヒッピーカルチャーの収束、はたまた黒人の公民権運動といったアメリカの社会情勢を背景に、本作に漂うのはやるせない虚無感。たった2年過ぎる間に60年代末の喧騒に満ちた熱気や掲げられた理想は夢と消え、残ったのは当てどなく続く、現実と日常。
そういった倦怠感の中で、奏でられる楽曲は空疎そのものとも言える。というより、このアルバムの楽曲は高揚感を削ぎ落とされ、グルーヴもミュートされたような面持ちのファンクビートがストイックかつ無機質に包み込む。そのミニマルな感触が返ってクセにもなるが、そのテンションはローのままだ。
本作はバンドとしての演奏にスライ・ストーンが原型を留めないほどにオーバーダブしていることでも知られているが、そういった彼の疲弊した精神状態と社会背景が同調して、非常にパーソナルな趣が反映されているようにも感じられる。それ故にスライ・ストーンのソロ作の向きが非常に強い。
バンドの代表作であるが、このような側面な為、バンドの全容を捉えるには不向きな作品である、というのも事実ではあるがそれ以上に時代と呼応した名盤であることも疑いようがなく、中々たち位置の難しい作品という印象が先行する。だからこその不思議な魅力と引力に引き寄せられる一枚でもあるか。
熱狂もなく、クールに冷めていると言うよりかは、草臥れた雰囲気にぽっかりと穴が空いている。そんな諦念にも似た感情でリズムとグルーヴが乖離した、唯一無二の音は後に様々に参照されるが、再現するには作った本人すら難しい類の音楽だろう。事実、本作以降は徐々に下降線を辿っていく事となる。


FRESH

FRESH

フレッシュ

フレッシュ

73年発表6th。メンバーチェンジを経て、前作のグルーヴを廃した空虚さから、肉感が戻ってきたように感じられる作品。とはいえ、60年代の姿は皆無で、低体温なグルーヴが這うように繰り広げられるような内容となっている。少なくともハイになるような高揚感はないが、贅肉をそぎ落とした音に聞こえる
その素っ気無い感じがスタイリッシュに聞こえるから不思議な所で、華やかさの影形も無いが、弾力感のある筋肉質かつマットな感触は、アシッドジャズのニュアンスに近いかもしれない。無論、このアルバムにダンサブルな要素は皆無なのではあるが。質感のつけ方は時代の先を行っている印象を受ける。
楽曲もアップテンポの曲がなく、ミディアムテンポでじわじわとグルーヴを渦巻かせる楽曲がほとんどなので、わりと遅効性というか、スルメ系の横ノリがメインのアルバムである事は疑いが無い。時代の金字塔である前作の余波がありつつも、心機一転を目指した作品として十分に聞ける一枚だ。

さて、ここからは91年盤と08年盤の違いについて。
ファンにはよく知られている事実のようだが、91年に再発された日本盤CDは何らかの手違いが発生して、一曲目の「In Time」を除く全ての収録曲がオリジナルと異なるミックスとなっているという不思議な内容となっている。
それも公式サイドが意図していない収録内容であり、08年盤にはオリジナル音源と91年盤に収録された音源を改めて、公式リリースしている事からも91年盤の不可解な手違いが目立つ。実際聞き比べてみると、その違いは誰が聞いても明らかなほど。曲によってはアレンジも全然違う。
聞き比べてみると、オリジナル音源はスライがかなりオーバーダブを重ねて、加工している音源であり、91年盤収録分はスライの手が加えられる以前の素の音源のように聞こえる。手が加えられていない分、バンドの演奏は非常に当時らしい質感を伴ったサウンドに聞こえ、悪くない内容。
反対にオリジナル音源はスライがマスタリングまで弄っているのか、楽器の定位まで変わっている箇所もあり、91年盤の演奏を素材にして思い描く形に変えていった、と推測できる。興味深いのはそのスライのセンス。73年の時点で、トラックメイカーのようなサンプリング&ミックスとビートメイクをしている
ソースこそ自前ではあるが、多重録音を駆使して、楽曲を加工していくその姿はやはり、ヒップホップ以降の手法と同一のように思う。当時の多重録音がオーケストラ的に楽曲に色を塗り重ねていく一方でスライは演奏を加工し、楽曲の形そのものを変えてしまう事に専念していた、のだと思う。
その傾向は前作にも現れていたのだろうけども、このように予期せぬ手違いとはいえ、加工以前/以後の音源が聞ける事で、スライ・ストーンの天性のセンスが検証できるのは興味深いところ。スライ・ストーンサウンドの研究には欠かせない作品だろう。この作品が最後の輝きだとしても、その価値は不変だ


Night Passage

Night Passage

  • アーティスト:Weather Report
  • 発売日: 2008/03/01
  • メディア: CD
80年発表9th。一応、スタジオ録音なのだがオーディエンスを招いて2晩計4ステージに渡って披露されたスタジオライヴが収録されているというアルバム。最後の曲のみ、日本公演からの収録となっている。この為、以前までの多重録音がされておらず、一発録りの即興性が重視されている作品でもある。
この盤は「WRが4ビートジャズに回帰した」と評価されており、デューク・エリントンの楽曲を取り上げているのを始めとして、非常にクラシカルな4ビートに乗せて、WR独特のフレーズが飛び交う、という不思議な感触となっている。フュージョンでありながらジャズでもあるという他では味わえないテイスト。
「8:30」におけるスタジオ録音でも見られた、つかみ所のない4ビート曲の延長線上というのがこのアルバム全体の印象であがるが、楽曲がかなり抽象的な印象なのは、メンバーたちの卓越した演奏力による即興性を引き出すものである意味合いがかなり色濃い。事実、本作は楽曲よりはプレイが際立っている。
ジャムセッションではないが、楽曲の枠を決めて、メンバーがその枠を超えた演奏をいかにするか、というテーマの下に行われているように思え、それが出来てしまうほどにメンバーの能力が高いことも窺える。だからこそシンプルな4ビートで奏でられる。達人たちの自由闊達な技を見る感じだろうか。
そういったジャズの即興性と自由度を再確認するとともに、フュージョンの限界値やあるいはニューエイジ/アンビエントの可能性まで感じられる内容は非常に興味深いものだろう。フュージョンの道を切り開いてきたグループのひとつの境地ではないだろうか。到達点ともいうべき味わい深い一枚だ。


’81

’81

82年発表10th。スタジオ10作目は77年から始まった黄金期体制の最終作。本作を最後にジャコ・パストリアスピーター・アースキンが脱退、ソロ活動に専念していく。そういった清算の向きのある作品だが、ザウィヌルの個性が再び強く反映された内容となっている。むしろ77年以前とダイレクトに結びつく。
黄金期体制はどちらかというとジャコ・パストリアスという望外の人材を得たことでのプレイヤー志向にユニット自体が傾倒していった時期でもあるから、ジャズやフュージョンのコンボとしては技巧に突出しすぎていた向きも否めず、前作はその極みのようなスタジオ(ライヴ)録音だった。
反対に今回はザウィヌルが主導権を握ったような印象を持つ。というのも既に脱退の決まった二人も次の指針が決まっており、WRというユニットで自分のなすべきことはやりきった状態であるはずなので、おのずと一歩下がった状態でプレイに専念してるようにも聞こえる。
聞いている限りでは、ザウィヌルは突出ではなく、調和や統率をバンドの理想として持っていたのではないかと思える。あくまでアンサンブルを念頭に置いた上で、プレイが傑出していたのが黄金期メンバーであることは疑いようもない所。だからこそそこからの反動というのが本作なのではないかと。
70年代中盤までのサードワールド的なサウンドと前作の4ビート回帰が重なる中で、黄金期メンバーがそれを奏でるという所を見れば、この盤がセルフタイトルであることはWR黄金期の完成形を見たから、なのだと思う。同時に新たな出発点でもある。
今までと違うのはこの新たな出発点に、脱退する二人は参加しないというだけ。道は分かれたのである。そんな分岐を見せたアルバムなのだと思う。その一方で、リズムマシーン導入した曲や80年代へ向けてジャズの可能性が散りばめられた作品だとも感じた。ザウィヌルがバンドリーダーとしての存在感を改めて示した印象の一作。

「少女☆歌劇レヴュースタァライト」アニメ#9 Act.1 永遠、心、離れて 


第9話『星祭りの夜に』
今回からBD-BOX最終3巻収録内容です。7話から続いていたばななのエピソードと戯曲『スタァライト』の全体像がおぼろげに見えてきた回でした。最終巻のトップバッター回として、今まで伏せられていた情報が開示されていくのに、こちらの処理が追い付かない程には密度のあるものだったかと思います。
さて、更新の日付を見てもお分かりの通り、この9話の感想はすでにアニメ版最終話が放映された以降に書かれているものになります。筆者も既に最終回まで視聴済みではありますが、延長戦という体で感想を続けさせていただく事をご了承ください。
理由は簡単で、いろいろ考え込んでいたら書くペースがどんどん低下していったという、よくありがちなものです。ここまで続けたのならやはり完走はしたいし、一方でリアルタイムで更新できなかったのが心苦しくもありますが、どちらにせよ最終話まで書いていけたらなと考えております。アニメ放映終了から1年が経過、再放送も先日終了していまいましたが、最後までお付き合いいただければ、と。
なお今回の更新は前編(Act.1)とさせていただきます。書き進めるうちに文章と書きたい内容が雪だるま式に増えていった結果、あまりにも長くなりすぎてしまったので、一旦区切りのいいところで切らせていただきました。この前編の文章だけではてな記法込みで3万字超ほどあります(本文は多分くらい2万字くらい?)ので、読む際はそれを踏まえてご覧ください。
物語の結末は知っていますけど、なるべくそこを意識せずに残りの話数を書いていくつもりです(説明の必要性があって先回りして語るかもしれませんが)。それにまだ作品展開が完全に終わったわけではないですし、こちらとしてはじっくり納得の行く形で書き上げて行きたいですね。今回の後編(Act.2)ともども、気長にお待ちください。


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今回も舞台#1の筋なども含むネタバレですので読み進める場合は以下をクリック(スマホなどで読まれている方はそのままお進みください)

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音楽鑑賞履歴(2019年9月) No.1341~1345

月一恒例の音楽鑑賞履歴。
9月は5枚。いや、なんでか聞く余裕がなかったってのと、音楽探訪をSpotifyに向けてから、じっくり聞く機会そのものが少なくなってる感じはありますね…。Spotifyで聞くのもいいんですけど、時たまゆっくりと聞きたくなる時もあります。もう少し枚数聞ければ良いんですけども。
5枚ですがそれとなく満遍なく聞いてると思います。特定のアーティストを集中して聞いたわけではないですね。9月を過ぎて10月。夏の暑さは鳴りを潜めて、ようやくだんだんと涼しくなってきました。体調を崩しやすい季節でもあるので気をつけていきたいですね。
というわけで以下より感想です。




Primal Scream

Primal Scream

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・89年発表2nd。前作のネオアコサウンドから一転して、70年代的なルーズ&グラマラスなロックンロールになった一枚。はやくもバンドの特徴である振り幅の大きい変化が顔を出しているわけだが、この気だるくケバケバしいダーティなサウンドは今思えば、90年代の前哨戦でもあるように感じられるか。
グラムロック回帰な一面もあるが、その中から後につながる要素としてどうにもならない、やるせなさを掬い取ってくるのは慧眼というべきなのかどうか。事実、次作に収録される「Loaded」の原型である「I'm Losing More Than I'll Ever Have」などはやはりバンドの分水嶺であったようにも感じる。
というよりは、時代に呼応するか否かの岐路に立たされていたというか。倦怠感からくるやるせなさを音楽でどう表現するかとなった際に、どこに快楽を求めるかという点で彼らはロックにそれを求めず、アシッドハウスのドラッギーでトリッピーなビートを選択した、というのは大きいように思う。
この作品におけるダルでルーズなサウンドストーンズ的でもあると思うし、それがアルバムの魅力なのだろうけど、これを当時に送り出せるボビー・ギレスピーのブレのなさは今なお一貫したものなのではなかろうかと。どことなく来るべき次の10年を予見していたようにも思える佳作なのではないだろうか。




16年発表SG。同名アニメの前期主題歌集。OP曲、ED曲どちらもうねりのあるベースラインを主体にした、ブラックミュージックを基調にしたポップな楽曲。特に主演キャスト二人の歌唱するED曲はモータウン調R&Bをベースにゴルペルチックなコーラスを重ねられたリズミカルな一曲。
OP曲はいまや大御所作詞家である森雪乃丞を起用。作品を見事にパッケージングした歌詞内容は女児アニメの可愛らしさの中にも機知を感じるクレバーな構成。割と驚くのは録音ミックスで、歌手の歌声を前面に押し出しているものとなっているのは、往年のポップスのような攻めを感じなくもないか。
同シリーズの楽曲をいくつか聴いていても、この「魔法つかいプリキュア!」のOP曲の押し出し方は聞いてきた中でも、結構極端な印象を持つか。それが悪いというわけではなく、ボーカル曲としては割りと王道でもあるようには思う。どちらにせよ、作品世界を上手く伝える楽曲シングルだろう。



Vol. 1-2-Degradation Trip

Vol. 1-2-Degradation Trip

Amazon
02年発表2nd、の完全盤。この年の6月にリリースされた単体盤から楽曲を増補する(というより、当初予定していたトラックリストの)形で送り出されたもの。二枚組120分超の大作でかなり聞き応えのあるものとなっている。内容はAlice In Chainsでのバンドサウンドの延長線上の作りで、ダウナーな印象。
このアルバムを発表する際に、レーベルの移籍、またAlice In ChainsのVo、レイン・ステイリーがオーバードーズ亡くなるという悲劇を経験しており、その影響がこのアルバムでも滲み出ているが、ヘヴィかつダウナーなドゥームサウンドはバンドでもソロでも変わらぬ魅力として健在だ。
陰惨な印象だがウェットさはなく、スラッジな感触も受ける乾いたサウンドはサザンロックやブルースな趣も感じられ、味わい深いものだろう。この時点で活動休止中であったAlice In Chainsサウンドそのままでもあり、フロントマンの一人として面目躍如といった所。実際、バンドが再始動するのに4年要す
いろいろと複雑な状況下で生まれている作品だが、へヴィなサウンドにしろ、無骨なアコースティックサウンドにしろ、深みを増して、ソングライティング的には熟練したサウンドとなっているのが、このアルバムの美点であるし、バンドの次なるフェーズへと繋げるバトンとして、意義のある作品だろう。



16年発表7th?あるいは企画盤。大滝詠一の死後三年経ってから、発表された他アーティストへ提供された楽曲のセルフカバー曲集。家族にすら存在を知られていなかった音源が発見されたことでリリースに至った作品でもある。それゆえにレコード会社には「奇跡のニュー・アルバム」として位置づけられている
既存曲もあるがなんにせよ、降って沸いて出たような貴重な音源ばかりであり、ファンにとってはうれしい誤算といった所。聞く限りでは「A LONG VACATION」や「EACH TIME」で行われた方法論が提供楽曲にも応用されている印象で、この二つのアルバム要素を因数分解して再構築しているような作りが目立つ。
もちろん大滝らしい、アメリカンポップスからの引用だと思われるメロディやリズムの選択がそのままJ-POPへと適用されているのは興味深くもあり、同時に先の二作に込められた要素の密度の濃さがうかがえる。「一粒で二度も三度も美味しい作り」となっているのが、このアルバムの良さだろう。ファンにとっては新たな研究アイテムの誕生を素直に祝いたくなる一枚だろう。


16年発売劇中歌集。同名ミュージカルアニメ映画の劇中歌アルバム。全楽曲の作詞をこの年のTVシリーズ魔法使いプリキュア!」OP曲の作詞も手がけた森雪之丞が行っており、主題歌はさかいゆうが担当、オーケストラもばっちり使っているという、豪華な布陣で構成されているのが目を引く。
そういったスタッフィングも相まってか、劇中歌の楽曲はキャストの「歌」を見せるための録音となっており、演奏もまたそこに気を配りつつ、邪魔をしない形で鳴り響かせている。そのバランスがいい塩梅のように聞こえて、アニメの音楽にしていい録音のように思えるか。映画を彩る歌としても機能している
なかでもゲストキャラ、ソルシエールを演じる新妻聖子の歌唱が白眉の出来だろう。さかいゆう作曲の主題歌とともにこのアルバムのハイライトとなっている印象もあり、本編を知らなくても、一聴に耐えうるものとなっているかと。劇中歌集という以上にきちんとした良盤という印象の残る一枚だ。